「多様性社会」を生きづらく感じる理由

黒坂岳央です。

人類はかつてない多様性社会を迎えている。昭和や平成初期と比べても、発言や行動がより慎重に問われるようになり、マイノリティへの無理解が瞬時に炎上の火種になることも増えている。

ちょっとした著名人が苦言を呈したら「差別だ!」と大騒ぎになり、謝罪やスポンサー降板といった大打撃を受ける。さらにそれを見た群衆が暴徒化し、「正義」を免罪符に掲げてストレス解消とばかりに集団リンチに及ぶ。

そんな様子を目にするたび、「本当に多様性社会は生きやすいのか?」という疑問が湧いてくる。

※本稿は大変センシティブな話題を取り扱っており、下記の述べた多様性の前には「行き過ぎた」がつく前提で読み進めてもらいたい。無論、本来弱者の立場を守るためにも、筆者はダイバーシティが正しく機能するべきという本質を忘れてはいないことを記しておく。

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多様性は時に暴力的だ

多様性の定義とは人種や性別、価値観など、さまざまな属性を持った人々が共存している状態であり、個人の違いを認め合い、尊重し合うことだとされている。

これ自体は非常に正しい。相手がどんな価値観、性別、人種であってもそれを理由に弾圧や迫害、差別が許されない社会であるべきだろう。しかし、現代社会は「差別だ」という叫べば問答無用で無敵になれてしまう魔法のように機能する場面がある。

たとえば採用の結果をめぐり、不当な扱いを訴える声がSNSを通じて拡散されるケースが近年増加している。2019年や2023年には、アメリカでアジア系や黒人系の学生団体が大学の選考プロセスに対し「差別だ」と抗議した事例もあった。こうした声が社会を動かす一方で、真偽が不明なまま拡散されることへの懸念も指摘されている。

職場ではパワハラやハラスメントに対する意識が高まる中、対応の難しさも課題となっている。上司がちょっと間違いを指摘したことで部下から「パワハラ」と言われて診断書を提出されて会社で問題になり、逆に上司が精神的に追い詰められたり、退職を余儀なくされるケースも報告されている。

つまり、多様性の理念を悪用することで、本来の立場の弱さが逆に強さとなり、社会的に優位に立つケースも生まれかねない。周囲は正義の名のもとに堂々と一人を集団リンチする。自分にはそれがとても暴力的に感じられるのだ。

多様性で無縁社会が出来る

誰かに注意したり、会話するだけでも騒ぎにされ、リンチのターゲットにされるリスクがあるとなれば、待っているのは「無縁社会」というディストピアである。いや、すでにそのような恐るべき社会は実現していると言っていい。

2017年6月、中国では車にはねられた被害者を完全無視する歩行者が話題になったことがある。その際、「人権も人命もない国だ」と批判が集まった。

しかし、まったく同じように我が国でも助け合いの精神が萎縮している場面がある。困っている人に声をかけたくても、相手にどう受け取られるか分からず、ためらうような空気が社会に広がっている。実際、困っても見捨てられる声も見られるようになった。

筆者は見るからに困っている人を見つけたら、できるだけ助けたいと思うし、実際にそうしている。だが、万が一、親切心を脅威と変換して受け取る感覚の持ち主に出会ってしまったら?と想像するととても恐ろしく感じる。

かつては疑問にすらならなかった「困っている人を助ける」という当たり前の行為が、今では時に人生を左右しかねないリスクを伴う。これをディストピアと言わず、なんというのだろう。

多様性の理念が誤って使われ、言動への過剰な反応や集団的な非難が起きる場合もある。少数の極端な声であっても、それが社会の空気として定着すれば「多様性がかえって生きづらさを生む」と感じる人も出てくるだろう。

だからこそ今こそ、多様性の本来の目的を見つめ直す必要があるのではないだろうか。

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著書4冊/英語系YouTuber登録者5万人。TBS『THE TIME』など各種メディアで、働き方・キャリア戦略・英語学習・AI時代の社会変化を分かりやすく解説。