豊臣時代・江戸時代・現在の大坂城天守閣を比較する

大阪城天守閣の傍らに「大阪城 豊臣石垣館」がオープンした。現在の大阪城、大坂夏の陣ののち、徳川秀忠が城全体を盛り土で埋めてその上に建設したものである。

天守閣は現天守閣の東側の水道施設の場所にあった。その一部を掘り返して、豊臣時代の石垣をみせようというプロジェクトだ。

古地図と古写真で楽しむ大阪歴史さんぽ』(TJMOOK)では、大阪城についても詳しく地図付きで書いているが、ここではその歴史と三代の天守閣について紹介したい。

大阪にとって最大の恩人は仁徳天皇か豊臣秀吉かという論争がある。だが、私は、蓮如上人と徳川秀忠もそれに劣らぬ貢献をこの町にしたと思う。

現在の大阪城の位置は、仁徳天皇が難波高津宮を営んだところそのものらしい。その後も、大化の改新のあとの孝徳天皇の時代とか、聖武天皇の御代にも都だったことがある。

だが、平安時代には、熊野詣での中継地という程度の町になってしまった。「土佐日記」でも紀貫之は、この地を通りながら上陸すらしないで、山崎まで船で遡上している。

ところが、1496年になって蓮如が御坊をここに置き、1532年には山科から逐われた証如上人がここを本願寺とした。この石山御坊がそのまま秀吉の大坂城となり、現代の大阪の町につながっている。

大坂夏の陣のあと、大坂城は家康の孫である松平(奥平)信明に与えられ、10万石のしがない城下町になった。このままだと、小田原と同じ運命が待っていたはずだった。それが、西日本の中心都市としたのは、徳川秀忠の決断である。

秀吉の死後、家康は伏見城に留まって政務を見たことから、徳川家にとって畿内での居城は伏見城だった。ところが、秀忠は二条城を整備して上洛時の宿舎とし、所司代もここに置いた。一方、大坂城を根本的に改修して、西国の抑えとして大坂城代を置き、何人かの小大名を手兵として常駐させたのである。これが、大阪が小田原のような地方都市にならなかった理由である。

現大阪城天守閣
PhotoNetwork/iStock

その大坂城には、それぞれの時代に三回にわたって天守閣が築かれた。豊臣秀吉のもの、徳川秀忠のもの、そして、昭和天皇の即位記念に建てられた鉄筋コンクリートのものだ。そしてややこしいことに、現在のものは、徳川時代の天守台の上に、豊臣時代の意匠を基本にしつつ壁は徳川風に真っ白な漆喰で固めた物なのだ。

歴史考証も何もないが、清楚にして華麗な「ええとこ取り」でなかなか良くできているので、その後の、復元天守閣の規範のようになった。これはこれで、昭和の名建築なのだ。

ここでは、三代の天守閣をイラストにしてみたし、大阪城天守閣のなかでは、豊臣時代や江戸時代の大坂城を復元した模型も展示されている。

ただ、もし現存のよその城の天守閣で、その姿を想像しようとするなら、豊臣時代のものは、伏見桃山城天守閣がいちばん近いイメージだし、映画のロケではよく大坂城として登場する。

伏見桃山城
Thongchai/iStock

江戸時代のものは、名古屋城天守閣が大坂城のものを一回り小さくしたもので、デザインはよく似ている。

名古屋城
PhotoNetwork/iStock

それから、豊臣時代の大坂城はすべて焼けたが、実は現存する遺構がある。本丸北側には山里丸という風雅な庭園がある快適な御殿があったが、滋賀県の竹生島都久夫須麻神社の唐門はここの極楽門を移したもので、豊臣時代の大阪城の唯一の遺構である。

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