
先月刊行になった荒木優太さんとの対談で、彼の研究対象でもある鶴見俊輔(1922-2015)の話をした。なので紹介するnoteでも触れたけど、いまはもう「誰?」という読者も多いだろう。

1979年生まれのぼく自身、あまり鶴見の記憶はない。朝日新聞系の媒体に、大御所的な扱いでたまに出る「左の偉い人」として、たとえば加藤周一に近いイメージだったけど、没年まで「夕陽妄語」を連載した加藤と比べても、現役ではなく大昔の偉人みたいな印象だった。

むしろこのポスターで知った世代かな
(九条の会は2004年発足)
ぼくらの世代が「この人すごいらしい」と気づくきっかけは、2004年刊で上野千鶴子・小熊英二の両氏が聞き手となった『戦争が遺したもの』(収録は前年)。戦後知識人と呼ばれる人の秘話が満載で、インタビューとして理想の本のひとつだ。
たとえば、丸山眞男との旧交を語っていわく――

小熊 その点が丸山眞男さんと、鶴見さんの分かれ目ですね。丸山さんは、〔知識人だけでなく〕庶民にも倫理を求めますでしょう。
鶴見 丸山さんもそういって私を批判したんだよ(笑)。「鶴見さん、あなたは大衆をほめるけれど、それはあなたが育ちがよくて知識人だからですよ」ってね。
小熊 『語りつぐ戦後史』の対談で、そんなことをおっしゃっていましたね。丸山さんのいうには、世評では自分が特権的インテリで、鶴見さんは大衆寄りだと見られがちだけど、じつは逆である。鶴見さんのほうが世間から浮いた知識人で、自分のほうは育ちもそんなによくないと。
鶴見 彼は、自分は庶民だと思っていたんだよ(笑)。丸山さんは私に対する嫌味で、よくこんなふうに言ったんだ。「それは、君が貴族的だからそう考えるんだよ。僕なんか、近くの貧民窟の人たちと一緒に落語を聞いていたんだ」ってね。
上野 言いたい気持はわかる(笑)。
鶴見 私はそうは思わない。私は生まれついての不良少年だったんだから。
154-5頁(強調は引用者)
これは「逆マウント」というやつで、戦後には左派寄りの知識人ほど、俺はインテリに見えても庶民に近いんだとアピールすることが多かった。度が過ぎると嫌味になり、現に鶴見・上野も丸山の「庶民コスプレ」を嗤っているが(苦笑)、だけど今日、大事なことだと思う。
冷戦後に左翼が「リベラル」を自称し始めたとき、真っ先に失われたのが、この庶民目線に立たねば十分な民主主義ができない、という感覚だった。で、健全な意味での「反知性主義」への対応を誤り、エリート風ばかりを吹かせた結果、世界で連戦連敗である。

丸山が鶴見を「貴族的」とからかったのは、俊輔の父の鶴見祐輔が、後藤新平の女婿にあたる大物政治家だったからだ。しかし英文の著書もある米国通だったのに、戦時下では大政翼賛会で活動し、俊輔は父のそんな「転向」を嫌っていた。
母親が教育虐待かつ過干渉だったため、秀才の俊輔は生家がつらくて「不良少年」になり、非行や自殺未遂を繰り返した。高度成長以降に普遍化する日本の家庭の悩みを、富裕層ゆえに戦前から知っていたともいえる。

さてそんな出自を持つ鶴見が、1945年の敗戦の際の「見込み違い」を、印象深く語っている。往年の座談会(「知識人の場合」『芽』1953年8月号)で共産革命が起きると予想していたと述べた過去を、小熊氏に指摘されての応答である。
鶴見 自分の家は金持だから、略奪されるだろうと思ったんだよ。
上野 そういう発想ですか(笑)。
鶴見 そう(笑)。金持の息子は、結核だろうが何だろうが徴兵検査で合格にしちゃうという世の中に〔戦時下で〕なったわけでしょう。……食糧不足になったら隣組単位で共同炊事が起こって、私の家なんか略奪されて、共産主義革命になるだろうと思ったんだ。
だけど、その予測は外れたわけ。どんなに空襲や食糧不足がひどくなっても、日本人は共同炊事ができなかったんだよ。一人ひとりが農村のコネを一人でたどって、買い出ししていた。
上野 結局、家族エゴイズムにとどまったと。
小熊 家族エゴイズムが、総力戦体制と革命の両方を成立させなかったと。そのあたりは、丸山眞男さんの論文「日本におけるナショナリズム」などが描き出していますね。
鶴見 あれは、もう計算外。むしろ、家族も解体していくようなエゴイズムでしたね。もう親戚や親兄弟で食糧の取り合い。共同性もへったくれもなかったような感じがします。
128-9頁(段落を改変)
敗戦直後の日本はもちろん貧しく、飢餓すれすれの水準。かつ後で鶴見も触れるように、隣組を指導する翼賛会のリーダーには、社会主義からの転向者も多かった。ところが「家」を越えての協力はちっとも見られず、革命は挫折(?)する。
気づいてほしいのだが、この前も言ったとおり、これは最近もコロナで繰り返された構図と同じだ。先日の喩えは農村のものだけど、鶴見の回想は、都市からそれを言いあてたともいえる。

当初、被害が遥かに甚大だったヨーロッパでは、ロックダウン中でもベランダで合唱し、互いを励ましあう光景が見られた。もし日本で同じことをやったら、炎上し通報されただろう。ぜんぜん少ない死者しか出てないのに。
そのくらい日本では、共同性を感じる範囲が狭い。同じ家屋に居住する1~3名だけが “身内” で、他はみんな見捨てていい “他人” なのだ。鶴見と囲む2人が見出した「家族エゴイズム」の帰結だけれど、世界の家族がどこもそうとは限らない。
たとえば7月の選挙の最中、参政党の躍進をみんな「騒ぎすぎ」だという趣旨で、なぜ彼らが日本にトランプ革命を起こせないかを論じた。J.D.ヴァンスを生んだラストベルトには、一族という広い範囲で助けあう「共同体家族」が存在しても、同じ基盤は日本にはない。

敗戦後に、勢いがあったはずの共産革命を阻んだものが、いま同じく世界で吹き荒れる、保守ないし家父長革命への防波堤にもなっている。参政党がどこまで日本を変えるかも、同党が「家族エゴイズム」を越え得るかが、分岐点となろう。
……と、『正論』10月号の「参政党特集」のために話した内容が、書店に並んでいる。保守論壇誌で鶴見さんの話というのも珍しいし、ずばり産経系の面子の中で、いいスパイスになったと思う。

タイトルは「参政党躍進はリベラルの自滅だ」なので、エラソーに同党を罵っても実態はそれ以下の人たちへの批判もたっぷりある。証拠もなく選挙戦中に「ロシアの工作!」と叫んで、居直るセンモンカの話もね(苦笑)。
本質を捉える「本物」の思想は、亡くなった後もずっと輝く。ニセモノはSNSで使い捨てられ、歴史のゴミ箱に消える。両者を分別する「ホンモノ」の作業こそが、いま戦後批評の正嫡の手で、あらゆるメディアで行われなければならない。
参考記事:



編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年9月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。







