政治の喧騒の中で見えた、日本国民・政治家への違和感と光明

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1. 都議選を振り返って:「飽き」が来る早さと、地域性という可能性と

10日間のお祭りのような都議選が終わった。

まずは、都議選について、色々と思うところを述べるところから始めたい。

身近なところでは、青山社中リーダーシップ公共政策学校(ASLG)のOBで都民ファースト代表の森村隆行さんが、いわゆる“ゼロ打ち”(開票と同時に当確が出ること)を決め、第一党の党首として高揚した面持ちで会見に臨んでいたことや、特に1人区の中央区で当選を決めた、やはり弊校OGの高橋まきこさん(都民ファースト)が激戦を制したことは、公共政策の教育に関わる者として、掛け値なしに嬉しく感じた。

公示日直前の「高橋まきこを囲む会」で小池知事などと共に、檀上から激励の挨拶もさせてもらったことも良い想い出だ。

逆に、青山社中リーダー塾OBで、弊社社員でもあった阿部司さん(衆議院議員)が、東京維新の会の代表として沈痛な面持ちで、現行の1議席を失って獲得議席ゼロとなって会見に臨んでいたのは、厳しい状況での阿部さんの尽力を知ってるだけに、見ていて心を痛めた。厳しい戦いの中で全力を尽くしたものの、結果だけ見れば後退となり、今後のマネジメントその他、大変なご苦労が待ち受けていると思う。

森村さんがASLGを受講されていた時の弊社の教育事業担当者が阿部さんであったこともあり、会えば楽しく飲んで昔話に花が咲く仲間同士が(現に、半年ほど前にも、私を交えて3人で楽しく宴席をご一緒した)、互いに争い合わざるを得ないことは、本当に残念だが、これも勝負の常と、あきらめるしかない。

が、本当に物分かりよく「あきらめるしかない」で良いのか、という問いが心内でこだまする。維新は、大阪から日本を変えるという事で、その勢いを大阪から関西さらには日本全体にと広げていった政治集団であり、都民ファーストは、東京の改革を進めて日本のお手本たろうという政治集団である。

一時は小池さん主導で「希望の党」として、国政を通じて全国的に打って出る動きもあったが、その野望はその時はかなわなかった。ただ、今後、再び、そのウィングを東京以外に広げようという動きが出てこないとも限らない。

つまり、主語を大阪にするか東京にするかの違いだけで、両党とも思想的には保守を中心とした改革志向の方々の集まりで、本質的にはあまり違わないように思える。はっきり書けば、地域の違い以外は、極めて似ている。どうして組めないのか、組まないのか。

実は、そういう話、すなわち、維新と都民ファで手を握れないのか、という話を二人(先述の都民ファ党首の森村さんと、東京維新の会代表の阿部さん)に真剣に校長・塾頭として持ち掛けたこともある。なぜ、同じような改革保守の若者の候補者を発掘している(取り合っている)両党・お二人が組めないのか、もったいないよ、と。大阪は維新、東京は都民ファで、理念としては、「地域から日本を変える」ということで一緒に仲良く動けば良いではないか、と。

それについては、ここでは書けないような経路依存性のある内部事情(要は積み重なった人間関係の事情・・・)もあるし、同じだけのメリット感があるかないかなどの事情もあるのだが、本質的には、政治というのは一種の主導権争いでもあるので、有名なミヘルスの理論ではないが、民主的に皆でオープンに、とはならないことが大きい。

いわんや、ミヘルスが示唆しているように(リベラル・民主集団ですら、、、という形で)、保守的な政治集団においてはその傾向はより顕著になる。政治に限らず、特に保守の仲間というのは分裂しやすい。

なぜ、安倍晋三さんと石破茂さんが不仲だったのか、高市早苗さんと小林鷹之さんは何故組めないのか、保守を自認する小池氏は、「排除します」と言って自爆してしまったのは何故なのか、参政党が最初に売り出していた5人は神谷氏を残して、いつ皆さんいなくなってしまったのか、個人的には、新しい教科書をつくる会が内ゲバのうちに終わっていく様子を学生時代に眺めていた頃から、「保守同士って、優秀な人であればあるほど仲たがいするんだなぁ」と感じるものがあった。

