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戦略研究は、日本の政治学や国際関係論において、見過ごされてきた1つの分野かもしれません。そもそも戦略は、伝統的に歴史学において熱心に探究されてきました。歴史上のさまざまな戦闘の詳細を調べるとともに、そこから教訓を引き出そうとする「戦史」や「軍事史」は、古今東西を問わず、学者のみならず社会人の関心を広く集めています。
その一方で、戦略が歴史学の「専売特許」であるかと問われれば、そうではありません。戦略と戦史や軍事史は深い関係にありますが、これらとは別の学問体系から戦略をとらえる試みは何十年も前から行われています。
科学としての戦略研究
戦略を科学的に考える重要性を訴えた嚆矢は、おそらくバーナード・ブローディ氏でしょう。かれは第二次世界大戦が終わった数年後、「科学としての戦略(“Strategy as a Science”)」という論文を政治学の専門誌『世界政治(World Politics)』(Vol. 1, No.4, July, 1949)に発表して、軍事組織内外で、戦略が科学的な扱いを受けてこなかったことに警鐘を鳴らしました。
その後、科学としての戦略研究は、ランド研究所を主な拠点として、アルバート・ウォルステッター氏や後にノーベル経済学賞を受賞するトーマス・シェリング氏、高名な政治学者であったアレキサンダー・ジョージ氏らの尽力により発展しました。
戦略の科学的な研究が進む一方で、戦略に通底するパターンの解明はなかなかできないようです。戦略を社会科学にするには、それを阻む分厚い壁が立ちはだかっています。それでは、何が戦略を難しくしているのでしょうか。
この問いに答えようとした1人が、スティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)です。かれはピーター・パレット氏が編集した『現代戦略思想の系譜』(ダイヤモンド社、1989年〔原著1986年〕)を題材にした書評エッセー「戦略の科学への模索(“The Search for a Science of Strategy”)」(International Security, Vol. 12, No. 1, Summer 1987, pp. 140-165)において、「戦略は科学か」という問いから議論を始めています。少し長くなりますが、かれはこんな説明をしています。
「おそらく、この本(『現代戦略思想の系譜』)の主要なテーマは、『戦略の科学』を探し求めることである…国家の生き残りが戦争の抑止あるいは勝利する能力によるであろうことを考えれば、戦略の成功にある永続的な原理を見つけることの価値は明らかだ…戦略とは目的と手段の関係である。すなわち、それは特定の目的を達成するためにとるべき方法を明らかにするのだ。理想的には、戦略は、適切な証拠により経験的根拠に裏打ちされた仮説にもとづくべきである…戦略の発展は科学的な事業として見られるべきであり、ここでの成功は創造性、専門性そして多くの複雑な問題の体系的分析に左右される…かれら(戦略家)は、戦争の結果を決めるであろう一般法則を定式化する共通の願望を示している」
前掲論文、141-142ページ
要するに、ウォルト氏は、科学的な戦略研究の目的が戦略に共通するパターンを見つけることであり、それは標準的な社会科学の手続きによって行われるべきであると主張しているのです。こうした立場は、演繹的方法をとるにせよ、帰納的方法をとるにせよ、実証政治学を志向する研究者にとっては、馴染のあるものです。
他方、出来事の特殊性や個別性を重視する歴史研究者にとっては、古今東西の戦略に共通する一般法則を見つけようとする試みなど、答えのない問いに挑むように思えるかもしれません。
戦略研究の難しさ
それでは、戦略はなぜ難しいのでしょうか。ウォルト氏は、歯切れのよい口調で、論点を絞った明快な回答を提示しています。「戦略思想の貧弱な品質は単に対象の複雑性のせいだけではない…要するに…科学的方法に従ってないのだ…体系的で批判的な探究は戦争を正しく理解することに不可欠であった」(前掲論文、144-145ページ)と主張して、これまでの戦略研究の方法論上の欠陥に、その根源があるとみています。
楽観的で問題含みの戦略をとってしまった失敗例として、かれは、フランスのフェルディナン・フォッシュ将軍の主張、すなわち機関銃は戦闘における攻撃を有利にするという偏向した分析を挙げています。
周知の通り、機関銃は防御側に利する兵器だといわれています。第一次世界大戦において、西部戦線で膠着状態が続き、おびただしい犠牲者を出した1つの要因は、機関銃により防御側が強くなったために、攻撃側が前線を容易には突破できなくなったことの帰結です。
