ネットフリックスの人気ドラマ「アドレセンス」英国で見て気になる点とは

ドラマ「アドレセンス」の父親と息子(Tudum by Netflix サイトからキャプチャー)

米ネットフリックスが今年第2四半期の決算を報告し、前年同時期と比較して売り上げが16%増加したという。ストリーミング配信で最も視聴された番組は英国のミニシリーズ「アドレセンス(「思春期」の意味)」で、1億4500万ビューを記録した。

日本でも人気となった「アドレセンス」は、13歳の少年が同級生の女の子を殺害した疑いで逮捕される場面から始まる4話構成のドラマだ。もうすでに広く紹介されているので、若干の概要も交えて書いてみたい。筆者は視聴する前から大体の筋を知っていたが、それでも十分に堪能できた。(以下、ネタバレを一切好まない方はご注意を。)

この少年は一見すると、非常に純粋で、まじめで「よい子」のようだった。頭もいいし、家庭も幸せそうである。視聴者のほとんどが「まさか、こんな子が殺人なんて、うそでしょう?」と思ったはずだ。

ところが、彼は警察の取り調べも父の同席が必要なほど幼い子供だが、ネットを通じて「ミソジニー(女性嫌悪)」思想の影響を受けていたことが次第に判明していく。そして・・・という物語だ。

ドラマは英国でも大きな話題となり、スターマー英首相が「アドレセンス」の制作者と懇談し、「有害な男らしさ」がもたらす子供への影響とその対策について意見を交わす機会を持った。また、国内の中等学校で視聴できるように奨励もした。

なぜ英国で話題になったのか

ソーシャルメディアを通じてのミソジニーの広がりは、英国では大きな問題の1つだ。10代の子供を持つ親にとって、自分の子供が女性を蔑視する考え方に染まっていないかどうか、そしていじめや何らかの暴力的行為の加害者あるいは被害者になっていないかを知ることは非常に重要で、切実な問題である。親として何ができるのか。

多くの大人は10代の子供たちがネットで何を見て、どのような影響を受けているのかについては知らないものだ。ドラマを見て初めて、子供たちのネット交流の実態、そしてその影響のほんの一端が見えてきた。初めて知ったもろもろのことは、大きな衝撃だった。

「モテるか、モテないか」

ネット上のやり取りでコミュニケーションがどんどん発展し、仲間だけの会話では特別の言葉が使われる。そして、「モテるか、モテないか」がとても重要ー。ネット時代を生きる10代の少年少女にとっては、こうしたことは常識だろうけれど、大人にはいまいち、ピンとこない。筆者も同じだ。

「モテるか、モテないか」という物差しですべてが判断されてしまい、「モテない」と区分けされてしまったときの怒りやくやしさも、大人は十分には理解できないのではないか。

少年たちにとっては「男らしさ」を体現する、父の評価も重要だ。言葉で言われなくても父の気持ちを(いわば勝手に)「想像」し、「父の基準に達しなかった」と自分を責める少年たちもいる。このドラマの主人公のように。

そんな少年たちの葛藤をドラマは1回1時間の4話構成で描き出した。

緊迫感あふれるワンカット撮影

それぞれの回は「ワンカット撮影」で収録された。これはカメラを止めずに最初から最後まで一続きで撮影する手法のことだ。映像が切れ目なく連続して流れるため、臨場感やリアリティが強く感じられ、カメラが動きながら人物や空間を追うことで、空間的な一体感を生み出す効果がある。

俳優たちのパフォーマンス

ワンカット撮影で素晴らしい演技を見せるのが主人公の少年を演じた新人オーウェン・クーパー、その父親役スティーブン・グレアム、刑事役アシュリー・ウオーターズ、フェイ・マーセイ、カウンセラー役のエリン・ドハティである。

衝撃の場面の数々

ドラマにはいくつもの衝撃の場面があるが、よく言われているのが、少年とカウンセラーが向き合う回でのオーウェン・クーパーの迫真の演技だ。ここで少年が一気に本音を見せるあたりなど、今回のドラマが初演技とは思えないほど。ワンカット撮影だからこその迫力が出た。

少年が通う学校を刑事が訪れ、聞き込み調査をする。この時の学校の無秩序さ、生徒の大人に対する敬意の欠如など、日本の学校教育の常識が吹っ飛ぶようなリアルさがある。刑事と息子の会話も、次第に氷が解けていくような気持ちの推移となり、名場面となっている。

最終回ではスティーブン・グレアム演じる父親が抑えてきた怒りを表面化させる。最後で妻と抱き合う場面は画面から目を離せなくなるほどだ。

個人的に思ったこと

「繊細な10代の少年」にとっては、大人の行動が一喜一憂の元になり得る。

主人公の父は子供たちを愛し、子供たちに暴力をふるうことはないし、「男であれ!」と要求もしない。それでも、少年は無言のメッセージを感じ取ってしまう。「父が満足するほどの自分ではない」という思いをどこかで抱いてしまう。

ドラマの父は家族を愛し、それを行動にあらわす。家族同士はとても仲が良い感じだ。

それでも、筆者はこの父親から暴力の影のようなものを感じ取った。「自分は家族に絶対に手をあげないぞ」と誓うものの、暴力的なものを抱え込んでいるように見えた。

だから、筆者は最終回をハラハラしながら見た。いつこの父親が自分の中にある怒りや暴力を外に出すのか、と。最後にはあることが起きて、父親は感情を爆発させる。

少年は父の中に隠された怒りや暴力をどこかで拾ってしまったのだろうか。

欠けていたかもしれない視点

最後まで見て、欠けている視点があるように思えてならなかった。

それは、犠牲者やその家族のことだ。ドラマは少年とその家族の話だから、あえて犠牲者の側の視点は出さなかったかもしれない。意図的な排除だったのかもしれない。

それでも、人として、犠牲者やその家族のことに思いをはせ、悲しみを感じる部分があってもよかったのではないか。少年が少年院あるいは刑務所に入ったとき、人の命を奪ったことの重みを感じたのかどうか。少年の家族は自分の家族のことだけではなく、子供を失った側の悲しみを想像しなかったのだろうか。こうした点をほんの少しでもドラマに反映させても良かったのではないか。


編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年7月24日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。