
日米関税交渉の結果について、なぜ肝心の合意文書が存在しないのか。
その理由は単純だ。
米国が「相互関税」を課すには、米国の法的枠組み上、正式な合意文書が存在してはトランプ大統領が困るからである。
IEEPAの仕組みと大統領の裁量
その法的枠組みは「国際緊急経済権限法(IEEPA)」に他ならない。
トランプ大統領は2025年4月2日、同法に基づき、諸外国の不公正な貿易慣行が米国の経済安全保障を脅かすとして「国家非常事態」を宣言した。これにより、トランプ大統領ははじめて「相互関税」措置を発動できる要件を満たしたのである。
IEEPA(1977年制定)は、大統領が「異常かつ重大な脅威」を理由に国家非常事態を宣言した場合、議会の事前承認なしに関税措置を講じることを認める法律だ。
国家非常事態宣言の3日後、4月5日からトランプ大統領は実際、すべての国に10%の関税を課した。
対米貿易黒字の大きい国には個別に高関税が設定され、日本に対しては当初24%、その後25%の関税を課す方針が示された。
この高関税については、8月1日からの発動が通知されていたが、交渉の結果、日本に対しては15%に引き下げられることで合意に至った。
大統領の裁量と「合意文書」の矛盾
とはいえ、現在、正式な合意文書がないことが日本で争点になっている。
しかし、「国際緊急経済権限法(IEEPA)」の法理や建付けを理解すれば、その理由が容易にわかる。
同法にもとづく関税措置(いわゆる相互関税)の最大の特徴は、正式な貿易協定や合意文書を必要としない点にある。
大統領令だけで関税を発動・変更できるため、従来の自由貿易協定(FTA)のような議会批准や国際法上の義務を伴う文書は不要なのだ。
正式な合意文書が存在してしまうと、むしろ、「国家非常事態」の前提が崩れる法的リスクがトランプ大統領側に生じる。
なぜなら、公式化された両国間の合意文書は「交渉で解決可能な通常の貿易関係」を示唆し、IEEPAが想定する緊急事態性を弱めるからだ。
いいかれれば、「相互関税」の法的正当性が崩壊してしまうのだ。
IEEPAは大統領に関税措置など、広範な権限を与える一方で、その行使はあくまで「非常事態」に限定されており、通常の合意文書や貿易協定にもとづく恒常的な政策ツールとして利用されることは想定されていない。
さらに、関税措置の違憲性を問う訴訟が裁判所に提起された場合、非常事態の正当性が問われ、判事による違法性判断が下される可能性が高まる。
司法は一般に国家安全保障に関わる大統領権限に謙譲的だが、非常事態の終結が示唆されれば、判断が厳しくなることもありうる。実際に、IEEPAに基づく関税措置に対しては複数の訴訟が提起され、一部で「違法」との判断が出たものの、現在上訴中で決着はついていない。
正式な両国間の「合意文書」が存在すると、トランプ大統領が現在採用している国家非常事態宣言に基づく「相互関税」戦略の根幹が揺らぎ、様々な点で不利になる可能性が高いというわけだ。
大統領の裁量権最大化のための「合意文書化回避」戦略
つまり、トランプ政権は意図的に両国間の公式文書化を避け、大統領の裁量権を最大化しているのだ。
IEEPAに基づく関税措置は、米国国内法の枠内で完結する。大統領令は連邦公報に掲載され、関税率や発効日、対象国が公式化されるだけで発動できる。
しかし、トランプ大統領が「不公平な貿易慣行」による「異常かつ重大な脅威」を緩和するための交渉過程で、相手国から提示された譲歩(例:日本からの巨額の投資や市場拡大など)は連邦公報に記載されない。
IEEPAが大統領に与える権限は、国家非常事態宣言下における相手国の脅威レベルに応じた一律の関税率を課すものであり、個別の投資や市場アクセス条項の合意ではないからだ。
この米国の法的枠組みにより、日本は譲歩した約束に法的拘束力を負わないとはいえ、約束を履行しない場合、トランプ大統領は日本側の貿易慣行について「異常かつ重大な脅威」レベルが上がったとみなせば、いつでも「関税再引き上げ」という報復カードを自由に切れる法的構造を維持している。
