チャーチルに見る非情なトップの進退

23日午後、石破首相は自民党の総理総裁経験者3人と80分間会談した。ネットで中継を見る筆者の注目は、部屋を出てくる麻生・菅・岸田3氏の表情と態度だ。麻生氏も、岸田氏も頬が緩んでいた。このところ能面の様に表情のない菅氏ですら、少し微笑んでいるかに見えた。彼らは石破氏を待つ会見用マイクを避け、手前の階段で階下に降りた。

これに遅れること暫し、マイクの前に立った石破氏は硬い表情で、自身の「進退に係る話は出なかった」と述べ、開票が進んで自民惨敗が判明した際と同じく、総裁の座に留まる意向を滲ませた。が、先輩総裁3人の表情や仕草を見、また会談が80分にも及んだことも考え合わせて、筆者は同輩のLINE仲間数人に、以下を送信した。

石破は8月末に辞めると思います。80分の会談を終えた麻生・管・岸田の顔にそう書いてありました。先に石破が、慰霊の8月だけは首相として過ごしたいと泣きを入れ、それを3人が諒としたのです、きっと。

すると一人から、「石破の泣きを受け入れたとしたら甘い。八月にトンデモ談話でもしたらどうするのか」との返信がきた。「8月を待たずに降ろすべし」、確かにその通りだ。筆者の憶測も甘いし、7月中に辞めさせないとすれば3人も甘いという訳である。敗戦後、8月は日本国民にとって特別な月になった。だからこそ石破氏の8月を、総理総裁のままで過ごさせてはならない。

石破氏は参院選大敗から一夜明けた21日の会見で、トランプ米政権による関税措置、物価高騰、首都直下型地震や南海トラフ地震といった自然災害への対応などを挙げ、「いま最も大切なことは、国政に停滞を招かないということだ」と述べて、首相続投の意思を表明した。

この言い訳を聞いて筆者は、ポツダム宣言発出者に名を連ねることができなかったウィンストン・チャーチルが頭に浮んだ。チャーチルの英国首相在任は1940年5月10日から1945年7月26日。だが、7月26日の宣言発出者として署名したのはトルーマン米大統領、アトリー英首相、そして蒋介石中華民国総統の3人だった。

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第二次世界大戦における連合国の主な指導者は、ルーズベルト米大統領と後任トルーマン、チャーチル英首相、そしてソ連首相スターリンだ。ポツダム会議の開催もこの3人によって決められた。が、日本の交戦国でなかったソ連のスターリンは発出者から外れた。トルーマンとバーンズ国務長官はスターリンに因果を含め、ポツダムから電話で蒋介石に宣言の内容を伝えて承諾を取り、代理署名した。

チャーチルが外れたのは、7月5日から26日まで行われた10年振りの総選挙で、アトリー率いる労働党にチャーチル保守党が大敗したから。ポツダム会談の主目的はドイツの処理であり、交戦中だがほぼ帰趨が決した日本のことは従だった。その対独戦を主導したチャーチルが、ドイツの戦後処理に関われなかったのである。なお、アトリー政権は51年10月26日まで続いたから、日本のサンフランシスコ平和条約もアトリー政権下のことだ。

5月8日のドイツ崩壊から3週間余り経った6月1日、トルーマンはチャーチルに、スターリンが7月15日ごろベルリンで「三者」会談を行うことに同意した旨知らせた。チャーチルは、ベルリン行は歓迎だが、「私は激烈な選挙戦」の最中にある。それは会談の重要さとは比較にならないが、出来れば6月半ばから7月初めの日取りを、と打診した。

が、トルーマンは、熟慮の結果として7月15日が最も早い時期であると回答した。チャーチルは「私はそれ以上問題を押し返すことが出来なかった」と『第二次世界大戦4』に記している。トルーマンがその日に固執したのは原爆実験のためだ。成功の報は7月16日にポツダムにもたらされ、共有したチャーチルは「我々は(対日戦に)ロシアを必要としなくなった」と書いた。

その原爆が、チャーチルが野に下った翌8月6日と9日に広島と長崎に落とされた。ポツダム宣言は14日、日本によって受諾された。「物価高騰、首都直下型地震や南海トラフ地震」も重要だろう。が、関税交渉は決着したし、参院選の総括は昨秋の衆院選の分を含めて、後継総裁がすべきだろう。石破氏には一人の個人として戦後80年目の8月を過ごすことを勧める。

石破氏の誤った歴史認識については、拙稿「『韓国の悲劇』とドイツの戦後賠償:石破茂氏に異論あり」を参照願いたい。