NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の第33回「打壊演太女功徳」(2025年8月31日放送)で、天明7年(1787年)5月に江戸・大坂など当時の主要都市で起こった天明の打ちこわしが描かれた。その背景には、米価をはじめとする諸物価の高騰があり、現在の世相との類似性を感じた視聴者も多かっただろう。
天明期(1781~1788年)に幕政を主導してきた田沼意次は、前年の天明6年8月に、庇護者であった10代将軍徳川家治の逝去を受けて、老中職の辞任に追い込まれていた。しかし、老中以下の幕閣にはなお田沼派が健在で、新将軍家斉の側近くに仕える御側御用取次に関しても田沼派が多数派だった。大奥にも田沼を支持する者は少なくなかった。田沼意次は依然として政治的影響力を保持しており、田沼の復権も全くあり得ないことではなかった。
田沼派にとどめを刺したのが天明7年5月の天明の打ちこわしで、翌6月には田沼の政敵である松平定信が老中首座となる。10月には田沼は蟄居を命じられ、政治生命を完全に失った。翌天明8年7月、田沼は失意のうちに病没する。
既述の通り、天明の打ちこわしは、諸物価、中でも米の急激な高騰により生活に困窮した庶民の怒りが爆発したものである。
では米価をはじめとする諸物価の高騰はなぜ起こったのか。構造的要因に遡って考察していこう。
享保期における経済構造の変動
江戸時代には、米遣い経済といわれるように、経済の中心は米であり、長らくその米を中心に商取引が行なわれていた。享保以前の元禄期には米価は高値であったので、幕府の米価政策はその値上がりをなるべく抑制しようとするものであった。そのため、全国の米価の基準でもあった江戸や大坂の米相場を安定させるため、先物取引きで米価を操作する米商人を取り締まっていた。
しかし、享保期には「米価安の諸色高」という新たな経済問題が浮上した。徳川吉宗が推し進めた米の増産により米価が下落する一方、消費文化の発展で米以外の諸物価(諸色)が高騰し、両者の乖離が顕著になった。これは幕府財政の基盤である石高制や武士階級の経済的安定を揺さぶる重大な問題だった。
米価下落によって町人は食用米を容易に入手できるようになり、過度な米食により脚気が流行し「江戸煩」と呼ばれるほどであった。太宰春台の『経済録』は「米ノ価賤ケレバ、工ト商トニ利アリテ、士ト農トニ害アリ(米価安は町人の得、武士と農民の損)」と分析している。
そこで徳川吉宗は徹底した倹約令を布いた。江戸初期の倹約令が身分秩序の維持を重視していた(身分不相応の贅沢を禁じた)のに対し、享保期以降は武士や町人の奢侈な生活を抑制し、財政支出の削減と物価引下げに主眼が置かれた。吉宗自身が一汁三菜や木綿の衣類を推奨し、自ら倹約の模範を示した。
武士や町人の奢侈は監視の中心で、特に町人に対しては衣服の華美さを厳しく禁じた。享保3年(1718年)には、町人の衣類が美麗であり、下着まで華美を競い不届きであるとして、厳罰を伴う規制が強化された。享保6年(1721年)の「新規仕出し物禁止令」では、呉服、諸道具、菓子類などの新商品製作を禁止し、既存の物で間に合わせるよう促した。奢侈的消費を抑えることで物価を下げようとしたのである。
物価高騰は奢侈品だけでなく生活必需品にも及び、幕府は享保9年(1724年)に「物価引下げ令」を発布した。これにより米価と諸物価の連動を目指したが、米の生産力向上や賃金上昇を背景に「米価安の諸色高」の傾向は変わらず、効果は限定的だった。
享保11年(1726年)には木綿や味噌、醤油など22品目の生活必需品を対象に株仲間の結成を促し、株仲間による価格統制を強化したが、消費文化の進展や貨幣経済への移行に対応しきれなかった。
幕府は米価引上げ策として、従来禁じていた米商人の投機取引を黙認し、享保13年(1728年)に大坂の堂島米会所で帳合米取引(先物取引)を公認する。しかし、享保17年(1732年)の大飢饉で米価が急騰し、江戸で打ちこわしが発生した。
飢饉になれば米価が高騰して打ちこわしが発生し、それでなければ「米価安の諸色高」で幕府財政は逼迫する。江戸次第の社会は、すでに米でなく、貨幣中心で回っていた。幕府の財政政策は米を基準とする限り、安定すべくもなかった。