要は、政治家、特に保守関係者は、主導権争いも相まって、少しの違いを大きな違いにしてしまいがちなのだ。

話が少し脱線してしまった。都議選に戻したいと思う。今回の都議選の結果の総括については、表面的な解説としては、以下のようなものが代表的であろう。

① 自民党が裏金問題などで大きく議席を減らした。

② 裏金問題を越えて、既存政党はその集票力を減退させている。自民党だけでなく、公明党や共産党などの「伝統的政党」が議席を軒並み減らした。

③ 一時の勢いは失いつつあるものの、底堅く0⇒9議席と躍進した国民民主党や、やはり0⇒3議席を獲得した参政党など、保守的な新党が伸びた。

④ 都民ファーストは実は前回と同じく31議席だが、事実上のオーナーとも言うべき小池知事がかなり全面的に支援に入り、同氏の保守的スタンスもあって、国民民主党や参政党と同じく、保守票を吸い上げた。一方で同じく保守の維新は東京では地歩を失いつつある。

⑤ リベラル票は、共産党が失った議席(前回より5議席減)を立憲民主党(前回より2議席増)などが吸い取った感じが強く、れいわ新選組は、議席を獲れなかった。

これらの解説は、まったくその通りだと思う。
ただ、あまり世上言われていない私なりの整理を二つ付け加えるならば、以下の二つだ。

(1) 現状への不満は多々あるが、それを吸い上げる決め手となる政党がないことが判明した。都民ファも比較第一党とはいえ、前回と議席数は同じである。

政治家や政党が馬脚を現してしまうケースや、一億総ネット中毒になりつつある国民(特に都会民)側の問題もあって、「飽きる」のが早くなっていることが作用してるケースなど、様々な要因はあるが、要は、新しい政治集団・政党が出来ても、半年〜2年くらいで、飽きられていってしまうことが常態化している。

具体的には、維新は、一時の勢いはどこへ行ったか、全国的には完全に下火になりつつある。石丸氏の再生の道は、藤川氏亡きあとの選挙戦術のまずさもあったが、1議席も得られない結果となった。国民民主も、元々言われていた二桁の議席は得られずにやや失速し、れいわ新選組なども一議席も取れず。

逆に保守の中で新鮮さが増している参政党は、勢いをつけてきているが、果たしてどこまで伸びて、いつ飽きられるか、と冷めた目で見てしまう。

最近の若者言葉だと「蛙化」と言うらしいが(反対語は「蛇化」)、最初は輝いて見えても、しばらくすると、どの政党も、残念なものに見えて来てしまうという状況が顕著になった。

(2) 政党の地域化が進んで来ている。大阪は維新、東京は都民ファースト、といった具合 だ。都民ファーストは、2回前の都議選の際に、小池ブームやトランプブーム(当時のトランプ氏が叫んでいた「アメリカ・ファースト」を受けての「都民ファースト」)に乗って票を伸ばしたが、上記の「飽き」を考えると、前回に4割減らした議席を、更に半減くらいさせかねないはずだが、自民の敵失(自民党都連における裏金問題)はあったものの、前回と同じ議席を維持できた。これは、地域に寄り添う政党ということが一定の歯止め効果をもたらしたのではないか。

維新での大阪での盤石ぶりと併せて考えると(逆に大阪や一部の関西以外での広がりの欠け方を見ると)、「政党の地域化」現象が如実になっている。

つまり、朝比奈分析の(1)に基づけば、新党のようなものは、それこそ日本新党や民主党ブームから、維新、みんなの党、そして最近の様々な政党という具合に、この30年くらい、ワンサカ出てきているのだが、正直、だんだん小粒化していて、人気が保たれる周期も短くなってきている。

日本新党や民主党は、形はともかく、実際に政権を取るに至り、維新やみんなの党も一時はそれを期待させる広がりがあった。ただ、どうも最近の新党たちは、政権を取るような勢い・体制やメンバーのレベル感からの政権奪取のリアリティは、益々感じない。簡単に1〜2年程度で飽きられるようになってしまっている。

