こんにちは、自由主義研究所の藤丸です。
今回は、12月15日に行われた、アルゼンチンのファロ財団の年末晩餐会でのハビエル・ミレイ大統領の演説を、全文日本語に翻訳して紹介したいと思います。

ファロ財団は、アルゼンチンの著名な言論人であり、ミレイの友人でもあるアグスティン・ラヘ氏が会長を務めています。ラヘ氏は、スペイン語圏の自由主義・保守主義者に大きな影響力を持ち、左派との「文化の戦い」の重要性を訴えた先駆者でもあります。
16000文字と長文ですが、非常に重要な内容です。ぜひお読みください。
動画はこちらです。(ただし、スペイン語です)
ファロ財団 年末晩餐会におけるハビエル・ミレイ大統領の演説
皆さま、こんばんは。
本題に始める前に、今週末にオーストラリアで起きた、世界中を震撼させたイスラム過激派によるテロ攻撃について、少しお話したいと思います。
まず、アルゼンチンならびに世界のユダヤ人共同体に対し、連帯と哀悼の意を表します。近年、反ユダヤ主義は国際的な状況の中で、ますます忌むべき形で噴出しています。しかし同時に、私は、この脅威がユダヤ人だけに向けられたものにとどまらないということを、強く警告したいと思います。というのも、それは自由そのものに対する冒涜だからです。自由こそ、疑いようもなく、私たち西洋文明において最も神聖な価値です。すなわち、すべての市民が、法の枠内において、自由で平和な生活を営み、自らが選んだ人々と交流し、自ら選んだ信仰を表明できるということです。
まさにこれが危機に瀕しており、非人道的なテロ行為が私たちに問いかけようとしていることなのです。
自由の不倶戴天の敵であり、自らの信条を押しつけるためなら冷酷に人を殺すことさえ厭わない者たちが行うこのような行為は、私たちが繰り広げている「文化の戦い」の重要性を、改めて思い起こさせます。
なぜなら、善良な人々が無関心であるとき、不正と悪が蔓延するからです。
ヨーロッパと自由世界の大部分に感染した「ウォーク(woke)のウイルス」は、「加害者を怒らせないために目を背けよ」「擁護すべきでないものを擁護せよ」と私たちに迫ります。
だからこそ、昨日起きたような議論の余地のない出来事であれ、一見無害に見える日常の事例であれ、「間違っていることは間違っている」と明確に言い続けることが私たちの義務なのです。
他方で、より明るいニュース、いや、はるかに明るいニュースとして、この場を借りて、チリの新大統領に選出されたホセ・アントニオ・カスト氏の選挙での圧倒的勝利を心から祝福したいと思います。そして、今日から新しい時代を生き始めるチリ国民の皆さまに、兄弟としての抱擁を送ります。
このことは、南米が目を覚まし、二十一世紀型社会主義という災厄から離れて、自由の理念へと断固として舵を切り始めたことを示すさらなる兆候でもあります。
それでは、本日の演説を正式に始めます。
このファロ財団は、私たちが長年にわたり左翼的な蒙昧主義に対抗して戦ってきた「文化の戦い」の、真の砦となりました。本財団の年末晩餐会で、友人たちとともに再びこの場にいられることを、心から嬉しく思います。
この機会に、財団の会長であるアグスティン・ラヘ氏に感謝を申し上げます。アグスティンは、わが国のみならずスペイン語圏全体における文化の戦いの先駆者であり、旗手です。この栄誉ある招待と、長年にわたる取り組みに対し、深く御礼申し上げます。アグスティンこそ、私たちがいま経験している「文化的なパラダイム転換」の主要な立役者の一人であると、私は確信しています。
どうか皆さん、盛大な拍手をお願いします。ありがとう、アグスティン。さらに、偉大なアクセル・カイザー氏、そして現在ラ・パンパ州選出の国会議員となったアドリアン・ラビエル氏にも感謝申し上げます。
この財団、そして同様の団体は、わが国と地域の未来をめぐって繰り広げられている「精神的な戦い」において、決定的に重要な役割を担っています。この戦いにおいて、私たちの武器はまさに私たちの「思想」であり、塹壕は私たちの日常生活のあらゆる場面です。これは銃弾も暴力もない戦いですが、それでもなお、現在そして将来世代にわたり、何百万人もの人々の人生が左右される戦いなのです。
適切に放たれた一言、勝ち取った論戦、世論という戦場において左派から奪い取ったあらゆる一歩が、再び自由に生きたいと願うすべての人々にとっての勝利なのです。
残念ながら、私たちは不利な状況からスタートし、そのことをよく理解しています。
