12月9日の『日経』に「習近平氏は何に怒ったのか 日清戦争に敗れた屈辱の記憶」なる見出しの、上級論説委員高橋哲史氏の署名記事が載った。
この1月に東京大学出版会から『習近平研究』を上梓した鈴木隆大東文化大学教授は、同月末に「習近平の政治家像とリーダーシップ、台湾問題をめぐる政治認識」と題する会見を行った。見出しは会見の司会を務めた高橋氏が、同教授が述べた一節から付けたものだろう。会見の「メモ」がネットに上がっている。
「メモ」によれば鈴木教授は冒頭で、習氏が18年6月に山東省威海市劉公島の北洋艦隊砲台跡を訪問したことを紹介し、「習氏は『屈辱の近代』に対する歴史のあだ討ちのようなものを心の中に持っている。その大きなトゲの一つが、日清戦争での北洋艦隊の惨敗だというのが一つの仮説だ」と述べた。
また、日清戦争後に調印した下関条約(1895年)で清国が台湾を日本に割譲したことを、習氏は「中国近代史の不名誉」と捉え怒りを抱いており、「台湾問題を解決することで東アジア近代史を総決算する」ことを目指している可能性がある、と鈴木教授は分析した。
そして「メモ」は、習氏には台湾の対岸にあたる福建省で約17年間勤務した経験があるとし、鈴木教授が「習氏は、台湾海峡で危機があるたびに出世した。成功体験になっており、そのまま台湾を放っておくとは考えづらい」と語り、台湾統一への思いは強いとの見方を示した、と記している。
『日経』記事では、その辺りに記されている知見が、鈴木教授のものなのか、あるいは中国経験が豊富らしい高橋氏のものなのか判らないが、会見メモを読んで判然とした。筆者には鈴木教授の見解に纏わる私論があるが、それを述べる前にこの記事の高橋氏の記述への異論を二点述べておきたい。
一つは、(高市答弁について)「話せばわかるはずなのに、中国側は聞く耳を持たない。習氏の怒りが収まらないから、誰も日本の肩を持ちたくないのだろう」との一節。言外に「誰も」が中国を恐れていると述べているようだが、世界のどこに今、日本の肩を持たない国があるのだろうか。国内でも高市氏の支持率は7割を超えたままだ。
二つ目は、「まずは対話の窓口をつくる必要がある。それを糸口に、時間をかけて不信の連鎖を断ち切るしかない」との一節。が、「対話の窓口」を閉ざしていない日本を執拗に攻めているのは「聞く耳を持たない」中国であり、高市政権は事実を丁寧に主張して味方を増やしつつ、中国の頭が冷えるのを待っているように筆者には見える。

習近平と毛沢東
習は確かに福建省での政治経験が長く、01年には省長として、李登輝総統が大陸委員会主任委員に抜擢した蔡英文前台湾総統と「小三通」(厦門・金門島間の客船運航)を纏めもした。そうした経緯から彼が、毛沢東(1893-1976)も成し得なかった台湾統一に執念を燃やしているとの鈴木教授の論は腑に落ちる。
だが習が未だに130年前の日清戦争の敗戦を根に持っているなら、見識を疑わざるを得ない歴史認識だ。そもそもこの戦は10年前の1885年に朝鮮で起きた「甲申政変」を処理した天津条約にある「両国いずれか一方が出兵すれば他方も兵を出す」との条項に端を発している。即ち、東学党を鎮圧すべく朝鮮駐在官袁世凱(1859-1916)の意を受けて(異説あり)、清が先に出兵したのである。
対する日本の戦争目的は、朝鮮が近代化するために清・露から独立させることにあった。だのに下関講和会議で李鴻章は割譲する遼東半島のオマケで、風土病が猖獗する三年小乱五年大乱の「化外の地」台湾を手放した。それを10年足らずで近代化したのは児玉源太郎・後藤新平のコンビだ。よって習が恨むべきは、戦に負けて台湾を放棄した北洋大臣李鴻章であって、日本ではなかろう。
加えて、日本はこの時に獲得した遼東半島の権益を、露仏独の三国干渉によって返還する羽目になり、更にロシアはその地を1898年の「旅順大連租借に関する条約」よって奪った。このことが10年後の日露戦争の原因の一つとなり、第一次大戦中に日本が提出した「対華二十一ヵ条要求」の理由ともなった。
ところで、中国共産党総書記である習は、唯一毛だけが就いた中国共産党主席を目指しているという。が、こうした日清戦争に執着しているようでは、毛主席の域に到底達し得まい。何しろ毛は平然と「日本軍の進攻に感謝する」と言ってのけた人物だ。習の器も教養も治績も、毛と比べるべくもない。
毛はまた1958年の第二次台湾海峡危機に際し、金門・馬祖解放の棚上げがむしろ「二つの中国」論を遠ざけると考えて両島への砲撃を中止し、「世界上にはただ一つの中国しかなく、二つの中国はない」との「台湾同胞に告ぐ」を発して、危機の幕を引いた。ここにも習にはない、毛の深謀遠慮が窺える。
湖南省の師範学校で学んだ毛は、後に北京大学教授となった同郷の楊昌済(毛の2番目の妻の父、1903年から5年間東京高等師範に留学)の斡旋で、「五四運動」(1919年)の直前まで北京大学で李大釗(中国共産党創立メンバーの一人)の助手として司書をしており、読書家としても知られる。その毛は「五四運動」に背を向け、北京大学を離れて母の看病のため湖南省に戻っている。
往時の毛のむしろ好意的とも思える日本観は、私淑していた「戊戌変法」(1898年)の推進者の康有為(1858-1927)と弟子の梁啓超(1873-1929)が、西太后や袁世凱による「政変」を逃れて日本に亡命したことや、孫文を含む亡命者や楊ら留学生を吉野作造などと支援した宮崎滔天が、第一次大戦中に湖南省で行った講演を聞いたことなどにより形成された。
梁啓超の亡命には伊藤博文が関わっていた。北京の日本大使館に逃げ込んだ梁を、偶さか滞在中の伊藤が保護し、軍艦大島で日本に移送したことで、以後15年にわたる梁の日本での亡命生活が始まった。毛は「新民叢報」(後述)の梁の文章を暗唱し、自身もその「新民体」で文章を綴ったという(『梁啓超文集』解説)。
「五四運動」には拙稿で、「五四青年服」の劉外交部アジア司長がポケット手で金井アジア局長を遇したことで触れた。そこで以下では、日清戦争から「五四運動」及びその要因となった「対華二十一ヵ条要求」(「要求」)辺りまでの日中の関係を、「中国近代化と日本」という視点から概観する。
中国近代化と日本
前述の拙稿で筆者は、「五四青年服」の由来が「日清・日露の後に大勢訪日した中国留学生が、日本の学生服を真似て取り入れたとの説が有力だ」と書いた。「要求」提出までの清末の中国を振り返ると、そこには明治維新を契機に急速に台頭した日本を模した教育改革と日本への留学熱があったからだ。
武藤秀太郎新潟大学教授は『「抗日」中国の起源』の中で、日本への留学生が1899年に200人、北清事変後の02年に500人、03年に1000人、04年には1300人となり、科挙が廃止された05年には8000人、06年には1万人の大台に乗り、一説には総数が2万人を超えたと記している。
また当時、天津の北洋師範学堂で教鞭をとっていた中島半次郎が残した資料『日清間の教育関係』から引いて、09年の中国諸学堂における日本人教師の数を311人(他に英米人31人、独・仏人各3人、その他3人)とも記している。何れも日清・日露で勝利した日本の教育への熱を裏付ける数字である。
(②に続く)






