9月29日、トランプ米大統領とイスラエルのネタニヤフ首相は、イスラエルとハマスの停戦に向けた新たな和平案を共同で発表した。
この案では、ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが拘束している人質をすべて解放することと引き換えに、イスラエル軍が一定のラインまで撤退し、その後も段階的に撤退を進めていく仕組みが示されている。
トランプ大統領は「ハマスの回答期限は3日か4日だ」と述べた一方で、ネタニヤフ首相は「パレスチナ国家に断固反対する」と明言した。世界の関心は、果たしてハマスがこの提案を受け入れるかどうかに集まっている。(補足:10月3日、ハマスは和平案に対し、条件付きで人質全員の返還に合意すると発表した。)

ホワイトハウスで会談したトランプ大統領とネタニヤフ首相 同首相インスタグラムより
ここで見過ごせないのは、この和平案の協議にパレスチナ側の代表者が加わっていないという点である。自らの未来を大きく左右するはずの和平の枠組みに、当事者が席を持たないという構図だ。
この状況は、1938年の「ミュンヘン会談」をほうふつとさせる。
ミュンヘン会談とは
1938年9月29日から30日、ドイツ・ミュンヘンで開かれた国際会議「ミュンヘン会談」には、ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ首相、英国のチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相が集まり、チェコスロヴァキア領内のズデーテン地方をドイツに割譲することが決定された。
だが、当事国チェコスロヴァキアの代表は会議に招かれなかった。
背景
ズデーテン地方には約300万人のドイツ系住民が住んでいた。ナチス・ドイツは「民族自決」を口実に割譲を要求し、軍事的圧力を強めた。英仏は新たな大戦を避けたい一心から、宥和政策をとり、チェコスロヴァキアの意見を排してでもヒトラーに譲歩する道を選んだ。
なぜチェコスロヴァキアが外されたのか
当時の国際政治は「大国が小国の運命を決める」という力学に支配されていた。チェコスロヴァキアを交渉の場に参加させれば譲歩が難しくなると考え、英仏独伊の4カ国だけで決定を下した。
チェコスロヴァキアはフランス、さらにその延長でソ連とも相互援助条約を結んでいた。しかしソ連の援助は「フランスが先に行動した場合に限る」という条件付きであり、実効性に乏しかった。
実際にはフランスも英国も戦争回避を最優先して軍事的介入を拒み、ソ連も動けなかったため、チェコスロヴァキアは外交的に孤立し、ミュンヘン会談において自らの発言権を持つことができなかった。
結果と反応
1938年9月30日のミュンヘン協定で、ズデーテン地方はドイツに割譲された。チェコスロヴァキアのベネシュ大統領は抵抗の意思を示す軍部や国民の存在を知りつつも、英仏が支援しない以上、単独でドイツ軍と戦うことは不可能と判断し、やむなく受け入れた。翌月には辞任し、亡命を余儀なくされた。
国内では「われわれのことを、われわれ抜きで決めるな(Nothing about us without us)」というスローガンが広がり、民衆は屈辱と失望を味わった。
国際的影響
ミュンヘン協定は「戦争を避けた」と一時的には評価されたが、わずか半年後の1939年3月にドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、宥和政策は完全に破綻した。ソ連はこの経験から英仏への不信を強め、後の国際関係に影響を及ぼすこととなる。
チェンバレン英首相が「我々の時代の平和を得た」と宣言したことは有名だが、そのわずか1年後に第二次世界大戦が始まり、その言葉は皮肉として語り継がれている

1938年9月29日、ミュンヘンに到着するチェンバレン英首相(英政府サイトよりキャプチャー)(German Federal Archive)
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年10月4日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。







