先週の記事で、西アフリカのニジェールの名を出した。にわかに「ホームタウン騒動」で有名になったナイジェリアに隣接し、貧しいのはむろん、世界で最も「情勢不穏な国」の比喩としてである。要は、ヤバい国だ。
どのくらいヤバいかと言うと、ウクライナ戦争のさなかに米軍を追い出して、ロシア軍に来てもらうくらいヤバい。そう決めたのが、クーデターで成立した軍事政権なのもヤバい。センモンカの発狂が懸念されるヤバさだ。
が、それを笑えないのが本当にヤバいところだ。表向きは民主主義を謳いつつ、植民地的な利権や腐敗を温存してきたとして、米国(と旧宗主国フランス)はこの地域で人気がない。西側の二枚舌よりは、ロシアの一枚舌の方がマシだとする空気があるらしい。
そんな時代の訪れを、だいぶ前から予見していた小説がある。ていうか、世界的にもかなり有名な作品なのだが、たぶんそんな風にはまだ、読まれてないんじゃないかと思う。
……というわけで、引用行ってみよう。以下のセリフは、内戦中という設定のニジェールの停戦監視団で発される。
「戦場を喫煙所代わりにはさせない。……溢れる善意に窒息する手合いだったなんて、よく隠していられたものね。隣人に愛し愛されることを、久しぶりにたっぷり味わってきなさい、トァン。それが公共的正しさというものよ」
ハヤカワ文庫旧版、77頁
強調は引用者
(後日、現行の版に差し替えます)
読んだ人は、思い出したかもしれない。伊藤計劃の遺作『ハーモニー』(2008年12月)の一節だ。
WHOが身体の健康はおろか、精神衛生までテックで押しつける近未来、うんざりした主人公はあえて戦場を職場に選んでいた。それがバレて叱責され、世界一マジメに国際機関の基準に従う、日本に送り返されてしまう。
原文では「公共的正しさ」にポリコレならぬ、パブリック・コレクトネスとのルビがある。もはや “正しく” あることが、個人の価値観でなく、社会の義務のようになった世界。去年出した本で、ぼくが「クリーンワールド」と呼んだものを、より適切な言い方でとっくに予言していた。
えっ、それって理想じゃないの? と感じる人も、いるかもしれない。そんな人はいまだに「うおおおセンモンカが日本を救った!」として、全員がマスク姿で接触8割削減したコロナ禍の初期を、人類史上のGlorious Daysとして覚えているのかもしれない。つまり、バカだ(笑)。
なぜ、そんな「公共的正しさ」はユートピアどころか、ディストピアしか生まなかったか。これまた、ぼくなら事態の後でようやく気づくことが、さらりとあらかじめ書かれている。繰り返すが、2008年の作品なのに。
言ってみれば自分を律することの大半は、いまや外注に出されているのだ。生化学的に計測された精神的逸脱への警告というかたちで、外部化されたのだ。医療分子の発明は、身体と規範とを同一のテーブルに並べてしまった。
同書、143頁
『ハーモニー』の世界では、成人はみな監視チップを体内に埋め込まれ、メンタルも含めた健康をデータとして管理されながら生きている。”適切でない” 感情が湧いた場合も、それを自分で処理するのではなく、AIが出すアラートに従う。
作品から10年ほど後のコロナで起きたのは、ショボい『ハーモニー』だった。本人が「トイモデル」と認める雑な計算で接触制限が決まり、効果も不明なマスクを「とりあえずつければ」叩かれないとして、判断の基準も外注に出された。
『ハーモニー』は英訳され海外でも受賞しているので、ワクチン接種が始まった際の「マイクロチップが注射されて監視社会が…」な噂にも、影響があったと思う。日本人の想像力は同作の後に劣化して、人文系でも「うおおおファクトチェック!」しかしない人ばっかだったけど(苦笑)。
作中でも現実でも、パブリック・コレクトネスなクリーンワールドは、さまざまな検閲でノイズを排除し、一切のリスクや不快さのない秩序をめざす。しかし逆にいうと、わざわざ検閲するのは、そうしなければ「壊れるぞ」と不安に怯える脆さがあるからだ。
なぜだろうか。発売中の『文藝春秋』10月号の連載で、同書を採り上げてずばり書いた。あくまで「リベラルの教科書」としての紹介なので、ネタバレする書評になった点は、許してほしい。
だが、戦地から来た少女は思う。そんな世界こそ、私を排除してはいないか。生きるなかで人が孕むネガティブな部分を、予防や治療と称して単に「なかったこと」にする医学者が掲げる科学など、偽善のイデオロギーにすぎないと。
『文藝春秋』2025年10月号、390頁
ここでいう「戦地から来た少女」は、ニジェールから帰国する主人公の旧友だった。かつ(現実の)2009年まで続いた、チェチェン紛争の戦災孤児でもあったことが、読み進むにつれ明かされる。
物語を動かすのは、世界が抱える困難をいわば “課題洗浄” して、「解決できる」かのように装うクリーンさの支配に、彼女が仕掛ける復讐だ。
日本では例によってメディアに飽きられ、途中から報道されなくなったけど、現にその紛争は冷戦後の世界を暗転させる分岐点だった。ウクライナ戦争の前、2021年に出した『平成史』に、はっきりとぼくは書いている。
冷戦の終焉時に輝いていた夢のかげりは、翌98年にはついにかつての政変劇の主人公・ロシアへと及びました。アジア通貨危機の余波で欧米資本が投資を引き上げたのに対抗して、西欧化の旗手だったはずのエリツィン大統領は内閣を次々更迭する強権統治を発動〔し〕……99年の大晦日、チェチェンのイスラム武装勢力を抑え込んで国民の人気を得ていた、ウラジミール・プーチン首相を後継に指名し引退。
無秩序とともにある自由を棄て、力の支配による安全を求め出すポスト冷戦期の方向転換が、2001年9月11日の米国に先んじて、姿を露わにしつつあったのです。
『平成史』167-8頁
いまや偽善よりは露悪が選ばれる時代が来たことに、もう誰もが気づいている。実際には「見えないところ」へと力で追いやっているだけなのに、①あたかも “正しさ” が成立したかのように偽る人よりは、②露骨に力を振りかざす悪漢の方が “まだマシ” で支持される。
プーチンが②なことは、ロシア人や「親露派」も含めてみんな知っている。で、バイデンはただの①だったので、ウクライナ支援という “正しさの特需” も空しく、②のトランプに叩き出された。
二枚舌の偽善よりは、一枚舌の露悪へ。ここまで来るともう、アメリカもニジェール化するのかもしれない。”西側の没落” とは、そんな事態だ。
日本にはかつて、それを予見する文化があった。その遺産を掘り起こし、”没落後の西側” で生きる備えにするのが、ぼくらにできることだろう。
この間「もっとWHO!」「もっと西側!」としか叫べなかったセンモンカとは、自国の小説も読めない文盲のようなものだ。識字率が15%で世界最低らしいニジェールは、彼らのホームタウンにならむしろふさわしい。
参考記事:
(ヘッダーは、BBCのニジェール政変報道より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年9月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。