ある意味で嘆いても仕方の無いことなのだが、そんな中で、新党の乱立≒政治の混乱状況がずっと続いて良いのか、という思いを禁じ得ない。

A:自民党が絶対的に強い状況 ⇒ B:自民党がスキャンダルで弱体化 ⇒ C:自民党に選挙で国民がお灸をすえる ⇒ D:自民が凋落して、野党が勢いを増す(時に政権を取る) ⇒ E:不慣れな野党が力を持つことにより国政その他が混乱 ⇒ F:再び自民党が絶対的に強い状況になる、の繰り返しだ。それで、日本の状況が好転しているのであればいいのだが、残念ながら、経済も社会もどんどん低迷し、混乱を極めて来ている。いわば負のスパイラルだ。

そういう中で、唯一の光明が私の分析によれば、(2)の地域密着型という希望だ。即ち、当該地域のために尽くす、という地域政党が、ブームだけではない地位を確立することである。実際に、大阪における維新の会や、東京における都民ファーストのように、10年以上、勢いを保ち続けていて、改革を志向していて、という政治集団が出始めている。

前回の衆院選の際の大阪や、今回の都議選を見ればわかるように、そうした地域系政党が、自民党を典型とする既存政党を当該地域においては完全に凌駕するようになっているのであるが、それがまだ、日本全体への広がりになっていない。各地での改革派保守政党の誕生とその連携、ということが実現すると、これは大きな勢いとなる。

2. 参院選を前に思うこと:国民へのサービス合戦の政治では変わらぬ日本の病巣

そんな中、間もなく参議院議員選挙の投開票が行われるが、正直、(1) や(2) を踏まえた上記の私の分析に沿った動きがないので、残念ながら、各種の選挙解説がとてもむなしく聞こえる。

“政治屋”系の方々は、「自公が過半割れか否か」について、せっせと票読みをする。私も、政治屋の末席でもあるので、自民は、非改選が75あって、比例で悪くとも12、公明も悪くとも12、複数区で悪くとも12あるので、32の一人区において「14勝18敗」で良い勘定だ(合計50議席獲得で、非改選と併せて過半の125議席)。さすがにそれくらい(全体で過半数を割らないくらい)は勝てるでしょう、みたいな解説をしている。が、何とも空疎である。

そして、“政策系”の方々は、バラマキ・手取り増の話に終始している。「自公は2万円の給付を決めた」、「維新は、社会保険料にターゲットを絞って国民負担減に邁進している」、「立民は、ガソリンの暫定税率廃止で、財金の委員長解任も主導して、不信任案提出の代わりに徹底抗戦“風”を見せた。一時的措置とはいえ、消費減税提案にも踏み込んだ」「国民民主は、“壁”問題で名を上げたこともあって、元祖“手取り増”政党として、突き進み続ける」…という具合である。れいわ新選組も、共産党も、参政党も、とにかく、減税と財政支出増だ。

どの党が勝っても、実際に政権を担うようになれば、財政的信認を失いつつある日本の国債への攻撃が心配になって、財務官僚や市場通の方々から「イギリス(トラス政権)みたいになって良いんですか。責任とれるんですか。」と脅されたら、ひるむのは目に見えている。

※ トラス政権は、「成長戦略2022」を打ち出し、国民保険料の引き上げ撤回、所得税引き下げ、エネルギー料金の引き下げなどを表明したところ、市場からの攻撃で、国債利回りが急上昇し、ポンド安となって、政権に就いてわずか49日で退任。

そんなわけで、都議選も参院選も、10日〜2週間ほどの「お祭り」のようなもので、メディアも何も大きく騒いでいるが、個人的には、どこか虚しさがぬぐえない。読者諸賢もそう感じている方が少なくないのではないだろうか。

自民党政権のままで日本が良くなっていく感じがしないし、かといって、野党側も、どの党も、あたかも自分たちが政権についたら、国民生活が大きく改善するようなことを言ってるが、あまりリアリティは感じられず、むなしい、というわけだ。