長年にわたり、私たちは「文化の戦い」を軽視し、あらゆる人間の行動の背後には「思想」があるという事実、そして思想が広く受け入れられるためには真実である必要はなく、魅力的である必要があるという事実を無視してきました。
アクセル・カイザーの言葉を借りれば、それは「致命的な無知」であり、それこそが、昨日チリで終わりを告げた「悪夢」を招いたものなのです。
左派はこのことをよく理解しており、「自らの嘘を魅力的に見せる術」を心得てきました。憎悪と怨恨に、「正義」「平等」「連帯」という光沢を塗りたくってきたのです。
左派たちは自らの思想がもたらす結果や、そもそもそれらの思想が実現可能かどうかさえ考慮していませんでした。歴史は彼らの嘘がもたらす致命的な結果を幾度となく示してきました。それでもなお、彼らは依然として驚くほどの人気を博しています。
ここで私は、素晴らしい経済学者トーマス・ソウェルの言葉を引用したいと思います。トーマス・ソウェルは次のように述べました。
「社会主義の最もよい点は、聞こえがよいことだ。最も悪い点は、決して機能しないことだ」。そして実際、社会主義は経済的にも、社会的にも、文化的にも、常に失敗してきました。
さらに忘れてはならないのは、社会主義が一億五千万人の人命を奪ってきたという事実です。
だからこそ私たちは、真実を語るだけでなく、それを「伝える術」を学ぶことにも注力してきました。その意味で、ファロ財団は真の使命を果たしています。すなわち、人々を照らし、真理と善の道を示す光の束として。
かつて自由主義が、国家主義の台頭に直面して象牙の塔に閉じこもってしまったようなやり方ではなく、一般の人々の言葉で語り、泥の中に降りて、左派の土俵で勝負するのです。
欺瞞と歪曲が幾重にも重なり、闇に覆われた世界において、進むべき道を見出すための「灯台」があることほど心強いものがあるでしょうか。
私が「闇の世界」と言うのは、これはアルゼンチン固有の悪ではないからです。自由世界の大部分が道を見失い、死のイデオロギーに取り憑かれ、集団自殺へと夢遊病者のように歩み進めているのです。
実際、人々は左派に投票し、左派たちは選挙に勝ちます。つまり左派たちは、権力を掌握する方法を巧みに変えたのです。かつては暴力で奪い、現在は、嘘と今日ここで論じる必要のない様々な手法を通じて、投票箱を奪うのです。
しかし幸いにも、この大陸は目覚め、咆哮しています。
「自由万歳、クソッタレ!」と。
あらゆる場所で、歯止めの利かない国家主義が個人の自由に脅かし、自由な国々を経済的停滞へ、精神的な浸食へ、そして最終的には消滅へと追い込んでいます。
もしこの道を歩み続けるなら、西洋は「オジマンディアス王」のようになるでしょう。あの有名な詩が語るように、かつて世界を驚嘆させた偉大な業績は、やがて忘却に沈み、砂漠の砂に呑み込まれていくのです。
西洋は、ケインズ主義的国家主義の魅惑的な歌に誘惑され、経済の「賢者の石」を見つけたと信じ込んでいました。彼らは自分たちをあまりに賢く、あまりに創造的だと思い上がり、致命的な傲慢さに目を曇らされて、現実そのものを打ち負かすことができる、と考えたのです。
通貨発行と負債で賄われた無制限の財政支出を、消費刺激のために投入すれば、システムを「ハック」でき、無限の富を生み出す装置を作れると信じたのです。――まるで人生が『The Sims』の一場面であるかのように、そう信じたのです。
これは、「ある思想が人気を得るためには、必ずしも真実である必要はない」という事実を明確に示す例です。むしろ、その逆ではないかと私は考えています。つまり、人間というものは、ときに「嘘をついてもらい」「コストゼロで繁栄を約束してもらう」ことを好むのです。
ここで、ハイエクに関するとても興味深い逸話を一つお話ししましょう。面白いのか、悲しいのか、私にもわかりません。これをもっと上手に語れる人はいるでしょう。たとえばクラウゼ教授やラビエル教授などです。クラウゼ教授、本日ここにお越しいただきありがとうございます。大変光栄です。
もし私がこの逸話を間違えていたら、どうか訂正してください。私はそれでまったく構いません。
ハイエクは長い間、ケインズと『貨幣論』について激しく論争していました。少なくとも当時のその議論は、ウィクセルの論理の範囲内にあり、まともな分析の枠組みとして、それなりに尊重しうるものでした。ハイエクとケインズが書簡のやり取りを通じて議論していたころ、ハイエクはそれを真剣に受け止め、懸命に反駁の準備をしていました。ところが、ある書簡の中で、ケインズはハイエクに対してこういう趣旨のことを言ったのです――「なぜこんな議論を続けているのか自分でもわからない。私はもうこの理論を信じていないのに」と。つまりケインズは、すでに考えを変えていたのです。