戦略の困難性を論じる際には、その複雑性がよく指摘されます。確かに、このことは戦略の原理を発見しにくくする要因ですが、ウォルト氏は、それだけではないといいます。戦略がしばしば間違えるのは、その他にも原因があるのです。
第1の障壁は秘匿性です。国家は軍事力や戦争計画の情報を隠そうとします。なぜならば、敵国にそれらを利用されることを防ごうとするからです。仮説の検証には確固たるデータや証拠が必要ですが、戦略の理論を検証しようとしても、こうした国家機密がそれを難しくするのです。
第2に、戦略が政治領域に含まれることです。軍種や防衛産業、軍事アナリストといった集団は、戦略思想の形成に大きな役割を果たしますが、かれらは自分の立場を守ろうとするあまり、真実の追求より保身に走ってしまうことがあるのです。科学は自由な発想の交換により発展しますが、こうした政治性は、戦略の科学的な進歩を妨げてしまいます(前掲論文、147ページ)。
第3の障壁は軍種間のライバル関係です。陸海空といった軍種は、ときには他の軍種を犠牲にしてでも、自らの利益の促進を確かなものにしようとします。たとえば、アルフレッド・マハン提督は、シーパワーこそが帝国のカギを握ると見ていました。空軍独立論者だったウィリアム・ミッチェル将軍や空の英雄とうたわれたカーチス・ルメイ将軍などは、エアーパワーこそが勝利の不可欠な構成要素だと主張しました(前掲論文、148ページ)。
戦前の日本陸軍と海軍の相反は、日本の大戦略構築を阻害しました。軍事史の大家であるポール・ケネディ氏(イェール大学)は、次のように太平洋戦争時の日本の一貫しない戦略の欠陥を指摘しています。
「強力な陸軍を満州に保持する戦略的決定は、東京の戦争指導者によって行われた最も悲劇的なものの1つである。太平洋方面における極めて重大な最初の1年間、約70万人の陸軍部隊は何もすることなく、そこに駐留していたのだ…1944年と1945年におけるアメリカの日本帝国に対する猛攻撃が明らかになった時になって、満州の部隊は急いで、統治下にある島々、フィリピン、本土に送られた。皮肉なことに、満州駐留の陸軍の質が最低レベルに落ち込んだ時に、ロシア軍がついに攻め込んできて、日本陸軍をずたずたにしてしまった」
Paul Kennedy, Strategy and Diplomacy: 1870-1945, Fontana Press, 1984, p. 191
第4に、軍事組織のイノベーションに対する抵抗があります。軍事コミュニティは、伝統的な役割と任務を脅かすイノベーションに抗おうとしがちです。イノベーションは軍事指導者の地位や権威を掘り崩し、特定の兵器や軍事ドクトリンへの感情的固執に挑戦するものなのです(前掲論文、149ページ)。
旧日本海軍がせっかく空母という画期的な兵器を開発できたにもかかわらず、「大艦巨砲主義」に最後まで囚われてしまったのは、その端的な例でしょう。太平洋戦争へ突入するにあたり、帝国海軍は「艦隊主兵」「艦隊決戦」の運用思想を保持しながらも、「航空主兵」の作戦へと移行しつつありました(立川京一「旧日本海軍における航空戦力の役割」『戦史研究年報』第7号、2004年3月、29ページ)。
しかしながら、航空戦力の重要性をいち早く見抜いていた井上成美大将でさえも、作戦レベルの体系的なドクトリンを提出していません。日本海軍が艦隊決戦思想から抜け出して、運用レベルで空母中心になったのは、終戦の前年の1944年になってのことでした(野中郁次郎ほか『戦略の本質』日本経済新聞社、2005年、5ページ)。旧海軍の関係者からも、艦隊決戦の術科面のみが重視されていたとの反省が示されています(岩村研太郎「日本海軍の航空への取り組みにかかる問題点」『海幹校戦略研究』第19号、2020年4月、23-38ページ)。
国家戦略とシビリアン
バリー・ポーゼン氏(マサチューセッツ工科大学)が、戦略の古典的研究で指摘するように、軍事組織の保守性や軍種を超えた国家戦略を編み出すには、シビリアンの介入が必要なのかもしれません。ただし、文民政治家や官僚が軍人より優れているとは限りません。1956年のスエズ危機におけるアンソニー・イーデン首相の対応は、おそまつなものでした。
イーデンは、イギリス統合参謀本部が迅速な武力介入の困難性を主張していたにもかかわらず、中東における「大国」としての権益を保持しようとしてエジプトとの戦争に打って出ました(イーデン内閣の政策決定過程については、小谷賢「スエズ危機におけるイギリスの政策決定と外務次官事務局」『国際政治』第160号、2010年3月参照)。しかし、結末は戦略的な大失敗でした。
