シリアのアフメド・アル=シャラア暫定大統領は3月29日、新政権を発足させたが、22人の閣僚の中には宗教的少数派の代表が含まれていた。例えば、キリスト教徒のヒンド・カバワット氏が社会相を、運輸相にはアラウィ派のジャルブ・バドル氏が就任し、ドゥルーズ派のアムジャド・バドル氏が農業省を率いるなど、少数派への配慮が見られた。

戦闘はアリーカ西アル・スワイダでも激しい衝突 2025年7月19日 SOHR公式サイトから
半世紀以上を支配してきたアサド政権を崩壊させた立役者のシャラア大統領はシリアの民主化に乗り出してきたが、その最大課題は国内の武装勢力の武装解除と共に、少数宗派を「統一シリア」の建設のために結束させることだ。
シャラア氏はアサド失脚後、分裂した国の再統合を呼び掛け、「全ての民族、宗派は等しく公平に扱われるべきだ」と表明してきたが、3月に入り、シリア北西部で暫定政府の治安部隊とアサド前政権派の武装勢力が武力衝突し、1000人以上の死者を出した。死者の多くはアラウィ派やキリスト者の少数派住民だった。
そしてシリア南部スワイダ県で7月に入り、イスラム教少数派ドゥルーズ派とスンニ派のベドウィン(遊牧民)が衝突し、ロンドンに拠点を置く「シリア人権監視団」(SOHR)によれば、ほぼ1週間続いている戦闘で約1,000人が死亡したという。
SOHRによれば、ドゥルーズ派の武装勢力は19日、シリア南部の都市スワイダを完全制圧したという。武装ドゥルーズ派組織の報道官、バセム・ファクル氏はAFP通信に対し、「ベドウィン族がスワイダから追放された。停戦は尊重したいが、ベドウィン族はスワイダ郊外の複数の地域から我々を攻撃している」という。暫定政府が停戦を発表したにもかかわらず、スワイダ県の他の地域で戦闘はまだ続いている。
スワイダ県では、ドゥルーズ派とスンニ派ベドウィンは長らく敵対関係にあった。シリアの部族の戦闘員がベドウィンを支援するためにスワイダ地域に集結。ベドウィンは、スワイダ県の州都の一部を一時的に制圧するなど、戦闘を広げていった。シャラア暫定大統領は19日、「シリアは分断や宗派的扇動の実験場ではない」と述べ、「犯罪行為は厳しく処罰する」と警告した。
一方、イスラエルは今月16日、「少数宗派のドゥルーズ派を守るため」という理由で、スワイダに向かうシリア政府軍の車列やダマスカスの政府庁舎を爆撃し、国際社会から批判を受けたばかりだ。イスラエルのミラー国連次席大使は「イスラエルにはシリア南西部を非武装地帯として維持し、テロの脅威を防ぐ責任がある」と説明している。
参考に、余り知られていない少数宗派ドゥルーズ派について、外電情報を参考にまとめてみた。
彼らは少数派だが、中東の歴史において重要な役割を果たしてきた。中東には100万人以上のドゥルーズ派が暮らしている。ドゥルーズ派の一神教は、11世紀にシーア派イスラム教から分裂してエジプトで誕生した。死後の魂の輪廻転生を信じている。
ドゥルーズ派はイスラム教の「コーラン」を聖典とみなしていないことから、イスラム教徒の間では、ドゥルーズ派はイスラム教に属するか否かについて論争がある。ドゥルーズ派の伝統的な衣服は黒で、男性は白い頭巾を、女性は白いスカーフで髪と口を覆う。
ドゥルーズ派の大半は、シリア、レバノン、イスラエルの山岳地帯に住んでいる。推定70万人のドゥルーズ派は、シリア内戦以前は人口の約3%を占めていた。最大のグループは、南部のスワイダ県とクネイトラ県に住んでいる。ダマスカス郊外にも、小規模なコミュニティが存在する。
レバノンのドゥルーズ派の人口は約20万人と推定され、ヨルダンでは1万5千人から2万人と言われる。一方、約15万3000人のドゥルーズ派がイスラエル国民だ。他のアラブ系イスラエル人とは異なり、彼らは軍隊にも所属する。2万人以上のドゥルーズ派が、1967年にイスラエルがシリアから奪取したゴラン高原にシリア国民として暮らしている。
中東以外では、北米とオーストラリアにドゥルーズ派のディアスポラ(離散民)が存在する。最も著名なドゥルーズ派の一人は、アメリカ人俳優ジョージ・クルーニーの妻で人権弁護士のアマル・アラムディン・クルーニーさんだ。
イスラエルは自らをドゥルーズ派の守護者とみなし、最近の衝突を受けてシリア軍へ新たな攻撃を開始した。ドゥルーズ派はシリア内戦にはほとんど関与しなかった。アサド大統領が打倒された後、ドゥルーズ派指導者たちは統一シリアへの忠誠を表明したが、武装ドゥルーズ派のほとんどは、新政府とまだ合意に至っていない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年7月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。