そしてその後、1936年にあの忌まわしく不吉な本が登場します。『雇用・利子および貨幣の一般理論』です。
ハイエクはこの本をあまりにも酷い出来だと思い、「議論する価値すらない」と断じたほどでした。しかも、ハイエクは前の本について長い時間をかけて論争したのに、当のケインズはすでに立場を変えてしまっていたのです。しかも『一般理論』は、誤りだらけで、議論するに値しないほど酷いのです。
ところが、その後この本は、ほとんどあらゆるポピュリスト政治家の“座右の書”となり、もたらした害は計り知れないものとなりました。
したがって、西洋が、歴史上もっとも“ユートピア思想”を生み出してきた文化であることは、偶然ではありません。20世紀に彼らは、「福祉国家」という地上の楽園を売り込もうとしました。これは「ソ連型社会主義」への対抗として、それを「薄めたバージョン」で提示したものにすぎなかったのです。
私は皆さんに『一般理論』を読んでみることをお勧めします。
たとえばドイツ語版序文では、ケインズがナチズムを讃えるような賛歌を捧げている箇所がありますし、投資を扱う章では、露骨に中央計画に肩入れしている部分もあります。実に興味深い章がいくつもあるのです。
だからこそ、後になって彼らがそれを売り込もうとしたときには衝撃的でした。中には、ケインズをまるで自由主義者であるかのように扱う人までいます。
どれほどゴールポストが動かされているか、わかるでしょう。
あるいは、筋金入りの左翼を見分ける指標が欲しいなら――気の毒なホセ・アントニオ・カストを「極右だ」と言う連中です。
それほどまでに、全体が左へと移動してしまったのです。
ここでも何人ものジャーナリストが同じ言い方をしているのをご覧になったことがあるでしょうから、驚くには当たりません。
さて、ケインズ主義の考え(かなりのユートピア的な要素を含む)では、自由市場それ自体では成長も資源配分の適正も確保できない、という前提に立っています。たとえ、個人が極端にリスク回避的で、保険市場が不完全で、流動性が乏しい、つまり浅い市場の世界を想定したとしても、です。
それでも彼らはさらに先へ進もうとします。ゆえに社会は中央計画システムへ【進化】すべきであり、そこでは【熟練した官僚】が経済に積極的に介入します。あることを奨励し、あれを抑制し、ここから資源を引き剥がして、あちらへ持っていく。彼らの気まぐれと、経済の錬金術に従うのです。
では、それが何を意味するのでしょうか、今日風に訳した表現でお伝えしましょう。
たとえばこうです。
「マクロは良い。でも問題はミクロだ」。
少しこの話で遊ばせてください、すみません。まず第一に、マクロはミクロの総和です。つまり、フリードマンが金融政策の役割に関する研究によってフィリップス曲線を打ち砕き、ミクロの基礎の取り戻し始めた1968年以降の時代を理解できていない時代遅れの三流経済学者でもない限り、現代の真っ当な経済学者は、時間を超えた一般均衡を研究しています。
これを最も見事に言語化しているのは、ヘンリー・ハズリットです。
彼の素晴らしい、しかも非常に基本的な本『Economics in One Lesson』で、彼はこう問いかけています。
「良い経済学者と悪い経済学者の違いは何か?」
悪い経済学者は一つの市場、一つの期間しか見ない。良い経済学者はその市場だけでなく、他の市場との相互作用も見る。そして今日だけでなく、将来の結果も見るのです。
したがって第一のポイントです。一般均衡を扱う者にとって、ミクロとマクロの区別など本来は存在しません。ただし、彼らが酷い経済学者でなければですが。
そしてこれは『産業Xの「救世主」』という本でも述べられているのですが、要するに「この政府はミクロの課題を扱っていない」と言う人々に対して、私はこう言いたいのです。――ありがとうございます、ありがとうございます。なぜなら、実のところ「ミクロをいじる」のは腐敗した人間だけだからです。
世界が学んだことが一つあるなら、それは “don’t pick the winners”――勝者を選んではいけない、ということです。
もし「ある産業を救う」と言うなら、その産業に資金を投入しなければなりません。では、その資金はどこから来るのでしょうか。木に生るとでも言うのでしょうか。わかりません、いったいどこから来るのでしょうか?