つまり、政策争いとは言っても、国民生活を大きく混乱させることなく(財政信認などを失うことなく)「ギリギリ、ちょっとだけ」良くすることについての、目くそ鼻くその争いなのだ。やれ、財源が、とか、どこまでリフレ政策を打って大丈夫なのか、とかの議論に終始しているが、実際に政権についたら、少しでも現実的な人であれば、評論家としては元気の良い事は言っていても、市場の攻撃にともなう国民生活の大混乱が怖くて極端な積極財政政策や減税策などとれないのだ。

(ネジが一本抜けている政治家集団が政権をとって、本当に積極財政と大減税のようなことをやってしまって、トラス政権の時のイギリスのようになっても困るわけだが。)

既得権益に切り込むことは大事だが、医療の現場だって医師不足や慢性的な病院経営赤字の中で、診療報酬にしても、薬価にしても、大きく削ることは難しいし、本質的な抜本的改革はできない。これまでは恵まれていた開業医を巡る状況も刻刻と変化しつつある。

さて、色々と書いて来たが、このあたりで、既にほのめかしている今の政治や選挙に対する違和感の正体をずばり書こう。整理すると、ずばり3つだ。

① 各政党の主張は、国民へのサービス合戦になっているが、ごくごく限られた原資をどう再分配するかの細かな違いについて争われても、正直、響かない。

日本の企業や個人の相対的弱体化(国際競争力喪失)により、日本国は貧しくなっているのであって、一人当たりGDPなどで考えて、もはや、日本は先進国とは言えない国になりつつある(2024年は38位)。台湾にも、先般は韓国にも抜かれ、傾向としては、ますます競争力は減退している。約200か国あって40番くらいだからまだ良いではないか、と今は思っていても、気づいたら真ん中くらいで、大半の東南アジア諸国より下、なんて事態にもなりかねない。

税金が多少安くなったって、或いは、社会保険料が若干安くなったって、日本は相対的にどんどん貧しくなるわけであり、エネルギーを買ってくるにしても、医療機器を買ってくるにしても、どんどん日本国全体の家計は苦しくなるわけであり、また逆に、日本の国土も企業も割安でどんどん買われる話になる。

手取りが、再配分で若干上がる話とか、竹やりで外国人を追っ払うみたいな、威勢だけの良い話をされても、本質的な日本(日本人)の強化に響く話をしないと意味がない。

② 本質的に日本を強くするには、稼ぐ企業や稼ぐ個人を沢山作らないといけないわけだが、今、それがうまく行っていない。世界での競争力のない個人や組織が日本社会に溢れてしまっている。そんな中で、耳あたりの良い事ばかり言われても、正直響かない。

では、どうしてかつての日本はこれが強かったのかと言うと、実は、政策云々の話ではない。国民一人一人が強かったから。つまりは、こうした国民を生み出す家庭教育や地域教育が良かったわけであり、当時は、社会全体で「頑張る」とか「努力する」ということが求められていたし、奨励されていた。

今の政治は、国民に耳あたりの良いことを言うだけで、サービスすることばかり。実は、国民一人一人がもっと頑張らないととか、もっと工夫して努力しないと、ということが大事なのに、「出来るだけ働かないで良い」、「出来るだけお金を配ります」、「政治や政策の工夫で何とかできます」みたいな話ばかり。

本当に困っている方、本当に辛い状況にある方には、もちろん政治が何らか手を差し伸べることが大事だが、国民の大多数については、各国の大多数の方々に「負けない」ように、競争力をつけるしかない、と厳しいことを言うしかないのだ。

空手形を見せつけられているようなサービス合戦をされても、正直響かない。国民にもっと厳しい現実を見せ、嫌なこと・言いたくないことも伝えて奮起を促さないと、全く響かない。

③ そして、日本・日本人が「稼げる」ようになるには、本質的には各地ごとに、各企業・各個人たちがしっかりするしかないわけで、国全体がどうこうと言っても仕方ないところがある。国が大量の資金等のリソースを投じてラピダスを作れば、それで勝てるし儲かるし、という話ではない。