ヴェトナム戦争を主導したロバート・マクナマラ国防長官の作戦行動としての段階的エスカレーション戦略も失敗でした。かれは「こんな小っちゃな戦争は両手を後ろに縛ったままでも勝てる」と声高に発言していたと伝えられています(公平を期していえば、軍民問わず大半のアメリカの政策立案者たちは、ヴェトナム戦争の行方には楽観的でした)。軍事の適切な専門知識に欠いたシビリアンは、国家の戦略的選択を間違えてしまうのです(前掲論文、156ページ)。
進歩が遅い戦略研究
ブローディ氏が戦略の科学的研究の重要性を主張してから、70年以上の時間が過ぎました。はたして、戦略は進歩したのでしょうか。専門家の見解は、残念ながら、否定的なようです。
ウォルト氏は、上記の書評エッセーをこう締めくくっています。「『戦略の科学』に向かう進歩は、せいぜい、ゆっくりした不確実なものであり続けるだろう」(前掲論文、165ページ)。
戦略研究で有名なリチャード・ベッツ氏(コロンビア大学)も悲観的です。かれは「戦略は常に幻想というわけではないが、しばしばそうである…政治家や将軍たちが見つけなければならない戦略についての解は、自信とニヒリズムの間のグレーゾーンにある」と結論づけています。ただし、かれは戦略を優れたものにするヒントを何点か指摘しており、これらは傾聴に値すると思います。
第1に、政治的結果を生み出す軍事的原因を見つけることの大きな障壁を考えれば、その便益とコストのバランスに差がほぼないケースでは、めったなことがなければ、武力に頼ることは慎むべきだということです。
第2に、戦略はシンプルにすべきです。複雑な戦略は失敗への道です。
第3に、文民の政策立案者は軍事作戦への理解が必要です。戦術、兵站、作戦ドクトリンの知識がなければ、シビリアンは責任を全うできません。
第4に、戦略目標は、できる限り物質的な利益に絞るべきです。信ぴょう性や名誉が国家の存亡を脅かすことは、滅多にありません。
そしてベッツ氏は次のような戒めを記しています。
「戦略は選ばれた手段が目的に対して不十分であることが判明した時に失敗する。このことは間違った手段を選んでしまったためか、目的があまりに野心的であるか、あいまいであるために生じる。戦略は、手段のメニューを拡大するのと同じ程度に目的の範囲を限定することを平時の計画において考慮するならば、より多くの場合において救うことができる」
“Is Strategy an Illusion?” International Security, Vol. 25, No. 2, Fall 2000, pp. 46-50
戦略を成功させることは、国家の存亡にかかわります。残念ながら、「戦略科学」への道のりは険しそうですが、理論的・経験的な研究を積み重ねることでしか、戦略の普遍的なパターンを明らかにすることはできないでしょう。
戦略研究におけるサイエンスとアート
こうした戦略研究へのアプローチは、もちろん、そのアートの側面を無視することではありません。
ブローディ氏は、論文「科学としての戦略」を発表した約10年後、海軍大学で「アート(術)とサイエンス(科学)としての戦略」という興味深い講演を行っています(“Strategy As An Art and A Science,” Naval War College Review, Vol. 12, No.2, February 1959)。ここで、かれは2点の注目すべき指摘をしています。1点目は、科学としての戦略の後進性についてです。
「クラウゼヴィッツが戦略の分野を先取りしていたのは、アダム・スミスが経済学の分野を先取りしていた以上のものではなかった。けれども、かれら以降の数世代において、これらのそれぞれの分野で何が起こったのか。後者の例(経済学)では、理論と知識が途方もなく成長してきたし、今でも力強く成長している。前者の例(戦略)では、ほんの少しの成長か発展があるだけだ」
前掲論文、12ページ
約60年前のブローディ氏の嘆きは、約35年前のウォルト氏そして約20年前のベッツ氏の悲観論と重なります。
2点目は、戦略におけるアートの側面に関するものです。
「科学的方法は代替肢を探究することにおいて有用であり使われているが、まさに最終的な選択においては、そうではない。後者は究極的にはよい判断に委ねられているのであり、それはいうなれば特定の教化で育ってきた人物や集団の情報に基づく直感に頼っている。かれらの仕事へのアプローチは根本において、アーティストのものであって、科学者のものではない」
前掲論文、18ページ
要するに、戦略の最終判断はあくまでも生身の人間がくだし、科学はそれを手助けする大切な役割を果たすということでしょう。