何らかの形で、その費用を支払わなければならないのです。
保護政策を実施するなら、4700万人(※アルゼンチン国民全員)の生活を破壊することになります。なぜなら、より低品質の商品を、より高い価格で買わされることになるからです。
では別の手段は何でしょうか。
明示的な増税でしょうか。それは成長を潰します。
隠れた増税でしょうか。では何をしますか。通貨を刷るのでしょうか。それはインフレを起こします。つまり最も脆弱な人々を苦しめることにになります。それは彼らが「守りたい」と言う相手です。
国債でやれ、というのでしょうか。それは将来世代を苦しめることになります。
現実には、彼らの本質的な活動はロビー活動であり、純然たる腐敗です。
自由主義の政府は、何をするのでしょうか。競争の条件を平等にするのです。自然権――生命、自由、私有財産――を尊重し、非侵害原則を守る。そして、その競争条件が整ったなら、あとは個人の行動に委ねるのです。
だから、「ミクロ、ミクロ」と言っている連中を見たら、それはロビー活動化であり、腐敗した連中なのです。
ゆえに「ミレイはミクロをやっていない」と言われたら、ありがとうと言いたいのです。これは、この政府が誠実であることの証拠だからです。
結局のところ、そうした計画主義の枠組みでは、私有財産と自然権は国家の判断に従属し、「公益」だとか「例外的な事情」だとかいう口実の下で、恣意的に踏みにじられるのです。
アルバート・ジェイ・ノックが『われらの敵、国家』で書いています。この本を私は勧めます。この本は私が愛読する一連の書物の中の一冊で、とりわけ私はこの本に強い愛着があります。
国家は、あらゆる非常事態を利用して、社会の犠牲の上に権力を拡大してきました。ところがこの世界観は、持続的な経済成長を保障するどころか、国家が人々の生命・自由・財産へ永続的に侵食していくことだけを保障してきたのです。
国家は、「自由と引き換えに安全を与える」と人々に約束しました。しかし、その取引を受け入れた人々は、結局、自由も安全も失ったのです。
ミルトン・フリードマンはこう述べています。
「自由を平等より上に置く社会は、その両方を多く獲得する。逆に、平等を自由より上に置く社会は、どちらも得られない」。
そして、国家主義の”司祭”たちに勢いづいたリヴァイアサンは、民間部門全体を支配下における、と信じ込んだのです。そしてこれは、その飽くなき財政欲に法的限界があることを信じなくなった結果です。
「資源をより良く管理する」と約束していた“国家党”の人々は、結局、惨憺たる管理しかできませんでした。
しかし、これは驚くべきことではありません。
フリードマン夫妻の『選択の自由』では、公的支出の章で「支出の四つの形」が語られています。
すなわち、「自分のお金」か「他人のお金」を使い、そして「自分のため」か「他人のため」に使うという、4つのパターンです。
自分のお金を自分のために使う場合、人は利益を最大化します。なぜなら自分が何を望んでいるか―つまり自分の好みを理解しており、さらに、そのお金を稼ぐのにどれほどの労力がかかったかも把握しているため、費用と便益を適切に調整できるからです。そして間違えれば自分が損をするから、学びも早いです。
次に、自分の金を他人のために使う場合です。これは、贈り物がそうです。この場合、できるだけ少ない出費で、良く見せたいと考えます。つまりコスト最小化が働きます。
次に、他人のお金を自分のために使う場合です。浪費です。どうせ支払いは他人なのだから、と考えます。
皆さんも見たことがあるでしょう。かつて私はよく旅をしていたのですが、搭乗案内が始まった時に、ビジネスクラスどころかファーストクラスで行く人物に出会い、「なぜファーストクラスを選ぶのか」を滔々と説明されたことがあります。私は「それは良いですね」と思いました。ところが、ある日、休暇シーズンに空港でばったりその人に再会したのです。そのとき彼は、ファーストクラスの搭乗案内が流れても、彼は行かなかったのです。彼は家族連れで、いわゆる“鶏小屋”のようなエコノミー席に乗っていたのです。なぜでしょうか。会社のカードではなく、自腹だったからです。そのときは、きちんとお金を大事にしたのです。
では最悪の支出形態は何でしょうか。
それは、他人のお金を他人のために使うことです。これを福祉国家と呼びます。それは機能するでしょうか。いや、機能しません。なぜなら、政治家は民間部門が負担するコストも税金を払う痛みを経験せず、かつ私たちが何を望むかを私たち以上に知っているわけでもないからです。だから常に失敗します。
