外交官林董の治績・日英同盟の成立背景とその有用(中編)

高橋 克己

陸奥はよく「予は外交よりも専ら内交に注意したるにより、条約改正を成功することを得たり」と言っていた。その理由は、事務方が条約草稿を内閣諸大臣や元老らに送っても、諸条約の研究をしたことも意見もない彼らは、持ち帰って書生に示す。書生らは知識を衒って意見を言い、諸大臣らはこれを理解せず閣議に参加し、世間に漏らして紛糾を醸すからで、伊藤総理にしか草稿を送らなかった。

その伊藤が後に、纏まりかけていた日英同盟交渉を頓挫させかねない挙に及びかけたことは後述するとして、董は、「日清戦争の導火線」が東学党に手を焼いた李朝の求めに応じて清が出兵し、日本も甲申政変後(88年)に結んだ天津条約に基づいて94年6月半ばに出兵したことに「相違なきも、之を促したるは実に金(玉均)の暗殺と、この時の清の挙動なりと予は信ずるなり」とする。日本国民は清による金の凌遅刑や遺骸の粗略な扱いに激高したと。

朝鮮出兵についても、「初めより七、八千の兵を出すとすれば、伊藤総理つねに平和主義の人なるが故に承諾すまじ」として、伊藤を騙した一件を書いている。清兵五千に対し、初めからこれを圧するために川上操六参謀次長は、「一旅団を派遣」すると言えば、伊藤総理は「旅団の兵は二千人位なることを知る故に異論なかるべし。然して混成旅団を出せば、実際七、八千の兵あり」と述べたのだ。

日英同盟が日本に胚胎したのは日清戦争末期から三国干渉にかけての頃だ。開戦に際し日本は、英国が清を支援する内約がないか懸念した。が、7月に入り英政府が東京の代理公使に「日清間の平和破るるとも、上海付近を交戦区域の外に置かんことを承認すべき旨、我が国に要求させた」ので、日本は英清間に内約なしと合点し、「開戦を布告するの議を決した」のだった。

露独仏による三国干渉は、日本国民の間に日英同盟を望む声を高からしめた。00年、賜暇でロシアから戻った董が伊藤を訪問した際、居合わせた井上伯は董に、駐英公使加藤高明(1860.1-1926.1)が説く日英同盟を念頭に「公使として英国に往く気があるか」と問い、董は「願っても往きたい」と答えた。

1895年11月8日、三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印
出典:Wikipedia

外務次官として三国干渉に対処し、欧州列強の何れかとの同盟の必要性を痛感していた董は、「その最良の相手が露でも仏でもなくおそらく英、との説を抱いていた」。そしてその論を英国赴任の直前『時事新報』に発表し、これを歓迎した社主福沢諭吉は、自身も『日本と英国との同盟』と題する社説を書いて世論を喚起した(芳賀徹前掲書)。

欧州列強のうち、駐露3年の董が知悉していたロシアの事情は、三国干渉で得た太平洋岸の不凍港への投資費用を捻出すべく英国で公債を発行することにあった。それはシベリアから旅順へ連結する鉄道敷設や沿線の市街開発の費用で、大蔵大臣ウィッテの職責だった。

ウィッテは駐露英国大使に、これまで独仏でのみ発行してきた公債に加え英国でも募集したいから、英国人民の好意歓心を結ぶため、役人をロンドンに駐在させたい旨を申し出、それに先立ちモスクワの実業家らを英国に往かせるので、親しく国情を視察させて欲しいと提議した。

その後、ロシア各地で革命党の暴動が起こり、政府の激烈な弾圧の風聞が流れて、英国人の対露心証が悪化しため、ウィッテの親英策は不成功に終わった。が、ロシアがいざとなれば英国に与えるべき利益の方策を斯様に持っていたことを、董は『日英同盟の真相』に記している。

