「11月のポグロム(水晶の夜)」から87年目

1938年11月9日夜、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア(当時)でユダヤ人が経営する7000軒以上の店舗や約250のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が燃やされ、ユダヤ人の墓や学校は破壊された。多数のユダヤ人は虐殺された。歴史家は「November pogrome」(11月のポグロム)と呼び、路上の飛び散ったガラスが夜の明かりを受けて水晶のように光っていたことから、「水晶の夜」(クリスタルナハト)とも表現している。

水晶の夜 暴動で破壊されたユダヤ人商店のショーウインドウ(1938年11月10日) Wikipediaより

シオニズムの父、テオドール・ヘルツル、ウィキぺディアから

オーストリアでは1938年の初めまで約21万人のユダヤ人が住んでいた。当時の国の人口の3%を占めていた。そのうち、約6万5000人はナチス・ドイツ軍が支配する欧州大陸から逃げることができず、多くはダッハウ収容所とブーヘンヴァルト収容所に送られ、そこで亡くなった。

あれから今年で87年目が経過した。パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム過激派テロ組織「ハマス」が2023年10月7日、イスラエルとの境界線を破壊して侵入、音楽祭に参加中のゲストや集団農園(キブツ)を襲撃して1200人以上のユダヤ人らを射殺、251人を人質にした「奇襲テロ」と、それに報復するイスラエル軍の軍事攻勢が始まって以来、世界的に反ユダヤ主義、反イスラエル主義的言動が再び広がってきた。

ウィーン・ユダヤ人コミュニティ(IKG)の反ユダヤ主義通報センターは5日、2025年1月1日から6月30日までの半年間でオーストリアで合計726件の反ユダヤ主義事件を記録した。前年同期は808件、イスラエルでハマスによるテロ攻撃が発生する前の2023年上半期は311件だった。IKGのオスカー・ドイチュ会長は「反ユダヤ主義の津波は、もはや止まらない洪水のようになってしまった」と述べた。また、IKG事務局長ベンヤミン・ネーゲレ氏は、「反ユダヤ主義的な攻撃が恒常的な負担となっていることを目の当たりにする。多くのコミュニティメンバーの日常生活は、潜在的な不安感を伴っている」と証言した。

報告期間中、身体的暴行5件、脅迫8件、器物損壊78件、反ユダヤ主義的メールなどを大量郵送203件、そして不快行為432件が記録された。最も多かったのはイスラエル関連の反ユダヤ主義であり、次いで反ユダヤ主義的他者化とホロコースト相対化が続いた。さらに、77件がユダヤ人に対するテロの扇動または賛美に関与していたことが明らかになった。これらの件数は氷山の一角で、未報告の事例が多数存在するものと想定されている。

報告された反ユダヤ主義事件のうち202件は左翼的な政治的動機によるもの、195件はイスラム教を背景とした事件であり、147件は右翼的な政治的背景があった。182件については、思想的背景を明確に特定できなかった。

ところで、独週刊誌「シュピーゲル」最新号(10月2日号)は「ハマスの奇襲テロ」2年目の特集の中で、イスラエルの著名な社会学者、エヴァ・イルーズ女史とのインタビュー記事を掲載している。同女史は2年前の出来事について、「事件を伝える報道を見て、我々(ユダヤ民族)は何と傷つきやすい民族だろうか、と改めて思い知らされた」と述懐。国際社会のイスラエル批判については、「イスラエルへの憎悪が美徳とみなされてきた」と指摘し、「反ユダヤ主義と反シオニズムを区別しなければならない、という考えが左派の新たなライトモチーフとなっている。彼らの政治的な反シオニズムは偽装された反ユダヤ主義だ」と主張している。

ちなみに、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人新聞記者・作家のテオドール・ヘルツル(1860~1904年)はユダヤ人が迫害から逃れ、安全に暮らすためには、彼ら自身の独立した国民国家をパレスチナ地域に建設するしかないと考え、1896年に著書「ユダヤ人国家」を出版し、ユダヤ人国家建設の構想(シオニズム)を具体的に示した。ヘルツルの夢だったユダヤ人国家は1948年5月14日に実現した。イスラエルではヘルツルは「シオニズム運動の父」と呼ばれている。

一方、反ユダヤ主義を掲げ、600万人のユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)はオーバーエスターライヒ州西北部のブラウナウ・アム・インで生まれている。すなわち、「シオニズム運動」創始者ヘルツルとナチス政権下でユダヤ人虐殺を実行したヒトラーは、いずれもオーストリアと深い関係があるわけだ。

欧州に居住していたユダヤ人にとって、少数民族にも同等の権利を付与したハプスブルク帝国時代の首都ウィーンは憧れる都市だったが、第一次世界大戦で敗北し、ハプスブルク帝国が崩壊したことから、ユダヤ人は民族のアイデンティティと存続の危機に対峙していった。そして多くのユダヤ人はウィーンからロンドン、パリ、米国などに移住せざるを得なくなったのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年11月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。