スマホ漬けは阿呆になるか?
シンプルな質問ですが、この答えはシンプルではないかもしれません。ただ、私は一般傾向としては阿呆になりやすいと考えています。
このブログで10数年も前にショートテキストメッセージのやり取りは人が考えることを止め、動物的反応(本能行為)に戻りやすくなり、退化しやすくなる、ということを指摘したことがあります。元ネタとなる発想は研究者の論文だったのですが、その後、その手の話をあまり聞くことはない一方、スマホ一日8時間といった人は当たり前の状態になっています。これを今後、20年、30年と続けた場合に阿呆を通り越すのだろうか、と考え始めました。
阿呆を通り越すとそこは何処?
認知症ではないか、という気がしております。気がしているというあやふやな言い方しかできないのはまず、実証実験や研究結果があまりなく、科学的に証明できていないからです。認知症は20年近くかけて発症していきます。それこそ認知症がふつふつと成長していても沈黙の臓器のごとく普段の生活では何も変わりがないのです。ところがある時、「うーん、思い出せない」という事象がポツポツ発生し、それがいつの間にか、同じ話を繰り返し、朝、何を食べたか思い出せず、テレビをぼーっと見ていてもさっき何の番組を見ていたか思い出せず…となっていきます。

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これが認知症の初期。そこからは様々なパタンが生まれます。行動派の方は散歩に出るけれど「ここはどこ?家はどこ?」。タクシーに乗れば「お客さん、どちらまで?」「えーっと。特にないのですが走ってください」とか。中には暴力型もあるし、落ち込み型もあります。極めて深刻な状況なのですが、臓器は割と健康なので長生きできるのです。自分を十分認識できない期間が10年、20年続くと思うとぞっとします。
では高齢者の認知症が若年性で現れるケースはどうでしょうか?いわゆる若年性認知症の調査では18歳から64歳という広い幅における有病率を見るのですが、これだけワイドなレンジだとさすが有病率は2009年と2018年の東京都や厚労省のそれぞれの調査ではさほど変化は見られません。ただし、60歳から64歳というレンジだけで見るとその間、1.5倍に増加しています。その多くはアルツハイマー型だと指摘されています。
可能性としては若年性認知症というより、認知症の早期発症化が進んでいる可能性は否定できないのかもしれません。私は医者でも研究者でもないのでいい加減なことは言えませんが、若いうちは脳がまだ健康で活発であり、多少の抵抗にも耐えられるけれどその耐性が衰えてくれば重大な問題を引き起こすのかもしれません。
アルツハイマー型の認知症の原因は運動不足と知的活動の低下とされます。もちろん他に生活習慣的な要素、飲酒や喫煙、偏った食事、肥満、高血圧…といった問題が主たる要因を取り囲み、促進させる構図なのだと思います。私が特に着目しているのが知的活動の低下です。これはとりもなおさず、思考、記憶、判断の欠如です。
現代社会では上述のようにショートテキストメッセージによる短文というよりごく少数のキーワードによる単語の羅列状態の表現が当たり前になることで条件反射的反応に留まり、思考力を求めなくなります。次にスマホなどに記憶させることで自分で覚える能力が欠落します。かつては自分の家族の電話番号を言えますか?という質問でしたが最近は「自分のスマホの番号を言えますか?」にした方が良いぐらい記憶しなくなっています。
スケジュールはグーグルカレンダーに放り込んであるし、その行先も指でタッチすれば地図が出てきて自分の位置情報からそこまで行く方法を教えてくれます。私は東京都内の鉄道網はほぼ頭に入っているのでA地点からB地点に移動する最短のルートをグーグルに聞くことはありませんが今やタクシーの運転手もナビに頼らざるを得ない状況にあります。
そしてAIの進化と日常生活への影響から自ら判断をすることも無くなりそうです。それこそ、近い将来、レストランに入ればまずはスマホに「この店で私が食べたら一番満足するものは何?」ときけば「今日はとんこつみそラーメンに餃子ですね」と答えてくれてそれを指で押すと勝手に注文されるという時代が来てもおかしくありません。
これって我々人間は本当に人間なのでしょうか?ゾンビと何ら変わらない気がするのです。生かされているだけです。
これをお読みの方は笑うでしょう。でも笑っているうちが華なのです。そのうち、人間から喜怒哀楽もなくかもしれません。つまり認知症を通り超えると感情表現ができなくなってもおかしくないのです。これじゃ本当に韓国映画のKゾンビブームと同じになってしまいます。
スマホをなぜ見るのでしょうか?「脳のドーパミンは期待に対して反応する」とされます。期待はたくさんあります。例えば株のデイトレーダーにすれば刻々と動く株価を見つめるのは期待感があるからです。競馬好きの人は勝てるかもしれないという期待。宝くじも同様でしょう。そして現実社会では「スマホに何かメッセージがあるかもしれない」という期待感なのです。
例えば食事なり飲み会をしている時、対面に座っている人のスマホに着信があるとすかさずそれを確認して返信をする人がいます。その間、会話はブチ切れます。「えーっと、何の話だったけ?」というのは私は嫌なのです。1時間か2時間、スマホはカバンにしまっておいてくれ、と思うのです。しかし、もはや人間はスマホに紐づけされ、虜となり、奴隷となっています。
それが高じて20年もすれば蔑称かもしれませんが、廃人のようになってしまうかもしれません。テクノロジーは着実に進化していきます。それに乗せられるか、それを利用するも地に足をつけ、人間として活動できるか、それは個々人の気持ち1つとも言えそうです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年8月3日の記事より転載させていただきました。






