『酔古堂剣掃』(すいこどうけんすい:中国明代末の読書人・陸紹珩が生涯愛読してきた古典の中から会心の名言を収録した読書録)に、「貧にして客を享(もてな)す能(あた)はず、而(しか)も客を好む。老いて世に狥(したが)ふ能はず、而も世に維(つな)がるるを好む。窮して書を買ふ能はず、而も奇書を好む」という言葉が採録されています。
大変味のある言だと思います。私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は上記の言につき次のように言われています――人間味というものは案外矛盾のなかにあるものである。貧乏で客を歓待するだけの余裕がない、しかも客が好きである。やたらにお客を引っ張りこんでくる。奥さんは渋面を作っている-なんていうのは男の一つの味だ。老いてますます頑固で当世に合わぬ。しかもその世間がいちいち癪(しゃく)の種である。世の中を癪に障(さ)えながら世の中に維がれている。貧窮して本が買えない。しかし珍しい本が好きだ。こういうのは人世の有情である。天地有情である。この矛盾のごときところに人間の旨味(うまみ)がある。
先生はまた御著書『百朝集』の中で次のようにも述べておられています――貧士の客好きは実に多情である。(中略)主人公は老来(ろうらい)ますます世間と逆行して、見るもの聞くものおもしろくない。そのくせ白眼超然としてはおれなくて、その癪な世の中が気になってならぬ。そういうのに限って、たまたま銭を持たせると、またしても財布を逆様にして本を買ってしまう。いや、そうでなければつまらぬ男に相違ない。おもしろい人物というものはそういうものなのである。近来こんな人物がだんだん少くなってきておることは事実である。いわゆるチャッカリした奴が多い。こんな輩は世の中の蠅みたいなものだ。
上記に関し私見を申し上げれば、貧にして…/老いて…/窮して…、というのは確かに夫々に一つの情であります。尤も、最初と最後は財力の類、真ん中は健康や年、に関わる問題で若干ニュアンスが違うように思います。勿論一時的には「老いて世に狥ふ能はず、而も世に維がるるを好む」となるかもしれませんが、年を取れば取る程癪もへったくれも無くなるのではないでしょうか。人間年を取り段々と頑固になる人もいますが、頑固を通り過ぎますと例えば、記憶が出来ない自分自身に嫌気が差したり、歩こうにも歩けない自分自身に腹が立つ、といった気持ちに次第に変わって行くのではないかと思います。そして究極的には、之がある意味最終的な癪になる部分があるのかもしれないわけです。
私は、年を取ってからの問題としては、貧にして…/老いて…/窮して…、ということよりも、実際どうにもならなくなって行く自分の身体こそが癪の種になると思います。之は最早、当世に逆行するとか金が無い、といった問題ではないのです。人間というのは残念ながら、思うように行かないということであります。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年4月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。