日本側文書の戦略的「曖昧さ」
一方、日本側は、米国の関税措置に関する日米協議: 日米間の合意(概要)と題した文書(内閣官房 米国の関税措置に関する総合対策本部事務局)を作成している。
この文書には、「政府系金融機関が最大5500億ドル規模の出資・融資・融資保証を提供」といった日本の具体的な譲歩が記載されている。
しかし、この日本の文書は、両国間の「公式な合意文書」として、米国政府によって法的に承認・締結されたものではない。
この文書の性質は、「米国の関税措置(=関税を引き上げる大統領令)を出させないための、あるいは現状の関税率を引き下げさせるための、日本側からの譲歩提示と、その『お土産』について協議した記録」に過ぎない。
米国は一方的な大統領権限で関税を発動できる立場にあり、相手国はそれを回避するために譲歩を提示した内容を、日本の立場で記したものに過ぎないのだ。
なぜ「齟齬」が生まれるのか
実際、日本側が出した文書と、米国側が先に公表した文書「ファクトシート:トランプ大統領、前例のない日米戦略貿易投資合意」との間に齟齬があると批判されている。
しかし、この齟齬は必然的に生じる。
なぜなら、もし両国間で齟齬なく「完全な合意」が成立し、それが時間をかけて正式な貿易協定として結ばれれば、各国は友好国として扱われることとなるからだ。
その結果、トランプ大統領が相互関税を発動する根拠とする「国家非常事態」の前提条件そのものが崩れてしまう。
したがって、トランプ大統領にとっては、このような完全かつ公式な合意ではなく、齟齬が存在する不完全で非公式な合意こそが不可欠なのである。
この意図的な齟齬によって、今後も交渉は継続する。
その過程で、日本側の貿易慣行には「異常かつ重大な脅威」が存在するという建付けとレトリックを、トランプ大統領に絶えず提供し続けなければならない。
たとえ日本側が提供しなくても、トランプ大統領側は今回の合意がなかったかのように「日本のここがおかしい!」と指摘し、新たな要求を突きつけてくるはずだ。
両国間の公式合意文書が「あってはならない」裏付け:EUと英国の事例
正式な合意文書が「あってはならない」というこの戦略は、日米間だけでなく、EUや英国の米国交渉にも共通する。
例えば、7月27日に「合意」したばかりのEUの文書「EUと米国の貿易ディール(trade deal)について解説」では、「2025年7月27日の政治合意(The political agreement)は法的拘束力を持たない(not legally binding)。
EUと米国は、約束した即時の措置に加え、関連する内部手続きに沿って、政治合意の完全な実施に向けて更なる交渉を行う」と記述されている。
ポイントは、貿易ディールが法的拘束力を持たず、あくまで「政治的合意」という表現にとどまっている点だ。
同様に、5月8日に米国と「合意」した英国との「経済繁栄ディール(EPD)」に関する英国政府の文書も、その非拘束性を明示している。「米国と英国の両国は、この文書が法的拘束力のある合意を構成するものではない(this document does not constitute a legally binding agreement)」と明確に記されている。
さらに、5月8日以降、ディールの詳細を詰めていった進捗文書について、英国政府は「政策文書」(Policy paper)と位置づけている。
要するに、英国は一律の高関税を回避するためのトランプ大統領への譲歩を記した国内政策の文書に過ぎず、両国間の正式な貿易協定ではない建付けをいまだに維持しているわけだ。
これらの事例は、トランプ大統領が、他の貿易相手国との交渉においても、法的拘束力のある両国間の文書を意図的に避ける・避けさせるという一貫した戦略を取っていることを裏付ける。
繰り返しになるが、これはトランプ大統領側の法的リスク回避戦術であり、国家非常宣言下の相互関税という錦の御旗を維持するために必須なのだ。
それにしても、なぜ相手国はこのトランプ大統領の都合に付き合わなければならないのか。