メジャーリーグで大谷翔平選手は、二刀流のプレーヤーとして大活躍しています。打つのも投げるのも大谷選手です。見逃せないのは、かれの活躍は科学的なデータと方法に裏打ちされた練習と実践が支えたことです。野球から戦略の教訓を得るというと、奇異に感じる人も少なくないでしょうが、わたしは日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則氏の以下の発言は、示唆に富んでいると思います。
「私たちの頃は、何が正解かわからないことも多く、“根性”や“勘”に頼ることも少なくなかった。比べて今はデータが細かく揃っていて、予め“答え”が見えていることも。後はそこに向かって、どれだけ努力ができるかが問われるのでしょう。大谷選手はそんな時代の申し子。最新の手法を取り入れ、高みに立つための努力を惜しまなかったからこそ、今があるのだと思います」
戦略が人間の営為であることは不変でしょう。同時に、科学は万能ではありません。システム分析の数学的道具は、冷戦期におけるアメリカの安全保障戦略の形成において、使い物にならなかったと批判されています。
戦略への経済学的アプローチは、1960年代中頃には、ブローディ氏が不安を感じる程に知的な袋小路に入り込んでしまいました。戦略を完全な科学にする探究は無謀な試みなのでしょう。方法論に導かれる純粋な理論志向の学術では、政策的有用性において、行き詰まってしまいそうです。
戦略と実践
ここで問われるべきは、「戦略の科学」が国家の指導者に目指すべきゴールとそこにたどり着く方法を示せるかどうかです。
そのために求められる1つの有力なアプローチは、アレキサンダー・ジョージ氏が擁護した「条件付き一般化(conditional generalizations)」、すなわち変数間の蓋然性を解明するというより、戦略の成功や失敗を生み出す特定のパターンを明らかにする努力ではないでしょうか(Paul C. Avey and Michael C. Desch, “The Bumpy Road to a ‘Science’ of Nuclear Strategy,” in Daniel Maliniak, Susan Peterson, Ryan Powers, and Michael J. Tierney, eds., Bridging the Theory-Practice Divide in International Relations, Georgetown University Press, 2020, pp. 205-224)。
抑止や強制外交、危機管理といった戦略の成否は、それが実施される状況のみならず、それぞれの対象国の指導者に与えられたさまざまな要因(ストレス、リスク計算、時間の制約など)に左右されることをアレキサンダー・ジョージ氏は、一貫して強調していました。
人間事象に深く根差した戦略は、非人間的で機械的な「科学」では理解できないと感じる人は、歴史の事例から政策に関連づけられた中範囲の理論を構築したジョージ氏の著作を一度、読んでみてください(ジョージ氏の研究の概要は、次のペーパーが要領よくまとめています:Jack S. Levy, “Deterrence and Coercive Diplomacy: The Contributions of Alexander George,” Political Psychology, Vol. 29, No. 4, August 2008)。
ジョージ氏が仲間と編んだ『軍事力と現代外交』(有斐閣、1997年)は、政治学と歴史学のハイブリッドであり、強制外交や危機管理の成否を分けそうな条件を明示しています。
戦略への科学的アプローチを忌避する姿勢は、われわれの戦争への理解を貧弱なものにしてしまいます。たとえば、ロシアがウクライナ危機において国境付近に大兵力を集結させたのは、モスクワが強制外交すなわち同国のNATO非加盟を武力の示威で要求しようとしたものと理解できます。そしてロシアと米欧そしてウクライナは危機管理に失敗した結果、戦争に突入したのです。
トランプ政権がイランの核施設を空爆する前に「最後通牒」を発出した一連のプロセスも、やはり強制外交でしょう。こうした戦略の「常識」は残念なことに、わが国の論壇や世論では、ほとんど共有されていないようです。そのため、これらの重要な出来事への大半の日本人の理解は表面的なものになっています。
民主主義国の命運は、市民の合理的判断に依拠した健全な民意に左右されるとすれば、わが国における「戦略科学」の欠如は、由々しきことと言わなければなりません。






