NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の第39回「白河の清きに住みかね身上半減」(2025年10月12日放送)で、主人公の蔦屋重三郎が処罰された。
なぜ蔦重は処罰されたのか、寛政の改革における出版統制を踏まえて解説したい。
寛政の改革と出版統制の背景
寛政の改革(1787~1793年)は、老中首座松平定信による一連の政治・経済・社会改革であり、江戸幕府の財政再建や農村復興、江戸の治安改善を目的として実施された。この改革の一環として、出版物の内容に対する厳格な統制が導入された。幕府の出版統制の目的は、民衆に倹約の精神を徹底させて風俗の乱れを防ぎ、風説による民心の動揺を抑えると共に、幕府政治への批判を弾圧するというものであった。
松平定信は自身で黄表紙を執筆するほど戯作に通じており、文学の魅力と危険性を理解していたため、出版物の影響力に敏感であった。老中就任当初は瓦版などを活用して松平定信歓迎論を煽り、天明八年(1788年)春頃には田沼意次批判を題材とした黄表紙を黙認し、田沼派追い落としに利用した。
しかし、寛政元年(1789年)に幕閣人事の刷新を終え、本格的な改革に着手すると、出版統制を強化した。享楽的・風刺的な内容を含む軽い読み物である黄表紙や洒落本に対する監視を厳格化し、反道徳的な内容や政治批判を含む出版物を徹底的に取り締まったのである。
まず定信は寛政二年(1790年)五月に、出版統制令を発している。この法令では、猥褻な好色本の絶版の他に、時世を風刺する黄表紙の新規出版の禁止、噂・風説などを書き散らし人心を乱す写本類(出版物ではなく手で書写されたもの)を貸本屋が取り扱うことの禁止、出版業者の相互チェックなどを命じている。
さらに同年九月には、地本問屋(江戸で出版される軽い読み物を扱う業者)の仲間(組合)に対し出版物の改め(事前検閲)を義務づける法令を出し、地本問屋仲間に「行事」という検閲係を置かせた。つまり業界団体に出版の自主規制を命じたのである。
このような規制強化の流れに抗した戯作者の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は、寛政三年(1791年)新春に出版した三部作『錦之裏』『仕懸文庫』『娼妓絹籭』をめぐり、厳しい処罰を受けることとなった。
山東京伝と蔦屋重三郎の三部作出版の経緯
山東京伝は、戯作の分野で人気を博した作家であり、蔦屋重三郎は江戸の出版業界で有力な地本問屋として知られていた。二人は長年の付き合いであり、京伝の作品の多くを蔦重が出版していた。
寛政二年春、出版統制令が出る前に、京伝は洒落本三部作の執筆を開始し、7月には脱稿して原稿を蔦重に渡した。この時点で京伝は金一両銀五匁の内金を受け取っている。蔦重は『錦之裏』を深川六間堀の板木屋金六に、他の二作を馬喰町三丁目の板木屋新八に依頼し、10月下旬までに板木を完成させた。しかし、同年10月27日の町奉行所からの「御達」により、地本問屋の出版物にも行事による事前検閲が義務付けられた。
これを受けて京伝は原稿に加筆訂正を行い、蔦重も板木に修正を加えた。さらに、11月に出版に関する厳しい通達が再び出たため、10月の「御達」前に板木が完成していたから問題ないと強気だった蔦重も、慎重を期して12月20日に田所町の弥助方で行われた寄合で三部作の写しを提出した。
担当行事である馬喰町三丁目の吉兵衛と芝神明門前町の新右衛門の検閲を受け、許可を得た上で、寛政三年正月に「教訓読本」と印刷された袋に入れて三部作を発売した。京伝はこの三部作で、遊里(遊廓)の風俗を題材にしながらも、直接的な猥褻表現を避け、女遊びを戒める教訓的な要素を強調する工夫を凝らした。