「ディール外交」と相手国の現実的選択
この両国間の公式文書化回避の戦略は、トランプ政権の代名詞ともいえる外交スタイル、「ディール外交」と深く結びついている。「ディール」とは、必ずしも法的拘束力を持たない政治的・取引的な合意を指す。
しかし、これは米国側だけの都合ではない。相手国(英国、日本、EU)の実務家たちもまた、相互関税の根拠となる米国法の建付けと、トランプ大統領のスタンスを深く理解している。
すなわち、米国が「国家非常事態」にあると宣言している中で、もし相手国が両国間の公式な合意文書を要求すれば、それはトランプ大統領の法的リスクが高まり「顔をつぶす」行為と見なされ、結果的に関税が引き上げられるリスクが高まると認識しているのだ。
そのため、各国は、自国の経済的利益(関税回避や緩和)を短期的に優先するために、法的拘束力のない政治的な「ディール」という形を受け入れざるを得ないという、苦渋の現実的な選択をしていると言える。
日本側の赤沢亮正経済再生相が「文書化より迅速な関税引き下げを優先した」と説明したのも、まさにこの「ディール外交」に対応した結果である。
「無限ディール地獄」の構造
「ディール」は、いずれも法的拘束力を持たないがゆえに、「無限ディール地獄」ともいえる構造を生み出していく。
日本のサイクルは以下の通りである。
- 「相互関税」措置25%の通知 → 日本譲歩(投資・輸入拡大など)
- 大統領令で「相互関税」緩和、15%へ
- 米国側、四半期ごとに日本の譲歩履行状況を監視
- 日本の譲歩履行が不十分と判断 → 再「相互関税」(脅し)
- 追加譲歩(新たな投資・市場アクセス改善など)
- 再度ステップ2へ
ディールには両国間で一致義務や履行義務がないため、トランプ大統領側の気分次第でこのサイクルを何度でもループ可能なのだ。
まとめ
日米関税交渉において両国間の公式な合意文書が存在しない理由は、IEEPAに基づく大統領の広範な裁量権と、それに合致するトランプ政権の「ディール外交」という、米国側の明確な戦略にある。正式な合意文書は、「国家非常事態」の前提を崩し、大統領の権限を制約するリスクを孕むからだ。
日本、EU、英国がそれぞれ作成する文書や声明は存在するが、それらは両国間の法的拘束力を持つ合意文書ではない。
この「無限ディール地獄」の構造は、非公式なディールと四半期ごとの監視を通じて、日本経済を継続的に圧迫していく。
付記:日本のコメ高関税について
しかし、このあまりに理不尽にみえる「無限ディール地獄」の背景には、トランプ大統領が掲げる「相互主義」の理念がある。
相互主義とは「他国が我々を扱うように、我々も彼らを扱う」という原則であり、その理念を実現するための関税が「相互関税」と位置づけられている。
例えば、今回の交渉において日本が米国産米の輸入拡大(ミニマムアクセス枠内での対応)に応じたとしても、米国側が「不公平な貿易慣行」とみなす日本の高関税(従量税341円/キロ、日米両国が過去に算定した従価税換算値700%+)を維持している限り、日本は相互主義に反していると見なされる。
一方、アメリカが日本産米に課す関税は1.2セント/kg(1ドル150円換算で1.8円/キロ)に過ぎず、日本の関税の約190倍もの差がある。
この不均衡=反「相互主義」を理由に、今後もSBS(売買同時入札)枠のさらなる拡大や関税低減など、コメの本格的な市場開放を求められることになる。
もっとも、米国にとって日本向けのコメ輸出は全体のわずか0.37%に過ぎない。日本が輸入を倍増させたところで、経済的な意味合いは限定的である。
しかし、トランプ大統領にとって、日本のコメ市場は貿易慣行における世界的な「不公平性」の象徴であり、相互主義に立たない国には「相互関税」が課され、引き上げられるというメッセージを送るための重要なカードであり続ける。
編集部より:この記事は、浅川芳裕氏のnote 2025年7月30日の記事を転載させていただきました。オリジナルをお読みになりたい方は浅川芳裕氏のnoteをご覧ください。






