ウクライナが守られなかった理由:広島出身精神科医が解く覇権拘束型核抑止(上)

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私は十二歳まで広島で育った。学校では毎年のように原爆被害を学び、街にはその痕跡が残っていた。その環境で育った私にとって、核兵器は「人間が扱うにはあまりに重い禁忌」として、理屈以前の感覚として刷り込まれている。精神科医になってからも、その確信は揺らいでいない。

人間が「自分の行為で世界が終わる可能性」を直視したとき、そのボタンを押せる指導者がいるとは、心理学的見地からも想像しづらい。だからこそ、私は長く疑問を抱いていた。使えないはずの兵器が、なぜ抑止力になるのか。大国同士の相互確証破壊ならまだ理解できる。では、小国が持つ核には一体どんな意味があるのか。

この素朴な疑問に対し、ロシアによるウクライナ侵攻は残酷な現実を突きつけた。核を放棄したウクライナは侵略され、西側は支援こそしたが自国の兵士を出すことはしなかった。この現状を目にして、私は従来の抑止論を疑った。そして、ひとつの仮説にたどり着いた。

核とは、敵を脅すためだけの兵器ではない。それは、覇権国に「この国を見捨てれば自らの核の価値が崩れる」と思わせ、逃げられないように縛りつける“政治的拘束装置”でもある、というものだ。

本稿では、前後編にわたり、この逆説的な核の機能を「覇権拘束型核抑止」として整理したい。

ウクライナはなぜ守られなかったのか

ウクライナが守られなかった理由として、「NATO加盟国でなかったから」「条約がなかったから」と説明されることが多いが、これは真実の半分しか説明できていない。

歴史を振り返れば、米国は相互防衛条約のないイラクやアフガニスタンに対する大規模軍事行動、シリアでの武力介入など、条約の有無とは無関係に大規模に介入してきた。逆に、条約があっても関与を渋るケースはある。つまり、条約そのものが介入の決定因ではない。

国際政治学者のダリル・プレス(Daryl Press)らが論じたように、抑止の信頼性は条文ではなく「その危機における現在の国益と力関係(Current Calculus)」によって決まる。条約があろうがなかろうが、「守る価値(利益)」があれば介入するし、なければ見捨てるのだ。

むしろ、ウクライナがNATOに入れなかったのは“原因”ではなく“結果”である。ブカレスト・サミット以降、加盟が先送りされたのは、「米国の存亡(核戦争リスク)を賭けてまで守る対象とは位置づけられなかった」と解釈する余地が大きい。

米国にとって、ウクライナがロシアに飲み込まれても覇権秩序は致命傷を負わない。この「価値判断」は条約より重い。条約とは、“守る価値があると判断された国に後付けされるラベル”に過ぎないということである。

日米安保という「契約」の脆さ

この現実は、日本にとって他人事ではない。「日米安保があるから自動的に守られる」という前提は危うい。

条約は、解釈変更や不履行によって容易に効力を失う。もし米国が核戦争リスクを負いたくないと判断すれば、「日本側の挑発責任」や「エスカレーション回避」など、介入を避ける理由はいくらでも成立する。

安全保障の本質は、条文よりも「日本を見捨てることが、米国自身にとってどれだけ高くつくか」という、コストとベネフィットの天秤の中にある。

では、小国はいかにしてその「見捨てるコスト」を高め、覇権国を逃げられなくするのか。ここで初めて、核保有の真の意味が浮かび上がってくる。

(下)につづく