カフカはパレスチナに行ってみたかった

作家フランツ・カフカ(1883年~1924年)が生前、旧約聖書に強い関心を持ち、旧約聖書を読むためにヘブライ語を学んでいた、という話を聞いた。そしてパレスチナをいつかは訪問したい、と願っていたという。カフカはユダヤ人だから、ある意味で当然かもしれないが、彼の小説ではあまりそれを感じないというか、カフカがユダヤ人作家だったというイメージは少なくとも作品の中では感じさせない。ヘブライ語聖書に線を引きながら読んでいるカフカの姿を思い浮かべてみた。

ライナー・シュタッハ著「カフカの伝記」S・フィッシャー出版社

カフカの日常生活は非常に規律正しかった。起床後は必ず体操し、食事は健康食で、咀嚼も40回するという習慣があった。労働災害保険会社に勤務していたカフカは仕事面でも非常に几帳面で優秀だった。工場や鉱山で怪我した労働者にはその事故防止のためにアドバイスし、時には事故現場に赴き、どうして事故が起きたを慎重に調査する。機械の使用で事故が起きた場合、絵を描いてどうしたら機械に手を挟まれないようにするかなどを労働者に説明したという。

カフカの一日は労災保険会社での勤務、そして仕事を終えて家に帰ると食事して小休止を取り、1時間余り散歩した後、小説書きの世界に入るというパターンだった。朝開けまで小説書きに没頭して、会社に出勤が遅れる場合もあったが、会社側はカフカが優秀な社員であることを知っていたので大目に見ていたという。

あるカフカ研究者によると、カフカは小説を書くことが自分の人生の目的と考え、全ての日常生活をそれに合わせてオーガナイズしていたというのだ。

最初の話に戻るが、カフカはパレスチナを訪問したかった。また、シオニズム運動にも関心があったのだろう。ウィーンで開催された国際シオニズム会議に会社を休んでわざわざプラハからウィーンに行っている。

ちなみに、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人新聞記者・作家のテオドール・ヘルツル(1860~1904年)はユダヤ人が迫害から逃れ、安全に暮らすためには、彼ら自身の独立した国民国家をパレスチナ地域に建設するしかないと考え、1896年に著書「ユダヤ人国家」を出版し、ユダヤ人国家建設の構想(シオニズム)を具体的に示した。ヘルツルの夢だったユダヤ人国家は1948年5月14日に実現した。イスラエルではヘルツルは「シオニズム運動の父」と呼ばれている。

なお、ウィーンのシオニズム会議には「果てしなき逃走」「ラデツキー行進曲」「聖なる酔っぱらいの伝説」などの小説を残したユダヤ人作家のヨーゼフ・ロート(1894年~1939年)も参加していた。ただ、カフカとロートは会っていない。両者が会合していたらどうだったろうか。

ロートは1894年、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア東部、ロシア国境近くの町ブロディ(現、ウクライナ)生まれのユダヤ人だ。正統派ユダヤ教徒が多く住んでいた地域出身だということもあって、ロートはユダヤ民族の運命に関心を寄せてきた。その点、同じユダヤ人でほぼ同時代に生きていたカフカにはロートのような世界は希薄だ、と当方は思ってきた。

しかし、カフカを研究している知人から「カフカは生前、パレスチナに行きたかったので、へブライ語を学んでいた」と聞いた。旧約聖書「出エジプト記」には、エジプトで奴隷生活をしてきた60万人のユダヤ人を率いて、モーセがカナン(今のパレスチナ地方)を目指す話が記述されている。カナンは現在のパレスチナ地方だ。「カフカもロートやシュテファン・ツヴァイク(1881年~1942年)のようにユダヤ民族のアイデンティティを模索していたのだ」ということを知った。

カフカは41歳の誕生日を迎える前に結核で療養先のウィーン郊外のキーアリングにあるサナトリウムで亡くなった。労働者傷害保険協会に勤務していたカフカは、結核にかかっていた労働者から感染したのではないかといわれている。時代はナチス・ドイツが台頭する直前だったこともあって、カフカは強制収容所などを体験しなかったが、愛する3人の妹たちはカフカの死後、いずれも収容所で亡くなっている。カフカは少年時代、3人の幼い妹に童話を読んで聞かせるといった優しい兄だったという。

死の床にあったカフカは友人マックス・ブロートに自分が書いた原稿を全部燃やしてほしいと頼んだが、ブロートはカフカの原稿を持ち出すことに成功し、後日、カフカの作品、「城」、「審判」などを世に出した。ブロートがいなければ世界文学にカフカの名はなかっただろう。そのブロートは逃亡後、パレスチナに移住している。

第一次世界大戦(1914年~18年)、ハプスブルク王朝の解体(1918年)、ナチス・ドイツの躍進(1930年代初頭)、そして共産主義の台頭(1920年代から30年代)といった時代の大変革の時に生まれたユダヤ人にとって、民族のアイデンティティを求める精神的葛藤があっただろう。カフカは自身の内面世界を、実世界から離れた場所を書割に描き続けていったのだろうか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年11月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。