
「参政党の当否」をめぐる論争が、収まらない。おかげで支持される理由の取材が、関係者でないぼくにまで来て、まずJBpressで記事になっている。全2回で、どちらから読んでもOKだ。

先月の参院選の最中には、同党の異様な憲法草案も争点になった。国民の「権理」(参政党におけるRightの訳語)の記載が、確かに少ない。該当するフレーズを抜き書くと、こんな感じになる。

第8条の1 主体的に生きる自由
2 健康で文化的な尊厳ある生活を営む権理
第9条の1 自ら学び自ら考える力を基本とする教育を受ける権理
第11条の2 必要な医療を選択する自由
第13条の1 政治に参加する権理
現行の日本国憲法が掲げる「権利」と比べ、ざっくりし過ぎな上にあまりにわずかだ。それが人権軽視として非難されたわけだが、選挙戦中の報道に接して、大いに気になる点があった。
まずは、7月16日の毎日新聞。リンクをクリックしなくても見られるように、記事の中に掲げられた「参政党の憲法が削除した自由」の一覧表を、別途スクショで附しておく。


続いて東京新聞。7月19日の公開で、1行目は「20日投開票の参院選で勢力を大きく伸ばすとみられている参政党の「憲法構想案」が物議を醸している」だ。訴えたいことは明白である。


あることに気づかないだろうか? 「この不可欠な権利が、奪われようとしている!」として列挙される中に、以下の条文が入っていないのだ。
第23条 学問の自由は、これを保障する。
e-Gov法令検索「日本国憲法」
(強調を付与)
当初ぼくは変だと思い、もしや「参政党も “学問の自由” だけは明記してるの?」と勘ぐって、何度も読み直した(けっこう苦痛だった)。が、想像のとおり、そんな項目は参政党の草案にない。
奇妙な話ではないだろうか? 7月の選挙戦のわずか前月には、日本学術会議の法人化(6月11日に法案成立)が話題となり、リベラルなメディアほど率先して「学問の自由」の危機だと、盛り上げていたのではなかったか?

これが示すことは、はっきりしている。もはや参政党を「極右」と見なして批判し、人権を守れと唱えるメディアにあっても、学問の自由は重視されていない(涙笑)。その優先度は、紙面に載せてもらえないほど低い。
どうしてこんなことになるのか? 2020年からのコロナ、22年からのウクライナと専門家が大活躍し(笑)、学者が時の首相を痛罵する姿すら目撃されて、「うおおおやっぱり学問の自由は大切!」となったはずの5年半では、なかったのか?

で、ここからが重要なのだが、端的に言って、悪いのはメディアではない。むしろ、学者の自業自得だと考える。
たとえば学術会議の問題が最も注目された際、焦点にいた加藤陽子氏(東京大学教授・日本史学)は、2020年11月21日の毎日新聞で、こう書いている。というかむしろ、言い放っている。
判例を踏まえた憲法解釈をまとめておきたい。第23条は生まれながらの人一般の学ぶ権利を保障したものではない。それは思想・良心の自由(第19条)、表現の自由(第21条)で保障されうるからだ。
第23条は専門領域の自律性、公的学術機関による人選の自律を保障するために置かれた。学術会議問題の根幹には、たしかに学問の自由の問題があるのだ。
38-9頁(段落を改変)
「第」が足された以外、文面は初出紙と同じ
「専門領域の自律性」を言うなら、なぜ憲法学者でもない加藤氏が独自の解釈を述べるのか謎だが、見落とせないのはその後だ。要は「学問の自由の条文は、私が任命拒否されないためにあるのだ!」とする魂の叫びである。
改めてすごい話だと思う。日本は民主主義の国ですよね? その憲法を楯にして政府と争う学者が、社会の関心が高かった、肝心かなめの時期に、
憲法23条が保障する「学問の自由」は、私のための権利でみなさんには関係ない! みなさんは19条と21条で守ってもらえば、それでいい。でもなお、みなさんは私を応援すべきなんだ!
と、全国紙に書いてたのだ。なにしてんの?
もちろん例によって、後出しの批判ではない。2021年の6月に刊行した著書で、収めた旧稿に加筆する際、加藤氏の文章を引用した上で、

日本学術会議への「生まれながらの人一般」の支持が広がらなかったのはなぜか、その理由をこれ以上なく雄弁に物語る当事者の証言である。
316頁
と、書いておいた。で、そこから4年後に(旧)学術会議は法人化でお払い箱が決まり、翌月には掲載紙だった毎日新聞も、「参政党批判」の局面ですら、学問の自由には言及しなくなった。

