習近平国家主席 2025年10月23日 中国共産党新聞より
さて、下関講和のあった1895年は丁度3年に一度の会試(科挙第2関門)の年で、大勢の挙人(第1関門の郷試合格者)が地方から上京し、講和反対の「公車上書」を光緒帝(1871-1908)に次々提出した。どれも帝に届かなかったが、「戊戌変法」を推進した康有為の「上清帝第三書」が漸く帝の目に触れた。
康はその後に提出した「第五書」と「第六書」に「日本は地勢的に我々に近く、政治・風俗も我々と同じで、期待される効果は最も速い。その条理をきめ細かに採用すれば、甚だ容易に事が進むであろう」と認めて、日本の明治維新を模範とする「変法」を主張した。変法とは旧来の制度の根本改革を指す。
併せて康は、明治元年から第一回帝国議会が開かれた明治23年(1890年)までの明治新政府での出来事を時系列に詳述した『日本変政考』を翻訳し、光緒帝に進呈した。同書には明治政府が1872年に公布した教育法令である「学制」が詳しく記されていた。
即ち、全国に学区を設け、定められた数の小学校、中学校、大学校を設置することや男女を問わず6歳以上の者の就学義務を定めた「学制」の詳細である。実は康はこの「学制」記述の参考書に、公使として1877年から4年間日本に赴任していた黄遵憲(1848-1905)の著書『日本国志』を用いていた。
光緒帝は1898年6月に国是を定める「詔書」を下し、「戊戌変法」が始まった。注目すべきは「証書」が早急に行うべき施策として後に「五四運動」が起きた北京大学の前身京師大学堂の創設を挙げていたこと。帝が『日本変政考』や『日本国志』を読んでいたからこそのことだった(「『抗日』中国の起源」)。
しかし、康が「欧州は300年の変法で強くなり、日本は30年の変法で強くなった。我が中国の偉大な民衆が大変法を行えば3年で強くなるだろう」と豪語した「変法」は僅か3ヶ月で頓挫した。良くあることだが、無駄な官職を削減するなどの性急過ぎる改革が、利害を有する守旧派の大きな反感を買ったのである。
西太后は「変法」を苦々しく思い、直隷総督兼北洋大臣に起用した満州人栄禄ら守旧派を結集、一方の変法派は一時メンバーだった直隷按擦使の袁世凱を恃み、北京に進軍して栄禄を討つよう促した。一旦は承知した袁だが、直ぐに裏切った。結果、西太后は光緒帝を幽閉し、康と梁は日本に逃れた。これを「戊戌政変」という。
斯くて「戊戌変法」は6月11日から9月21日の「政変」までの100日で終わったが、その意義は深く、後の中国近代化に大きな影響を与えた。例えばこの間に光緒帝が下した勅諭は230本に上り、全国の学校を統率する京師大学堂の章程全8章54節の整備もなされた(深澤秀男『戊戌変法運動史の研究』図書刊行会)。
光緒帝は「政変」後も、また義和団の乱に端を発した北清事変(00年)の後も、西太后の下で実権のない「光緒新政」を継続したが08年に没し、翌日には北清事変で権力失墜した西太后も死去した。西太后は「新政」を、洋務運動家として「中体西用」を主張した張之洞(1837-1909)らに行わせたが、その実態は「変法」と大同小異だった。
さて、中国史研究では「立憲」の対立概念は、ながく「革命」だった。立憲派は「戊戌変法」を推進した康らのように皇帝を残した立憲制を目指し、革命派は帝政を倒さねば変革はあり得ないとする(『袁世凱』岡本隆司)。その「革命」が1912年に起きた。この辛亥革命にも日本が深く関わっていた。
