
私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「肚を据える」ということで次のように述べておられます――人間は肚を据えると妙に落着くものである。落着くと物事がはっきりして来る。それが真剣であればあるほど、しっとりした情味も滲(にじ)み出て来る。
私は、肚が据わった人とは基本的に、「勇気ある実行力を伴った見識を持っている人」即ち「胆識を有した人」だと考えています。拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)にも書いておいた通り、知識・見識・胆識の定義に関しては夫々、「物事を知っているという状況」「善悪の判断ができるようになった状態」「実行力を伴った見識のこと」であります。
世の中には、言うだけ番長(言葉ばかりで結果が伴わない人)に該当するような、何か言いっ放しの「評論家」や「コメンテーター」の類は沢山います。中には、ある程度の知識を持ち良いことを言ったりする見識ある人もいますが、少なくとも肚(胆識)の有無の判定には至らない人達です。
私は、胆識を有した人とは基本的に、単なる理知でなく情と合わさった知つまり「情知(じょうち)に優れている人」だと考えています。此の見解に対しては異論も色々あるかもしれませんが、知に情が入るからこそ胆識が持てるものと思っています。故に、情知に非常に長けた肚の据わった人からは、冒頭「しっとりした情味も滲み出て来る」のでしょう。
陽明学の祖・王陽明が弟子に与えた手紙の中に、「天下の事、万変と雖(いえど)も吾が之に応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出でず」とあります。情こそがある意味最も人間を人間たらしめるもので、人間の世界は所詮「喜怒哀楽の四者を出でず」、それぐらい情というのは大事なのです。
大きな決断をする立場になればなる程、あるいは大きな決断でなくとも、年が増し地位が増すといった状況になればなる程、段々と肚は大事になってきます。例えば西郷南洲公と勝海舟は双方が大変な肚芸をして、江戸城の無血明け渡しが決められました。此の肚芸が出来なければ、何事において直ぐに争いが生じてしまいます。
肚を鍛えるということは、自らの精神を鍛えるということです。そのためには様々な艱難辛苦、喜怒哀楽を経験するのが一番です。また、精神の糧となるような書を味読することも大事です。「知は行の始めなり。行は知の成るなり」(王陽明)――味読後は必ず日々行動で実践し、知行合一的な修養を積んで自己人物を練り、更なる精神の向上を図って行くのです。人間学を通じた修養で情知を磨く中で、肚が出来てくるのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2025年11月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。