アメリカが強いのは、各地ごとに、西海岸はIT・テック企業が、東海岸は金融やコンサル系が、などと、世界競争力をもった企業が次々に生まれたり、その地位を維持したりしているからであって、それは、主には、政治や政府の戦略によるものではない。マクロというよりミクロなのだ。マクロが関係ないと言うつもりはないが、主従で言えば、まず、頑張る個人や企業がないとはじまらない。

その意味では、日本の弱体化は、今や、政治の非力とかが原因ではないのだ。政治でどう頑張っても限界がある。政治を変えるとか、政治で何とかすると騒いでいるエネルギーと暇があったら、そういう人たちは(政治家は)、駅前で拡声器もったり頭下げたりして一票のお願いするのではなく、すぐに各地でビジネスをはじめて、付加価値を生み、つまりは自分で稼ぎ、自分で税金を納め、納税などの形で国家に貢献すべきだ。

にも関わらず、日本の政治家の多くは、サラリーマン等の経験はあるにせよ(悪く言えば、他の方が座れたはずの席を取ることで給料を得たことはあっても)、自分で商売をやったり、新たに起業したり、つまりは、ゼロからの付加価値をつけて、稼いで、税金を納めて、という経験のある人は少ない。そうした経験がない方が、上記①や②を無視して、綺麗ごとだけ言っても国民には響かない。

「何を言うか」以上に「誰が言うか」で、言葉というのは、相手への響き方が違う。好き嫌いは別にして、トランプの言葉が力を持つのは、自分で事業をやってきて、その失敗も成功も知っているからというのは大きいと思う。

以上の①〜③が、私なりに政治を眺めた場合の違和感の正体なのだが、読者諸賢はどう感じるであろうか。書いてしまったものは仕方がないが、政治家や政治業界の方も、政治に期待する人たちも、皆敵に回してしまったような恐怖も感じないわけではない。ただ、これが、バブル崩壊からの35年間の日本の政治と社会を眺めて来た実感であり、ある意味確信なので仕方がないと思い、率直に書くこととする。

3. 日本の強化のための残された視座:地域や故郷のために「稼ぐ力」を率先垂範で

更に言えば(更に敵を作ることを言えば)、日本の強さは、率直にいって、資本主義の純化とも言える欧米的合理主義を乗り越えた利他の精神にあったわけだが、最近は、残念ながら、アメリカニズムが完全に日本社会を覆うようになり、その強みは完全に崩壊しつつある。

日本人は特に、見えないものへの感謝を大切にし、自分を作ってくれている①家族(自らの家系・先祖)、②地域(育んでくれた故郷)、③(②と一部重なるが)社会全体、を大切にしてきた。そして、そのことがある意味で良い循環を生んでいた。

自分を“多少”(ときに酷く)犠牲にしても、①子どもを産んで立派に育てることで家を次代につなげ、②地域にとどまって・地域のために仕事をしたり寄付をしたり後進を育てて次代につなげ、③消防団や自治会や公務を果たすことで、社会を次代につなげ、ということを意識してきた。

ところが近年は、合理主義と言う名の「損得主義」が社会に蔓延し、どうすれば損しないか(得するか)、どうすれば自分が楽しいか、ということばかりだ。

① 子供を産み育てるのは、相手を選んで関係を長続きさせるのも、子どもにお金や時間を注ぐのも(自分の可処分時間や所得が減るのも)、損得からいうと損だし、面倒だ。

② 地域にとどまったり、地域にお金を投じたりするのは、バカバカしい。都会に出て、高給を取り、まあ、盆暮れくらいには両親に顔見せるが、両親がいなくなれば、墓じまいをして、空き家を売り払って、都会で楽しくマンション暮らしをしよう、

③ 消防団やら自治会に入るのは面倒だし、PTAなんて誰もやりたがらない。公務員も給料の割に責任が重くてやりたくない(※地方公務員も国家公務員もなり手が激減していて(概ね志望者3割減)、職種によっては、定員割れを起こすケースも出てきている)。