辛亥革命の母体の一つが1905年8月に東京で発足した「中国同盟会」である。同会は綱領に「満州人の支配を覆し、漢人の政権を取り戻し、共和国を樹立する」と謳った。入会者は湖南・湖北・広東の出身者ら450名を数えた。そこには中国を戦場に日本が勝利した日露戦争を契機に各地で設立された救国団体からの留学生もおり、郷党意識による内紛で団結は図れなかったものの、会の影響は大きかった。
機関紙「民報」は、1898年に亡命し既に論壇の指導的立場にいた立憲派の梁啓超が主宰する「新民叢報」と激しい論争を繰り広げた。「民報」の論客には、10年に摂政王載灃(溥儀の父)の暗殺未遂事件を起こし、25年に国共合作下で発足した中華民国国民政府初代主席の汪精衛(1883-1944)もいた。
兎にも角にも、辛亥革命によって19年2月に宣統帝(溥儀)の退位で清朝が滅亡し、共和制国家中華民国が産声を上げた。革命の火蓋が切られた湖北省武昌は、張之洞が教育改革の一環で多数の新式学校を設け、多くの留学生を日本に送り出し、その10名ほどは陸軍士官学校に入学していた土地柄だった。
革命から「二十一ヵ条要求」、そして「五四運動」へ
斯くて成立した中華民国の初代臨時大総統には、革命中に亡命先の日本から帰国した孫文(1866-1925)が就いた。彼は台湾でも「国父」と呼ばれ、中国でも近代革命を行った「国父」として扱われている。筆者は21年5月の拙稿「習近平が訪問した湘江で93年前に何が起こったのか(前編)」でこう書いた。
1912年に孫文が辛亥革命で清朝を倒した後も、中央政権が40回も交替したほど中国各地で軍閥との戦いは収まらなかった。20年10月に広東政府(翌年中華民国)を立てた孫文は、国民党革命軍による軍閥平定を試み、孫文が二度(22~25年)、蒋介石が三度目(26~28年)の北伐を行った。南(広東)の政府による北洋軍閥(袁世凱の北京政府)の打倒戦ゆえ「北伐」と称される。
23年1月、モスクワ(ソ連とコミンテルン)は共産党幹部に国民党入党を指示する(第一次国共合作)。袁世凱政権がソ連の外モンゴル占領を認めなかったため、モスクワと孫文の利害が一致した。中国征服のためソ連を頼む孫文は、鉱物資源の豊富な新疆をソ連に差し出す提案すらした(大隈政権による対華21ヵ条要求も容認した)。
孫文を節操ない嘘つきと見ていた共産党幹部は、国民党入党に異議を唱えたが、これも節操ない実利主義者の毛は進んで国民党入りしモスクワの歓心を買った。
上述からは、辛亥革命後も中国の近代化は遅滞し、中華民国臨時政府には孫文に代わり袁世凱が大総統に就任して北京政府が発足(13年10月)、袁政権が受け入れた「対華二十一ヵ条要求」は孫文も容認し、その孫文を共産党幹部は「嘘つき」と見ていたが、「実利主義」の毛は孫を受け入れていたことなどが判る。
そこで「五四運動」の原因となった「要求」(対華二十一ヵ条要求)のことになる。それは第一次大戦勃発の翌15年1月、第二次大隈内閣が袁世凱の中華民国北京政府に対して提出した利権要求である。一般には大戦に忙しい欧米列強の隙をついた日本の狡猾な帝国主義政策であり、中国の反日運動「五四運動」の主要因になったと見做されている。
その「要求」に関し、筆者は17年に手元の関連書21冊に「要求」がどう書かれているか読み比べたことがある。結果は、これに批判的な書き手は、中国に「要求」を「突き付けた」と表現するが、大隈が創立した早稲田大学系の著者の多くは「提出した」としている、というのが先ずの印象だった。
最も興味深かったのは大著よりも『条約で読む日本の近現代史』(田中秀雄/藤岡信勝編 祥伝社新書)だった。同書は、「要求」と総称される「山東省に関する条約」「南満州及東部内蒙古に関する条約」と「十項目の交換公文」の各文言に即して、中国の抗議が正当なものあったかどうかを検証している。以下は主に同書を参考に述べる。
(③につづく)