00年2月下旬に渡英した董は、直後にロンドンタイムスの中国特派員モリソンと時事新報社屋で日英同盟について談じた。その夏、モリソンはマクドナルド英公使や駐在武官柴五郎中佐らと共に義和団事件下の北京城に55日籠城、戦況や柴中佐率いる海軍陸戦隊の忠勤ぶりを逐一ロンドンに打電して日本の評判を高からしめ、日英同盟成立の陰の功労者となった。

日英同盟前年の01年4月、董を訪れた在英独代理大使が、個人の意見として極東の平和維持のため日英独の三国同盟を提案した。その実、言い分をよく聞けば、何時敵国となるか知れない露仏に陸路を挟まれている上、ドイツの貿易発展には海上で英国と権力を争わねばならぬ、とのことだった。

つまりは、義和団事件の横暴で評判を落としたロシアが何時までも極東にかかずらう様に、日露を接近させまいとする魂胆だ。英独協商では弱いと踏んだが、進んで日本を頼むドイツの国情でないため、英国を含めた三国を考えていると董は読んだ。三国干渉を経験した董は、日英独同盟なら将来の同じ憂いを解消できるとも考え、政府に諮った。

伊藤内閣の外相は董と同じく日英同盟に熱心な前英国公使の加藤で、董の自己責任で英国の意向を探るなら宜しいとのこと。早速、董は英外相ランズダウン候に会い、何気なく日英同盟の探りを入れた。候は、その必要を認めているがソールズベリー首相不在につき、篤と考えたいと述べた。

そして別れ際に、候が「斯様な取極めはあながち日英両国ばかりでなく他国を仲間に入れても好かろうではないか」と言ったので、董も「同感である」と応じ、取り敢えず次のような日英だけの同盟私案を作って政府に打電した。以下は『日英同盟の真相』より。

  • 一、支那の門戸開放、及び領土保全の主義を維持すること。
  • 一、従来各国が既に発表したる条約を以て獲得したものの以外は、一切支那から土地を取ることを許さないこと。
  • 一、日本は朝鮮で他国に立優った利益を持っているから、同国に対する日本の自由なる行動を、同盟国にて承認すること。
  • 一、同盟国中の一国が他国と開戦する場合には、他の同盟国は中立を守るが、若しも第三国が敵国を助けたる場合には、戦争に加わること。
  • 一、英独協商は持続せらるべきこと。
  • 一、此同盟は、極東に於ける事件のみに関係し、其動作の区域もまた之に准ずること。

比較のため第一条のみ再検討することとなった英国の対案を以下に掲げる。

前 文 英国と日本と極東における現状維持に鑑み、尚又清帝国と韓帝国の独立並びに領土を保全し、此両国に於いて各国共に商工業について同等の機会を占むることを必要とし、左の約束を為す。

第一条 英国と日本国とは、清帝国並びに韓帝国の独立を互いに認定し、此国に於いては更に侵略的の挙動出でざることを言明す。但し日本政府は韓国に於いて、貿易上並びに政治上に格別の利益を有する事に付、英国の注意を促し、英国政府は清国に於いて格別の利益を有する事に付、同様注意を促したるを以て、若し此利益が或る他国の為に侵略せらるる虞ある時は、両国は各其利益を保護するの必要なる手段を取ることを許さるるものとす。

第二条 英国或いは日本が、前条の利益を防護する為に他国と兵端を開くに至りたる時は、締約国の一方は厳正なる局外中立を守り、他国が締約国の敵と連合することを妨ぐることに尽力すべし。

第三条 上記の如き事件が生じたる時、締約国の一に対し、或は他の国が敵国と連合する時は、他の締約国は直に其締約国を助けて戦を起し、又之と協同して和を講ずべし。

第四条 締約国は相互に談合することなくして、上に述べたる相互の利益を障害する如き協議を他国となすことなきを約す。

第五条 英国或いは日本国の所見にて、上述の利益危険に臨みたる時は、相互に自由に腹蔵なくこれを通知すべし。

第六条 此協約は調印の後直ちに効力を有し、爾後五ヵ年間継続すべし。(以下略)

後編に続く)

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