というのが、乱暴に言えば、現代人の気分ではなかろうか。

日本が世界最強だった頃の日本人の常識とはかけ離れてしまってきているのは確かであろう。社会の維持のために、少子化対策のお金を少し乗っけることすら「独身税」と言われる始末で、この「独身税」のニュースを聞いた時は、正直日本は終わったと感じた。

果たして上乗せ徴収されたお金が有効に使われるのかとか、いわゆる「異次元の少子化対策」の政策動向には、色々な批判はあろう。ただ、徴収されるお金を「独身税」と言い、その言説が広がる気風、つまり「少しでも損したくない」「社会の維持に貢献しようという意志を感じない」言説が広がることには、日本社会への絶望しか感じなかった。

皮肉であるが、自分の利益を追い求めれば追い求めるほど、すなわち、中途半端に、徹底合理主義のアメリカ・モデルを目指せば目指すほど、却って、競争力を損ない、貧しくなってるのが日本の現実である。

PTAを選ぶ会議で、全員が一斉に下を向く現実を見て、かつての日本人はどう感じるであろうか。もちろん、PTAでベルマーク委員が必要なのか、など、個別に色々と批判が出て、改革が行われることは良いと思う。ただ、子どもを学校に入れたら、学校に任せてるんだから、自分も配偶者も仕事で忙しいんだから、後は学校で何とかしてくれ、後は知らない、という態度はどうかと思う。

さて、気づいたら8000字を超えてしまった。ここまでお付き合い頂いた方には感謝しかない。随分と嫌われることを書いてきてしまった気がするが(途中で読むのを止めた方が増えたことと思うが)、まあ仕方がない。最後に、こうした現実を踏まえての日本の突破口について書いてみたいと思う。基本的に絶望しかないのであるが、光明はないわけではない。

それはずばり、政治に期待するのではなく、自らが、まず、地域社会の維持のために、少しでも付加価値を生む仕事をする、ということである。出来れば、新たにGDPを生み出すような、特に「外貨」を稼ぐ(域外や、海外からの稼ぎを作る)仕事だ。

つまり、大阪における維新や東京における都民ファの話、或いは、競争力という話などについて、ここまで縷々述べて来たとおり、政治も経済も社会も、①地域ということ、②付加価値を生み出すということ、が鍵なのだ。

日本社会にとって重要な“センターピン”に忠実に迫るのであれば、今すぐ、力のある方々は、各地で事業を興すことが急務であろう。トヨタも、コマツも、日立も、そのまま市の名前になっているが、各地における起業が元になっている。それが、人々の生活を支え、社会を維持している。

年初に、石破総理と会う機会があり、地域で活躍する経済人を2人ずつ2回にわたってご紹介申し上げた。そのことなども刺激になられたのか、そこでご紹介した、前橋の街づくりに携わるメガネメーカー・小売りのJINSの田中仁社長のご案内で、今月の頭に総理は前橋を実際に視察され、その場で、「民間主導の新たなまちづくり」ということのための会議の立ち上げを宣言され、先週、官邸で、関係閣僚などがズラッと揃う中で、田中さんが第一回のプレゼンをされた。

民間人たちがお金を出し合って、まちづくりを考える一般社団「太陽の会」のサポートを、設立総会で講演をさせて以来、弊社や私の方で担わせていただいているが、学ぶことが多く、希望を感じる。

地域で業を起こし、外貨を稼ぎ、そして、民間人たちでそのお金を出し合って新たな街づくりをする。こうした循環を日本各地で起こすには、政治行政の協力も不可欠だが、まず、実際にやるリーダー(始動者)がいないとはじまらない。

田中さんは特別だ、ということは一面の真実だが、見方によっては、田中さんは元々地元の信用金庫の一職員であり、色々とご苦労や失敗も重ねつつ今がある。何より大事なのは挑戦心だ。

各地域で起業・創業するまでの勇気や自信や環境がない方は、家族や地域社会の維持のため、利他の精神をもって、子育てや公務に携わるべきである。少なくとも、単なる歯車として組織の中での「現状の地位」にしがみつくこと、政治で「何とかする」と拡声器やSNSで騒ぐこと(生産性のない活動をすること)、が、日本の再生にとって、最も意味の無いことに思える。