粋な人?

嘗て日本経済新聞に掲載された記事、「粋な人になろう」(13年10月11日)は、冒頭次の言葉で始められます――日本独特の美意識として粋(いき)という言葉があり、身なりや振る舞いが洗練されている人を表すのに良く使われる。格好だけでなく、人当たりも爽やか。存在感があるが、ひょうひょうとして必要なときには頼りになる。年を取っても活躍している人の中に、粋な人が多い。

粋であるという受け止め方は、人夫々で結構違うものでしょう。国語辞書を見ますと、粋とは「1 気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること。また、そのさま」「2 人情の機微、特に男女関係についてよく理解していること。また、そのさま」「3 花柳界の事情に通じていること。また、花柳界」と書かれています。

以下、私が思うところを簡潔に述べて行きますと、粋というのは上記の通り、何と無しに「あかぬけしていて、しかも色気があること」を言うのでしょう。そしてどちらかと言うと此の言葉は男女の関係の中で、取り分け女性から男性への評として語られることが多いように思います。しかしそれは往々にして表面的であり、外見上の事柄でしかないのではないでしょうか。

では内面で粋な人とはということですが、その意味するところは良く分かりません。大体が人の内面というのは極めて分かり難いもので、またそう簡単に人の内面の観察など出来ないでしょう。況してや男女の関係の中で粋な人と言った場合、その殆どは「身なりや振る舞い」に偏重し、内面の観察が十分為されていないことが多いように思います。例えば愛嬌にしても取り繕っている部分もあるかもしれず、それも色気と言えば色気ですが内面か否かは分からぬものです。従って人間の内面につき粋であると表するは極めて難しく、此の表現は相応しくないと思われます。私自身は、内面を含めた人の評価には「人物」という言葉を使うべきだと思っています。

人物というのは、その人の生き方に依るものです。外見での人物判断には必ず失敗があります。孔子でさえ澹台滅明(たんだいめつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かったため「大した男ではなかろう」と思っていたら、実は大人物であったという失敗談が『論語』にもある位です。粋であろうがなかろうが、我々は常々その人の内面を見て人物を評価して行く、といったことが必要であります。バランスを取ることが非常に大事である、とは『論語』に一貫して流れる孔子の教えです。内外両面バランス良く備わってはじめて一種の人間的魅力を有し、人物になって行くのだろうと思います。正に、文質彬彬(ぶんしつひんぴん)であることが求められるのです。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年3月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。