株式会社財界研究所より『真善美の追求』という本を上梓しました。来週火曜日17日より発売が開始されます。本書は18年間続く当ブログ「北尾吉孝日記」を再構成したもので、第1巻『時局を洞察する』から数えて17巻目に当たります。今回のブログ本のタイトルに込めた思いにつき以下ご説明します。
私は、大学に入学して西洋の哲学・文学などの書を読もうと思い立った。それまで中国古典を渉猟してきたから、自分の世界観を広げるため西洋の思想・哲学に触れておこうと考えたのだ。
そこで先ず取り掛かったのは、2500年前に生まれたギリシャ哲学だった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲人の入門書を何冊か購入し読み始めた。その時にふと思ったことは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスがある種の思想的革命を起こしたのも、孔子や孟子による儒教思想を生んだのも、お釈迦さんが仏教を広めていったのも時代的には紀元前6~5世紀と言えるということだ。何故そうなのかについてはドイツの哲学者カール・ヤスパースが20世紀に指摘したように、「人類の内面的な意識の大転換」が起きたということであろう。部族としての共同体の規模が、人口増加や異民族との交流も進んだ結果、共同体の枠を超えた。その為、普遍的な倫理観や道徳法則が同時多発的に求められるようになったということであろう。
こうした全世界的な史的事実を見るにつけ私に去来したのは、人種は色々あるが、人間性は本質的に変わらないという思いだった。
だとすると、西洋哲学と東洋哲学との共通性はあるはずだと考え、それを意識しながら当時ギリシャ哲学から始め、カントやヘーゲルと読んでいった。
プラトンのイデア論で、イデア界に属するものの中で特に重要なものとして議論されてきた真・善・美という考え方は今日まで私の頭に深く残ったままだった。この考え方は言うまでもなく西洋哲学はもちろん、東洋思想にも深く影響を与えてきたテーマである。プラトンはこれら真・善・美の「真なるもの」、つまり「永遠不変な理想的な存在」はイデア界にのみ存在し、「感覚で捉えられるこの現象界は不完全である」というのである。しかし、プラトンにはうまい便法(基礎定立を置く方法)があった。例えば、アヤメの花が美しいとしたら、それは「美そのもの、つまり美のイデアを分有(メテクシス)しているから」と言うのだ。
私はプラトンのイデア論の意義を次のように捉えている。
第一に、科学・哲学における普遍的価値観の考察や本質主義の出発点となった。
第二に、真・善・美は学問・道徳・芸術の追求目標といえるものであることを示した。現実に妥協せずそれぞれのイデアを求める理想主義の哲学を打ち出した。
第三に、イデア論は、美は単なる感覚的なものでなく、人間の魂の営みの内の美を通じて、高次の知や善に向かう導きであるとし、芸術に新たな視点を加えた。
こうした意義深いイデア論であるが、18世紀の哲学者カントは、彼の有名な三大批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』と『判断力批判』)により、プラトン的な真・善・美についての考えを継承しつつも、それらを独立した理性の領域として捉え、まとめ直した。
すなわち、「真」は、人間の純粋理性の推理し原理を求める能力の働きによって条件づけられ成立するものである。
「善」は人間の自由な意思のあるべき普遍的な形式を求め、そうした形式そのものが道徳の最上の原理として無条件に守るべき道徳法則であるとした。
「美」とは、我々の主観における感情の事柄だが、美の経験に際して、一切の利害関心から解放されており、無関心性という性質を有している。だから美は主観的だが他者にも共通性を要求できる、ある種の普遍性がある。
カントは、右記のように人間の理性は自律的に働き、その理性で自分の意志にアプリオリな形式を与えることができ、自己を規律できるとした。つまり、真・善・美は人間の理性や感情を通じて深く関わり合っており、それぞれが単一で成り立つものではない。
私は西洋哲学における真・善・美を概略理解した後に、東洋哲学との関係性について考察し始め、日本の誇るべき哲学者西田幾多郎の『真・善・美』(論文選)も読み、様々な点で啓発された。
この分野ではもう一人重要な人物がいた。ヨハン・ニコラウス・テーテンスだ。彼は18世紀後半に活躍したドイツ系デンマーク人の哲学者・心理学者である。彼はカントに先行し、人間の心の働き(認識・感情・意志)を心理学的に分類・分析した。彼は人間の心の働きを知(認識能力、真理を知る力)、情(感情能力)、意(自律的意志)の三つに分類し考察した。彼が真善美を心理学と結びつけて捉えたことは画期的で、カントに大きな影響を与えたと言えよう。
私はこうしたちょっとした「真善美」の哲学的由来を尋ねた西洋哲学の読書遍歴により、ついに「知情意」の概念との関係性に辿り着いた。
結論を言えば、「真・善・美」は人間が価値を認識する際の最も基本的な三要素であり、「知・情・意」は人間の精神活動の三要素であり、それぞれが密接に関連し互いに呼応しながら人の認識や行動を形作っており、このことにより我々の精神活動が統合的に発展していくと考えられる。
もっとも夏目漱石の『草枕』の冒頭にあるように「智に働けば角が立つ、情に竿させば流される、意地を通せば窮屈だ」ということで、人間関係は難しく「知・情・意」のバランスを余程うまく取らないといけないということだ。
もう一つの教訓は洋の東西を問わず、人間界の哲理は同じであるが、西洋の方がより分析的、科学的に理解しているかもしれない。東洋はより直感的だと思う。
従って、東西の両方の哲学を学べば、様々な事柄や我々自身の生き方についてより理解が深まろう。私の書物や思想は東洋哲学の影響を強く受けているので西洋哲学も読みながら、書かれていることが正しいかどうか判断してもらい、読者自身の思考を深めていただきたい。そうした私の思いを込めて本書のタイトルを『真善美の追求』とする。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。