それでは、政府ができる最良の政策は何でしょうか。
「国家を小さくすること」です。
私たちは連結財政赤字をGDP比15ポイントからゼロに削減しました。それだけではありません。GDP比で2.5ポイントの減税も行いました。そして、今後も同じ道を進み続けます。支出を削り、税を削ります。
さて、ここで「今年の社会貢献者」賞の授賞式が行われます。私たちはこれをトト・カプート氏に贈ります。史上最高の経済大臣としてのご活躍に感謝申し上げます。
さらに、左派に共通する誤りがあります。
「国家を、人間を超越した神のように見なすこと」です。しかし、国家を運営するのは結局、人間なのです。国家は金と権力の“戦利品”になります。国家が大きければ大きいほど、その戦利品も大きくなるのです。このように国家が民間部門へ侵食したあらゆる国において、浪費と誤った投資が常態化しました。
ここで現実の事例ではない例――比喩だと断っておきます――を挙げましょう。時々、文字通りに受け取りすぎる人がいるので。
私がよく例に挙げる「橋の省」の話です。
川を挟んで二つの共同体があるとします。彼らは、交易すれば双方の生活水準が向上することに気づきます。
このことについてよく知らない人への注意点ですが、これはスミスの「絶対優位」からだけではありません。片方がある分野で優れ、もう片方が別の分野で優れているから交易する、というだけではありません。片方があらゆる面で優れていても、交易は成立します。これがリカードの「比較優位」、あるいはオーストリア学派の言い方なら「リカードの結合の原理」です。これは交易だけでなく、あらゆることに当てはまります。だから「市場を自由化したら仕事が足りなくなる」などという主張は嘘であり、誤りなのです――まあこれは今は本題ではありませんが。
こうして二つの社会は貿易を行えば生活が向上することを発見し、橋を架けることに同意します。さて、もし国家があったらどうなるでしょうか? 国家は何をするでしょうか?
国家は「橋の省」を作ります。彼らは橋を架けます。そしてその次にもっと多くの橋を架ける場所を探し始めます。
そして、橋を架ける都市がなくなり、これ以上橋を架けられなくなる時が来ます。
では、ここで国家は何をするのでしょうか?
「水の省」を創設し、橋を増やすために、海を創造するのです。
これが国家です。
こうして「橋の省」「水の省」といった省庁が乱立し、どんどん雇用を作り、権力を蓄積するために部署と依存組織を増やしていきます。
私たちは就任後、省庁の数を半分にしました。これは、このことを意味するのです。
このような国家の政策が行われた社会は、例外なく停滞と衰退に陥りました。そして停滞への“解決策”として常に使われ続けたのは何でしょうか。
それは、さらに国家を大きくし、支出を増やし、税を増やし、通貨を偽造する、ということです。そうして無限ループの国家主義へ陥り、アルゼンチンが2023年末に置かれていた状況にまで至ったのです。
国家は何をしているのでしょうか。
国家はあなたの脚を折り――つまり税を取って――その後で「松葉杖をあげる」と言うのです。その松葉杖は高値で買われ、しかもあなたに感謝するように要求します。馬鹿げています。
まあ、これが私たちの受け継いだもののほんの一例です。
私たちは、自由市場資本主義が国家主義より優れていることを示す歴史的統計データを大量に示してきました。
しかし、それだけでは思想の戦いに勝てませんでした。
なぜなら、国家主義者たちと私たちの違いは“精神的”なものだからです。国家主義者が持ち出す道徳的主張には、同じ次元の道徳的主張で応じなければなりません。これは決定的に重要なことです。これを理解しなければ、私たちは終わりです。
私たちは優れた統治を行えています。最近の選挙でも政治的に圧勝しました。
しかし、文化の戦いをやめることはできません。もし文化の戦いを続けなければ、何が起きるでしょうか。自由主義が4年、8年、12年、16年、20年続いたとしても――国家主義者たちは決して諦めません。なぜなら彼らは他人の血を吸って生きているからです。プロの吸血鬼なのです。
だから彼らは決して働こうとしません。慢性的な怠け者なのです。彼らのインセンティブは常に「他人の血を吸う」ことです。マルクスを思い出してください。彼は子どもたちが働くよりも死ぬことを望んだのです。彼らは他人の財布を食い物にするための正当化を見つけるプロなのです。
