ド・ロ神父に救われたキリシタンの町:長崎市出津(しつ)集落を歩く

長崎市に来ています。長崎は大好きな町で名古屋に住んでいるときから何度も来ています。福岡に赴任してからはより身近な町となり、仕事を含めると毎月来ているのですが、仕事で来るとなると正直つまりません。

長崎市は広く、赤い点線に囲われたところを市域としています。平和公園と書かれた場所の下のあたりが中心部にあたり、これまではだいたいその辺りを旅することが多かったのですが、今回はその枠を飛び出してみることにします。

上の地図の「西海市」と書かれた場所のやや下の部分、長崎市外海(そとめ)地区の中にある出津(しつ)集落を訪ねることにしました。ここは世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する集落のひとつ。キリスト教の禁教期にはいわゆる潜伏キリシタンたちが、ひっそり暮らしながら信仰を続けていました。この地域からは多くのキリシタンが五島列島などの離島部に移住して信仰を続けたため、五島列島にもキリスト教が広まっていくこととなりました。

マルク・マリー・ド・ロ神父

カトリック出津教会

長きにわたる江戸時代の禁教の歴史が幕を閉じ、江戸時代最末期にこの出津集落にキリスト教の布教のためにフランスからやってきたのが、マルク・マリー・ド・ロ神父でした。ド・ロ神父は出津集落に住む多くのクリスチャンの信仰の場として、私財を擲ってカトリック出津教会を建設したほか、貧しく、仕事もなかった出津集落の人のためにキリスト教の墓地を建立することで仕事を創出しました。

奥に見えるのが授産施設。

授産施設を上から眺めます。

あじさいの向こうに見えるのが見えるのがマカロニ工場。

そしてさらに明治16年から18年にかけて作られた旧出津救助院と呼ばれる施設では授産施設のほか、縫製やマカロニ工場、醬油工場など多くの工場を建設して雇用の創出に努めました。

ド・ロ神父はもともと印刷技術を持つ宣教師として来日していたのですが、印刷だけでなく土木にも明るいかさまざまな事業を立ち上げる起業家としての才能もある多才な宣教師でした。日本国内初のパスタ工場となった旧出津救助院で作られたマカロニは、長崎市中心部に住むオランダ人に売られていたそうです。

ここ、出津には長崎駅からバスで来たのですが、出津文化村バス停の脇には「長崎スパゲッチー」という看板がありました。「スパゲッチー」という聞きなれない言葉が面白くて写真に撮ったのですが、その奥にはド・ロ神父のこの町の雇用創出のための慈愛に満ちた行動があったのです。

救助院と道路を挟んだ向かいに建つ鰯網工場もド・ロ神父が漁業で生計を立てる出津の人の生活を支え、合わせて雇用も創出した施設です。ここは今ド・ロ神父記念館となりド・ロ神父所縁の品の展示が行われています。

当時の計算機なんかの展示もありましたが…どう使うのかよくわかりません。

至る所で見られる結晶片岩の塀。

130年経っても崩れない頑強なド・ロ壁。

出津集落の塀は長らくこの地でよく産出される結晶片岩とよばれる平べったい石を積み重ねたもので、他の地域には見られない特徴的な塀だったのですが、接合部は赤土に藁くずを混ぜたものだったので風雨にさらされると崩れてしまうのが弱点でした。

ド・ロ神父は壁の改善にも力を入れ、赤土を水に溶かし、これに石灰と砂を混ぜたものを接着剤として使用することで長年にわたって崩れない「ド・ロ壁」を考案して、旧救助院の周辺の壁はド・ロ壁で建設しました。宣教師でありながら土木の才能もあるド・ロ神父。そのマルチな才能をいかんなく発揮して羨ましい限りです。

かつて多くの市民が漁で生計を立てていた外海の海。

出津を愛し、来日後は亡くなるまで一度も帰国することなくこの地での布教活動と生活水準の底上げに尽力されたド・ロ神父。真の人間愛に満ちた彼の功績は亡くなった今もこの地で語り継がれています。

この日は雲の多い天気でしたが晴れた日は夕日が美しい長崎市外海地区。サンセットドライブをかねてふらっと出津に立ち寄っていただき、ド・ロ神父によって救われた集落を訪ね歩いて見てもらいたいと思いました。


編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2025年6月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。