
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の第43回「裏切りの恋歌」(2025年11月9日放送)で、寛政の改革を主導してきた幕府老中首座の松平定信が老中を解任された。
定信の緊縮策によって、天明の大飢饉で大打撃を受けた幕府財政は回復の兆しを見せ、幕府の金蔵には再び蓄えが形成されつつあった。ロシア船来航という対外問題などの懸案事項が山積する中での定信の突然の辞任は、世間に大きな衝撃を与えた。
その困惑を端的に示すのが、当時詠まれた落首「五、六年 金も少々たまりつめ(溜詰) かくあらんとは 誰も知ら川(白河)」である。定信ほど有能な財政家がなぜ唐突に罷免されたのかという、民衆の純粋な驚きと戸惑いが良く表れている。
定信はなぜ失脚したのか、幕府内の権力闘争を踏まえて解説したい。
公式記録に見る定信の辞職:栄誉に満ちた退任劇
松平定信の失脚の真相を探る上で、まず出発点となるのが、幕府の公式記録に残された定信の辞職の経緯である。これらの記録は、彼の退任がいかに円満かつ名誉あるものであったかを強調しており、水面下で進行していた政治的対立を覆い隠す役割を果たしていた。公式記録が描く「表向きの物語」を初めに把握することは、その裏に隠された真実を浮かび上がらせるために不可欠である。
幕府の公式史書である『文恭院殿御実紀』によれば、寛政5年7月23日の辞職は、以下の通り極めて名誉ある形で処理された。
辞職の承認と新たな処遇:「しきりに請ふまゝに、特旨をもて輔佐の判の列をゆるされ、溜詰になされ、少将に任ぜらる」、すなわち、定信がかねてより幾度も願い出ていた輔佐役(将軍補佐)の辞任が、将軍家斉の「特旨」をもって特別に許可された。辞任と同時に少将に任官された。また、親藩・譜代の重臣から選ばれ、老中と政務を協議する資格を持つ溜間詰(たまりのまづめ)の待遇を与えられた。
功績の評価:定信が輔佐役に任じられて以来の「莫大の勤功」、すなわち計り知れない功績を将軍が高く評価していることが明記された。
家格の向上:さらに、定信の家(白河松平家)は、彼の功績により、将来にわたって代々溜間詰に任じられるという破格の家格へと引き上げられた。
この公式発表だけを見れば、定信は多大な功績を残して惜しまれながら職を辞し、その功労に報いるために将軍家斉は最大限の栄誉を与えたということになる。
さらに、この円満な退任という演出は、辞職直前の記録からも見て取れる。同年、「異船沖中に見ゆる由しきりなり」という状況下、定信は伊豆・相模・房総の海防巡視を命じられる。
3月13日、巡視に赴く定信に対し、将軍は自ら羽織・時服十を与え、若君からも八丈縞五反が下賜された。そして4月8日に任務を終え帰府した定信は将軍に謁見しており、辞職のわずか数ヶ月前まで、将軍と定信の君臣関係が少なくとも表面的には極めて良好であったことを示す証左となっている。
辞職嘆願を繰り返した松平定信のホンネ
しかし、松平定信の円満退任という幕府の公式発表は疑わしい。確かに定信は老中就任後、たびたび辞任を申し出ているが、これは本心から辞めたいということを意味せず、むしろ将軍家斉から慰留されることで、将軍の信任、将軍からの政治委任を改めて確認することを目的としていた。いわゆる「辞任カード」である。
一例として、寛政4年(1792)秋の辞任伺いを取り上げよう。松平定信の自叙伝『宇下人言』によれば、定信はこの時、自らが務めていた「御輔佐(将軍補佐)」「御勝手掛(財政担当老中)」「奥兼帯(公的な儀礼空間である表での老中の勤めに加えて、将軍の日常執務空間である中奥での勤めを兼任すること)」という三つの重職すべての辞任を申し出た。
この辞職願は、寛政4年に将軍家斉が20歳となったため、成人した将軍に将軍補佐は不要ではないかという世論を意識したものと思われる。
しかし将軍家斉は、定信を強く慰留し、奥兼帯の辞任のみ認めた。後で将軍に近侍する側衆の加納久周から将軍の言葉を聞かされた定信は、その信頼の厚さに「感泣に及びぬ」——感極まって涙したと『宇下人言』に記している。
定信が奥兼帯の辞任を申し出たのは、表の政治を司る老中が中奥の勤めも兼ねると、権力が強くなりすぎるという理由からであった。
この定信の提言に基づき、10月には奥兼帯が廃止され、松平定信と松平信明の2老中が奥勤めから外れた。ところが家斉は定信に対し、将軍補佐の立場に基づき、奥兼帯同様に大奥に出入りして大奥老女(上級の女中)と相談せよと命じている。結果的に定信は何の権限も失っておらず、信明が奥兼帯を解かれたことで、かえって定信への権力集中が進んだのである(ただし信明が勝手掛に追加任命されている)。