善悪や正義不正義の定義を彼らが支配しているなら、統計を振りかざすだけでは不十分です。私たちは道徳の土俵で負けてしまいます。だからそこに踏み込み、勝たなければならないのです。経済成長それ自体が、彼らが言うように「不正義で不平等」ならば、道徳の領域では常に敗北してしまうからです。
私を魅了する一冊の本があります。衝撃を受けた、眩い本です。イズラエル・カーズナー著の『創造性、資本主義、分配正義(Creativity, Capitalism, and Distributive Justice)』です。カーズナーの冒頭からの議論の組み立て方が素晴らしいのです。彼は言います。「自由市場資本主義はより生産的で、より効率的であることは疑いない。だが左派はそれを“不正義”だと言います」。
そしてもっとも重要なのはカーズナーの次の言葉です。「もしその制度が本当に不正義なのだとすれば、どれほど生産的でも、それは擁護に値しない」と。
今日、ここには私の閣僚の多くがいます。お越しいただいたことに感謝します。左派がどう言おうと、史上最高の政府の閣僚たちです。
カーズナーの本の興味深い点はここにあります。
「もし、その制度が不正義なら、養護する価値はない」。
だからこそ私は、最初の閣議でも、そして最近の改造後の閣議でも同じ話をしました。皆さんが選挙で大勝した結果、人員の入れ替えがあったからです。ブリッチリヒ大臣が首都で、ルイス・ペトリがメンドーサで大勝した。……入れ替えが必要になったのです。私はまた話をし直さなければなりませんでした。ミルタ・ルグランが言うように、「同じ話を繰り返すのは、観客が変わるから」なのです。
私たちの目標は、世界で最も自由な国になることであり、そのために一連の目標を掲げています。しかし何より重要なのは、「手段は何でもよい、というわけではない」ということです。私たちは功利主義的に基づいて問題を解決するのではありません。道徳的な根拠に基づいて解決解決します。間違っていることもあるのです。
年初、私たちは「選挙の年だから為替規制を解除しないだろう」と言われました。しかし、解除するための資金が整った時、政治的な功利主義がどう言おうと、道徳的な解決策は、規制を解除することでした。つまり、アルゼンチン国民に自由を返すことです――そしてそれを私たちは実行したのです。
それだけではありません。今年、私たちは8か月にわたる経済プログラムへの絶え間ない攻撃に耐えました。アルゼンチン史上かつてない規模のM2のドル化――M2の42%という、前例のない事態を耐え抜いたのです。投機的な攻撃は410億ドルに上りました。
それでも、見てください。プログラムは揺らがず、アルゼンチンは再び成長しています。
したがって、ウエルタ・デ・ソトが『動学効率性の理論(The Theory of Dynamic Efficiency)』で述べているように、効率と正義は同じ硬貨の両面なのです。正義を効率の祭壇に捧げてはなりません。そんなことはできません。正義を犠牲にするなら、何も効率的ではありえないのです。
つまり、経済学者たちがパレート最適を名目に“介入”を正当化し、「市場の失敗」を是正すると言いながら、その過程で与える損害を無視するような学問分野全体に、根本的な問題があるのです。それは、目の見えない人に色についての話をするようなものです。彼らは現実を前にして、文字通り盲目なのです。
彼らが人間の行動(人間行為)がどう機能するのかを理解できないこと、そして市場が何であるか理解できないことは、私たちの責任ではありません。市場とは、財産権が自発的に交換される社会的な協力のプロセスです。だが彼らは、介入が好きなのです。これが現実です。彼らは権力が好きなのです。騙されないでください。そして権力には金が結びついています。
カーズナーの議論で興味深いのは、ロックの占有原理と、ハイエクの「市場=発見過程」という考えに立脚して、自由市場資本主義がより効率的であるだけでなく、唯一正義にかなう制度であることを示す点です。
だからこそ、私たちは自由の理念を守り抜きましょう。私たちは効率だけを守っているのではありません。正義にかなう制度を守っているのです。
彼らは何と主張するでしょうか。彼らは、資本主義は「必要悪」にすぎない、と主張します。資本主義が成長を生むことは認めても、その成長は不正義で不平等だと言い、だから国家が介入して是正する権限がある、と言うのです。
これは些細な話ではありません。議論のテーブルに載せねばならない、極めて重要なことです。
