文系は不要か?:AIに淘汰されないために必要なこと

今の技術があればクローン人間を作ることは可能かもしれません。しかし、それは世界中で禁止されており、現在はその実験はされていないと理解しています。2018年に中国の科学者が遺伝子の編集をした体外受精胚を母親の子宮に戻し、双子の女の子を誕生させたと発表し、世界を震撼させました。その後、その研究者は中国で収監されたものの最近、釈放されています。それよりもその生まれた子供(双子ともう一人の合計3人)が今どうなっているのでしょうか?元気に成長しているという理解ではありますが。

世界を震撼させたクローン人間の実験後に生じたのは科学者の間における道徳規律であり、人間がして良いこと、よくないことの道徳観を一応保つことが出来たことを示しています。その道徳観は何処から出てきたのでしょうか?

もしもある子供が生まれてから今日まで完全にデジタル漬けで理数系的思考回路だけで物事を判断し、大人になって就職したとしたらどうなるでしょうか?すべての判断がYES/NOになりがちでNOになった時、自己制御ができなくなることはあり得ます。若者が暴発し凶悪な事件を引き起こすのは世の東西を問わず、でありますが、それは左脳だけが機能し、感情を制御する大脳辺縁系や前頭葉が不完全のようなものなのでしょうか?

人間は生まれた瞬間から母親との緊密な接点を持ち、やがて家族を意識します。次いで友達や大人や自分より年下の子たちを認識し、保育園、幼稚園を通じて社会の中の自分を発見します。大事なのはその距離感をどう一定に保つかであり、ケンカしてその距離が修復不能になるのか、仲直りして元に戻るのかは子供なりの生活体験からそれを習得していきます。

人間は本質的にはアナログ的な社会からスタートしているはずで、いくらデジタルネーティブ世代と言えどもまさか生まれたその日からスマホを握りしめているのではないのです。少なくとも3-4年はアナログ的で何百年前とさほど変わらないホモサピエンスとしてのインキュベーション期(孵化期)を経験するのです。

今は高校生ぐらいになると文系、理系のクラスに分かれて大学受験に備える私立高校も多いと理解しています。私から見ればそれはテクニック論であり、仮に好成績で目標大学に入ってもそこで自分が人間としてどのような道徳心を持ち、自らの哲学をどう身につけつつあるかを知る機会はあまりないのかもしれません。

kyonntra/iStock

これは私の独創的考えですが、人間とカラダをその本質ごとに当てはめてみました。二本の足は効率化とか考えを実行し、前に進める、あるいはいったん止まるという機能です。両手は器用さであり、作業能力です。頭は知能、知識、記憶であります。体幹は自己を認識し、全体のバランスを司ります。そして最後に心臓。これこそが全ての人が持ち合わせる哲学的意識であり、体全体をコントロールする総司令塔ではないかと考えています。医学の世界では脳が両手両足など機能への指示を出すことになっていますが、文系的に考える私の領域では心こそ、人間のセンターであると思うのです。

もしも時間があるなら「心」のつくことわざや四字熟語を検索で調べて頂くとどれだけ多いかびっくりすることでしょう。私は心こそ人間の原点だと思っており、その心がその人の日々の判断や行動のカギであると考えています。冒頭のクローン人間も科学者の間で大きな非難の声が上がったのはほとんどの科学者が心を持っていたからです。

「文系は不要か」。一時期話題になったことがありますが、その後も根強く議論されているようです。私は世の中すべてがテクノロジーで支配されるとは思っていません。アメリカの若者が大工など、手に職をつける仕事にシフトしつつあるのはAIに淘汰されにくくするためとされます。これこそ自己防衛本能です。私の業務には介護や老人のケアという分野がありますが、その主体は人間と人間がどう向き合うかであり、テクノロジーは支援こそすれど、支配する兆候はありません。

文系は不要か、という議論自体が無意味なことであり、理系こそ、文系の思想をどう取り込むかが今後もっと注目されるトレンドではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年11月2日の記事より転載させていただきました。

アバター画像
会社経営者
ブルーツリーマネージメント社 社長 
カナダで不動産ビジネスをして25年、不動産や起業実務を踏まえた上で世界の中の日本を考え、書き綴っています。ブログは365日切れ目なく経済、マネー、社会、政治など様々なトピックをズバッと斬っています。分かりやすいブログを目指しています。