『錦之裏』では、吉原の現在の風俗を描きながらも、平安時代後期の摂州神崎を舞台に設定し、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』で知られる夕霧・伊左衛門を主人公に据えた。物語は遊廓の朝から夕方までの情景を細かく描写し、女郎の誠を称賛する結末で締めくくられる。
同様に『娼妓絹籭』は大坂新町を舞台に浄瑠璃の梅川・忠兵衛をモチーフとし、『仕懸文庫』は歌舞伎で有名な『曽我物語』の設定を借り、深川の岡場所(私娼街)を鎌倉時代の大磯に舞台を移し、曽我十郎や朝比奈三郎を登場させるなど、歴史的・教訓的な枠組みで遊里風俗を描いた。なお、これらの作品には、京伝が身請けした菊園(元吉原の新造女郎)との結婚を記念する意図も込められていた。
処罰の詳細とその背景
しかし寛政三年三月、幕府の江戸北町奉行初鹿野河内守信興により、京伝と蔦重は処罰された。京伝は「放埒之読本作出し候」として手鎖50日の刑を、蔦重は「放埒之読本売買致候」として三部作の絶版と身上半減の厳罰を科された。すなわち蔦重は財産を半分没収され、店舗(耕書堂)の間口も半分に縮小されたという。さらに、改め(事前検閲)を担当した行事の近江屋と伊勢屋も軽追放の処分を受けた。
ただし「身上半減」は、曲亭馬琴の著作『近世物之本江戸作者部類』を根拠としており、山東京伝の弟の山東京山が記したとされる『山東京伝一代記』に引用された町奉行初鹿野信興の吟味始末書では「右本絕板之上身上に應じ重過料可ニ申付候」となっている。財産半分没収は馬琴の誇張かもしれない。
ともあれ、京伝・蔦重に対する厳しい処罰は、松平定信が出版統制を通じて風俗の粛正を図る姿勢を明確に示した事例であった。ポルノ要素の薄い京伝の洒落本三部作が好色本として処罰対象となった理由は、遊里風俗を題材にしたこと自体が、風紀を乱し贅沢を奨励するものと判断されたためである。京伝の作品は、従来の洒落本に比べ淫靡な要素が少なく、教訓的な意図を強調していたにもかかわらず、幕府の出版統制令に抵触したとされたのである。
この処分は、人気作家の山東京伝と有力地本問屋の蔦屋重三郎を見せしめ的に処分することで、出版業界の萎縮を狙ったものと考えられる。蔦屋(耕書堂)は、江戸の一等地である日本橋通油町で地本問屋を営む大手版元として、黄表紙や洒落本、狂歌本を次々に出版し、ベストセラーを連発した。『近世物之本江戸作者部類』によれば、耕書堂刊行の黄表紙は1万部以上を売り上げることもあったという。松平定信は京伝と蔦重の社会的影響力を警戒したのであろう。
処罰の影響とその後の展開
この処罰は京伝と蔦重に大きな打撃を与えた。京伝は意気消沈し、洒落本の執筆を断念して人情本の分野に活動の場を移した。一方、蔦屋は経済的損失に加え、店舗の縮小を強いられた。それでも、蔦重は寛政二年に絵双紙問屋仲間を公認させた立役者であり、出版業界での影響力は依然として大きく、この後、喜多川歌麿の美人大首絵を発表していくことになる。
けれども、寛政の改革による規制強化は、蔦重のような大手版元にも暗い影を落とし、出版業界全体に慎重な姿勢を強いることとなった。興味深いことに、この時期に京伝の弟子である曲亭馬琴が登場し、失意の京伝に代わって黄表紙の代作を行った形跡がある。馬琴の参入は、京伝の創作活動が停滞する中で文芸界の新たな展開を示唆するものであった。
寛政の改革の時期には、他の版元や作家も同様の処罰を受けた。たとえば、寛政四年(1792年)には、林子平が海防を論じる『海国兵談』、異国情勢を解説した『三国通覧図説』を発表したとして蟄居処分を受け、版元の須原屋市兵衛は板木の破壊と重過料を科された。
出版統制は猥褻取り締まりから始まり、政府批判の弾圧へと発展する。現代にも通じる教訓であろう。