この2年間、私たちは経済の秩序を回復し、安定化させることに全力を注いできました。これはアルゼンチン史上だけでなく、世界史的にも、最も成功した安定化プロセスです。なぜなら、私たちが「1年で公共部門を調整する」と言ったとき、彼らは不可能だと言いました。「調整できても年にGDP比1ポイントが限界だ」と言ったのです。「任期中に財政均衡の達成など無理だ」と言ったのです。
ところが実際に私たちは、財務省ベースで初月にそれを達成しました。さらに6か月で準財政赤字も解消しました。選挙戦で誰もそこまで言っていなかったのに、です。
そして私たちが、たとえば公共支出を30%減らすような調整を行ったとき、彼らは「景気後退に陥り、失業が急増するだろう」と言いました。
しかし実際は2024年4月ごろに経済は底を打ち、その後に力強く拡大に転じました。季節調整済みのEMAE指標で、12月は2023年を6%以上上回り、実質賃金も上昇しました。そして彼らの予想に反して、私たちは1200万人を貧困から救い出したのです。その過程で「貧困ビジネスの管理者」も排除しました。サンドラ、本当に素晴らしい仕事でしたね。
そして、現実はこうです。私たちは、「調整は可能であり、しかも拡張的になり得る」ことを示しました。どのように? 結局、あらゆる教科書を覆す結果となりました。調整の深さ、スピード、そして何よりもその成果です。なぜなら公共部門を調整するとは、「資源を民間へ返すこと」だからです。そして民間は公共より生産性が高いため、経済は拡大し、繁栄するのです。
そしてこの点を明確に理解しておかねばなりません。
第1四半期、経済は6%近くと力強く拡大し、第2四半期には8%近くへと加速していました。そして5月、マヌエルが戦い抜いて勝ち取った首都での大勝があり、その時インフレは1.5%まで下がりました。
すると、政治が“いつもの手口”を始めたのです。
私たちが多大な努力を払って達成した均衡を破壊しようと、40本近い法律を可決したのです。当然ながらこれはカントリーリスクを上昇させ、金利を引き上げ、貨幣需要の減少を招き、それがその後の数ヶ月でインフレ加速の原因となりました。
しかし、この物語をそのまま語り、「クーカ(キルチネル派)リスク」を認めてしまえば、多くの経済学者は自分たちが失敗し、全てを誤っていたと認めねばならなくなります。だから彼らはクカ・リスクを否定するのです。
カントリーリスクが1500にあったのに、選挙の翌日、魔法のように半分に下がりました。
そして貨幣需要が破壊されていたことを証明する裏返しとして、最近、中央銀行副総裁のウラジーミルが、投機的な攻撃から脱出するまでの全過程、システムがペソからどう離脱したかを公表しました。しかし、ペソからの離脱はあまりにも激しかったため、アルゼンチン経済の貨幣化レベルは前政権の水準をはるかに下回りました。インフレ率は300%に達し、年間17,000%にまで加速する可能性があったにもかかわらず、です。
つまり、貨幣化水準、中央銀行の金融負債は、途方もないレベルにまで低下したのです。個人がドルを買っただけではありません。企業は運転資本を破壊したのです。そして、それほどの事態を、私たちは耐え抜いたのです。
あらゆる試練に耐え抜いたという事実こそ、プログラムの堅牢さを示しています。そして今、復興と成長への道へ歩み始めています。
この点は重要です。なぜなら、経済成長を成し遂げるほどに…実際、私たちは経済成長を3つの柱の上に築いています。まず、治安対策を講じました。かつては年間9,000件もの道路封鎖があったことを思い出してください。ブルリッチ大臣、そして現在はアレハンドラ・モンテオリバ大臣の指導のおかげで、今ではゼロです。インフレ対策も、経済省と中央銀行のおかげで整えました。サンティ(・ロペス・ミゲル)もこの場にいます。そして今、成長段階が始まります。
そして、成長段階には3つの原動力があります。
一つは規制緩和です。規制緩和は収益増大の源泉となり、経済成長を加速させます。フェデリコ・マルコス氏はここにいます。収益増大の立役者であり、1万3000件もの改革を成し遂げました。ありがとうございます。
もう一つの柱は人的資本です。サンドラさん、ありがとうございます。そしてもう一つの柱は開放性です。パブロ・キルノさん、ありがとうございます。彼はサンティ・バウシリ氏と共に中央銀行の”爆弾”処理において重要な役割を果たしただけでなく、今では模範的な外務大臣でもあります。
さて、これらすべてを実行し、経済が力強く成長し始めたら、左派はどうするでしょうか?