それもそうだろう。「大学の自治」を称しつつ、政府が指示する自粛にヘイコラして異を唱えなかった人たちは、もともと「学問の自由」を使ってないんだから。やっと使い出したと思ったら、自分のポストのためって(笑)。
また別の人だけど、先の選挙戦で与党自民党に頼まれてる人の手になる「参政党の躍進はロシアの工作!」なる情報を拡散し、背景が明らかになった後も、撤回も反省もしない大学教員がいることは、前に書いた。

産経新聞といえば「自民推し」メディアの最たるものだが、それでも言論の自由をきちんと行使して、根拠なく野党や在野のアカウントを「ロシアの工作」扱いすることの問題性を指摘している。日本の民主主義を守る上で、学問の自由だけがなにもしていないのだ。

自民党のホームページに7月30日、「SNS上の『認知戦』から民主主義を守る」と題した平〔将明・デジタル相〕氏のインタビュー記事が掲載されると、外国の工作活動に詳しい国際ジャーナリストの山田敏弘氏はXで次のように投稿した。
「そろそろ、その話の証拠を示してください。さもないと大臣自身が自民党のために認知戦をしていると思われますよ、今のままでは」
2025.8.6
さて、ここまでなんの役にも立たず、いまや護憲派のメディアさえ採り上げないカワイソウな憲法23条(学問の自由)だが、それならこの際、ばっさり削除とかって、どうだろう?
9条2項(軍備及び交戦権の否認)が、あまりに現実と乖離し機能していないので、削除しようと謳うのが「改憲論」の王道である。しかし国論が割れてきた歴史もあって、往年の安倍晋三氏ですら「加憲論」に切り替えた。

9条と異なり23条なんて誰も知らないし、なにより19条と21条があれば「生まれながらの人一般」は困らないらしい。なら、要らないじゃん(笑)。誰がこの国の主権者かを、思い出すときだ。
あるいは、参政党のテイストで「加憲」して、
新23条 学問の自由は、これを保障する。
2 学者は、専ら公益の維持及び増進に従事する責務の下に、その自由を行使する義務を負う。
3 学問の自由は、濫用してはならない。生まれながらの国民一般の自由を毀損する形で、学者が権理を濫用した場合は、国がこれを罰する。
4 前項の目的を達するため、大学の自治は、これを認めない。
……とするのも、「権理を濫用」する学者を減らし、国民の23条への信頼を取り戻すには、意外に妙手かもしれない。

濫用の一例ですね。
詳しい経緯はこちらを
ちなみに第4項を足すのは、上記のように好き放題SNSで他人の「言論の自由」を毀損しながら、所属先に抗議されるや「学問の自由」を弾除けにして逃げ出す矮小な大学教員が、この間目についたからである(苦笑)。

Shinkichi Fujimori氏も
東野篤子氏に根拠なく
「親露派」認定された被害者。
こちらを参照
民主主義の国の憲法でも、「学問の自由」に独立の条文が設けられているとは、そもそも限らない。むしろ日本国憲法の方がめずらしいことは、先の加藤陽子氏が同じコラムで書いていた。
世界の憲法を眺めれば、「学問の自由」の条文を置かない国も多い中、標準装備といえない本条を制定するにあたって日本側は、何を託そうとしたのだろうか。
前掲『この国のかたちを見つめ直す』38頁
戦後80年を経て明らかになったのは、託されたものは「受けとられていなかった」という、端的な事実だ。そうした学者たちの敗北をどう抱きしめるかこそが、いよいよ今年の後半から、問われるべきことだろう。
JBpressの取材でも、誤解の余地のないように、はっきりぼくはこう述べた。信用の失墜と、批判とを受けとめて、学問の担い手が自ら襟を正すのが先か。まるごと要らない存在として、憲法からも姿を消すのか。残るは時間との争いである。

大事なのは、参政党が今回吸い上げた「世の中への不信感」自体をなくすこと。そのために行うべきは、専門家が間違えてきた歴史の再検証であり、メディアの自浄作用の回復です。
まず主流派が「我が振り」を直すから、それへのアンチ(参政党)も改まるのであり、逆ではありません。
4頁、2025.8.18
参考記事:



(ヘッダーは、こちらの書籍の表紙に加筆しました。すみません)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