さらに定信は、11月17日には海辺御備向御用掛に任じられ、12月には老中格の本多忠籌が担当していた蝦夷掛を自ら引き受けている 。
突然の解任劇
海防巡視から戻った後の寛政5年5月24日、幕閣に人材が揃い、自分の業務が減ったとして、定信は他の老中よりも早く下城することを願っている。これが決して辞職願いでないことには注意を要する。
定信は『宇下人言』でも記しているように、自身に権力を集中させているという世間の非難を強く意識しており、定信独裁への幕閣の不満を和らげるため、他の老中よりほんの少し早く退庁して、彼らに残りの仕事を任せるという形式的な権限移譲を図ったものである。
7月4日にこの願いが却下されると、定信は翌5日に再度請願している 。ここから急転直下、23日の老中解任へと至るのである。
当時の人々は定信の辞職をどのように受け止めていたのだろうか。儒学者の平賀蕉斎の随筆『蕉斎筆記』には、非常に興味深い世間の噂が記録されている。
老中辞職は、一見すると定信の不首尾(失脚)のようだが、実は大変結構なことである。色々と噂があるが、大老に任命されるための下準備だとも言われている。
驚くべきことに、世間の一部では定信の辞職が失脚ではなく、むしろ幕府の最高職である「大老」に就任するための戦略的な一手と見なされていた。老中という実務職から一旦離れ、より高い地位に就くための布石だというのである。
実際、将軍補佐の地位が“有効期限切れ”を迎えていた定信は、対外的緊張(ロシア問題)に存分に対処するため、大老、悪くても大老格への就任を暗に願ったものと思われる。だが家斉は、定信の嘆願を逆手に取って、老中職から解任したのである。もちろん、大老への任命はなかった。
解任の背景としての定信と家斉の対立
定信辞任の背景として最も広く知られているのが「尊号一件」である。この事件は、朝廷と幕府の双方で同時に発生した、尊号(尊敬の意を込めた称号)をめぐる問題であった。
朝廷の問題:光格天皇が、実父である閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうと計画した。しかし、朱子学の理念を重んじる定信は、皇位についていない人物への皇号授与に強く反対した。
幕府の問題:この動きと並行して、将軍家斉もまた、実父である一橋治済に「大御所」の尊号を与えようと画策した。定信は、これも先例にないとして、尾張・水戸の両徳川家と共に却下した。
さて『文恭院殿御実紀附録』によれば、家斉は父への孝心を深く抱いており、治済を西の丸(将軍後継者の居城)に移し、「大御所の稱をおくりまいらせたき盛意」を持っていた。
この計画を打ち明けられた老中の松平定信と松平信明は、先例に反するとして強硬に反対した。記録には、彼らが「いづれも然るべからざる旨を答へ奉りぬ」と、二人揃って明確に将軍の意向を退けたとある。将軍職に就いていない人物に「大御所」の称号を与えることは、幕府の秩序と前例を破壊する行為であり、定信の政治理念とは到底相容れないものであった。彼は、将軍の個人的な感情よりも、幕府の公的な秩序を優先したのである。
自らの悲願を阻まれた家斉の怒りは、やがて爆発する。『文恭院殿御実紀附録』は、その決定的な場面を生々しく伝えている。ある日、家斉は定信を近くに呼び寄せ、改めて尊号授与の意思を伝えるが、定信は再び理路整然と反対意見を述べた。これに家斉は激昂する。
公殊に御いきどふり、御けしきかはらせ給ひ、御はかせをもて定信を斬給はんとせられしに
(将軍様はことのほかお怒りになり、ご気分を害され、腰の刀で定信を斬りつけようとなされたところ)
将軍が筆頭老中を斬り殺そうとするという、前代未聞の事態であった。この時、御側御用取次の平岡頼長が機転を利かせ、
越中守よ、御刀を給ふに、はやう拝戴せよ
(越中守殿、将軍様が御刀をくださるのだから、早く拝領しなさい)
と叫んだ。これにより家斉は我に返り、刀を捨てて奥へ入ったという。
いささか出来すぎの逸話で、実話かどうか疑わしい。だが「大御所」問題をめぐって、両者の確執がもはや修復不可能なレベルに達したからこそ、このような逸話が作られたのだろう。
定信の権力基盤は「将軍補佐」という特別な地位にあった。単なる老中首座ではなく、将軍権力の代行者という立場を得ていたからこそ、定信は大胆な改革を断行できた。けれども将軍家斉が成人し、自らの政治意思を発揮しようとした場合、定信への権力集中は大きな障害となる。
将軍家治の全面的信任を生涯にわたって受けていた田沼意次と異なり、将軍家斉と対立してしまった松平定信は、わずか6年で政権主宰者の地位を退くしかなかったのである。