元文元年(1736年)の貨幣改鋳では、貨幣の質を下げて発行量を増やし、金融の流動性を高めることで物価の安定を図った。しかしこれは一時しのぎの措置にすぎず、貨幣中心の経済への移行という長期的な展望を幕府が持っていたわけではなかった。
天明期の天災と大飢饉
天明期(1781~1788年)は、天変地異と飢饉が頻発した時代である。天明の大飢饉は、享保・天保の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つに数えられている。
天明3年(1783年)、未曾有の災害が襲った。春の少雨で農民は植付けに苦しみ、夏には連日の大雨で河川が氾濫した。江戸では6月17日の大雨で千住、浅草、小石川あたりが洪水に見舞われ、神田川に架かる柳橋が流出し、神田上水も破損した。夏なのに寒気も厳しく、綿入れが必要なほどだった。
7月には浅間山の大噴火が発生した。7月6・7日の大爆発で、江戸にも3センチ以上の灰が降り、空は昼でも夜のように暗くなった。江戸川には家財道具類に混じって人馬の遺骸が流れ、佃島では津波を恐れて避難する騒ぎが起きた。
冷害が続き、関東・東北地方は大凶作に陥り、東北だけで餓死者が13万人とも20万人とも言われた。天明4年(1784年)には米価が急騰し、銭100文で白米わずか5合(通常は1升以上)しか買えず、江戸市民の生活は困窮した。「浅間しや 富士より高き 米相場 火の降る江戸に 砂の降るとは」という落首が詠まれた。無宿者が町に溢れ、幕府が設けた無宿小屋は貧民で満ちた。
天明5年には作柄がやや回復し、世間で安堵が広がった。しかし、天明6年(1786年)に再び大凶作が襲った。
正月元日の日蝕で江戸は「闇夜の如し」となり、先行きの不安を感じさせる年明けとなった。その予感は当たり、正月から4月まで烈風が吹き、空気が乾燥したため火災が頻発した。正月22日の湯島天神裏の火事は、神田・日本橋・深川など下町一帯を焼き尽くし、大名屋敷13、旗本屋敷300余、町屋6万軒が焼失した。
6月から7月にかけては、ほとんど連日の大雨で関東一帯が洪水に見舞われ、小石川・浅草・本所・深川が大きな被害を受けた。浅間山大噴火の時の火山灰が堆積して川底が浅くなっていたことが洪水の一因とされる。全国的な大凶作となり、「春は火事 夏は涼しく 秋出水 冬は飢饉と かねて知るべし」という落首は当時の社会不安を良く表している。
天明期の政権を担った田沼意次は、流通課税や貨幣政策によって幕府財政の再建を図ったが、農政の不在が問題だった。重い年貢と地主の高い小作料という二重の収奪によって農村の貧富の差が拡大し、困窮した貧農は村を捨てて江戸に流入した。江戸の下層社会は、従来の都市貧民と新たに流入した貧農で膨張した。
ところが田沼は、都市下層民の苦しみをよそに、商人からの運上・冥加(上納金)による財政再建に専心したため、役人と富裕商人の結託による賄賂政治が批判された。「役人の子はにぎにぎをよく覚え」という川柳は、田沼政治の腐敗を鋭く風刺した傑作として良く知られている。
折悪しく天明期に天変地妖が続発したため、天災も飢饉も全て田沼の悪政と結びつけられ、浅間山噴火も田沼の硫黄濫掘のせいであるというこじつけまで生まれた。
打ち続く天災・飢饉に田沼の経済政策は行き詰り、世間の反田沼的風潮もあって、天明6年(1786年)8月、ついに田沼意次は、将軍家治の死をきっかけに老中職を退いた。しかし、冒頭で触れたように、田沼が完全に失脚したわけではなかった。政界内部では、松平定信を老中に推す反田沼派と田沼派との間で激しい政争が展開された。幕府内に政治主導者が不在であったことが、物価問題への対応の遅れにつながった。
天明6年の災害・飢饉による社会不安に、前記の政情不安も加わって、物価の高騰が進んだ。天明7年(1787年)、米価は銭100文で白米3合という高値に達し、商人による買い占めや売り惜しみが米価高騰に拍車をかけた。
日雇い労働(当時は「日用」と言った)などの下層民は粥や雑穀、野菜、藁を混ぜた食事で飢えを凌ぎ、土手の草や豆腐のおからまでもが高騰した。町役人たちは江戸町奉行に御救米の供出を嘆願したが、町奉行は冷淡だった。幕府は、大坂城代が大坂城に備蓄していた米や、諸藩が城に備蓄していた米を江戸に移送するよう命じたが(廻米)、後手に回った。
都市下層民政策(貧困対策)を軽視した幕府の失政により、天明の打ちこわしの幕が開いたのである。