左派は必ず「格差が生まれている」と言って攻撃してくるでしょう。
したがって私たちは、その議論に備えなければなりません。そしてそれは道徳的な議論です。私たちは彼らに面と向かって言わねばなりません。「社会正義とは盗人の理屈だ」と。なぜならそれは、法の下の不平等な扱いを意味し、その前提として「盗み」があるからです。だから道徳の戦いに踏み込まねばならないのです。
だからこそ、ファロ財団の活動はきわめて重要なのです。なぜなら、この制度こそが、人類が繁栄し、可能な限り最良の方法で仲間と関わることを可能にするからです。なぜなら、それが最も正義にかなう制度であり、努力の果実がまず努力した者の手元に残ることを保証するからです。
実際、創造主がアダムとイブを追放したとき、次のように告げました。「額に汗してパンを得よ」。他人の額に流した汗によってではありません。盗みは十戒で禁じられています。さらに言えば、「隣人の財を貪るな」とも。
そしてトーマス・ソウェルは言います。「社会正義とは何か。レトリックをまとった嫉妬だ」と。彼は続けます。「いつから嫉妬は大罪でなくなり、美徳になったのか?」。それこそが社会正義なのです。
いわゆる社会正義は、国家権力によってある人から奪い、それを仲間や顧客に配る行為です。極めて不正義です。キルチネル派の場合、それは賄賂を配ることによって行われました。結局それは、票を買う政策にすぎません。体裁が整っているだけで、本質は同じです。
これを理解するには、私たち自由主義者が何を信じているかを理解しなければなりません。私たちは、神が人間に地球全体を与え、人間がそれを管理するために分割したのだと考えます。人間には、神から与えられた自然権があります。自分の身体をどう使うか、自分の労働をどう使うかを決める権利です。これがなければ、人は何も持てません。そしてそれは、額の汗の果実を自分のものとして保持する権利をも意味します。
つまり私たち自由主義者は、私有財産は自然権であり、国家に先立つ契約であり、個人の生活を秩序立て、善悪の明確な区別を示すものだと信じています。それは要するに、私たちの時間の所有に他なりません。
そして国家は、人々の同意によってのみ生じ、人々の間に生じる紛争を処理するために存在します。しかし自由主義者は、国家の権利と権威が個人の自然権に由来することを明確に認識しています。実際、国家の存在が正当化されるのは、私たちが社会として紛争を管理しきれなかったからに過ぎません。
一方、国家主義者は、神は国家だと信じています。国家があらゆる権利に先立ち、個人を好きに踏みにじれると信じるのです。個人の意思と権利は常に「国家の理性」に従属すると信じるのです。ゆえに私有財産は、国家が任意に扱える「偶然的なもの」にすぎないと考えるのです。パンデミックの時に「非常時には権利などない」と言い放った恥知らずがいたのを覚えているでしょう。そういう連中が、今度は別のことを言って人を非難するのです。ここで実際に起きたことです。
彼らは国家が人々の生命、自由、財産に対して何でもできると考えます。人の時間を好きに処分してよいと考えます。そしてそれが、彼らが決める“公共善”のためなら、個人の権利を一方的に踏みにじることは不道徳ではないと考えるのです。彼らは致命的なほど傲慢で、自分たちが人々の効用関数の代表者であり所有者であるかのように振る舞うのです。技術的に言えばまさにその通りです。
そして国家は誤らないと考えます――もちろん「彼ら」が運営している限り、です。ところが、個人の自然権を信じる者が国家を運営し始めると、突然「既得権の侵害だ」と騒ぎ出します。彼らはいつもそうです。自分たちが政権にいないと、相手は民主主義ではない、ファシストだ、ナチだ、と。いわゆる “ad Hitlerum(ヒトラーに結びつける詭弁)”――レッテルを貼って全員を黙らせるのです。
ここに、表層で飛び交う様々な経済的相違の背後にある、道徳的・精神的な違いがあります。そしてここが、彼らの詭弁を解体する鍵なのです。
自由主義者は、人間は自分が所有するもの、つまり自分の身体と労働の成果を真に所有していると信じています。
それに対して、国家主義の”司祭”たちは、私たちは皆、自分の財産の「借家人」に過ぎず、真の所有者は国家であり、国家が“慈悲深く”一時的使用を許しているだけで、気が向けばいつでもそれを取り上げることができる、と考えるのです。
だからこそ、彼らは政権を失うと、直ちに「ファシズムだ」「権威主義だ」と叫び始めるのです。なぜなら彼らは、自分たちだけが啓示された真理を持ち、皆が望む統治をする権利がある、と本気で信じているからです。そして当然、「金庫」を握ることも含めてです。
彼らは私たちを市民としてではなく、自分たちに奉仕する奴隷として見ています。そして権力から遠ざかることは、彼らにとって自由を失うことに等しいのです。だからこそ、社会主義の様々な経済アプローチは失敗するのです。露骨な共産主義であれ、“おしゃれな共産主義”、つまり社会民主主義であれ同じです。
すべての国家主義モデルは、人間から真の所有権を奪い、したがって未来に対する真の責任も奪います。「皆のもの」は、結局「誰のものでもない」のです。ただし、国家体制の支配者だけのものになります。だから彼らは権力の座に居座ろうとするのです。
国家は市民を奴隷に変え、社会を奴隷制経済の問題へ引き戻します。怠惰、無気力、野心の欠如です。
対照的に、人間が自分自身の所有者であり、自分の労働の果実の所有者であると自覚するなら、その行動は法の枠組みの中で可能な限り最良の生活を送ることへ向けられます。なぜなら、「自由」と「責任」は同じ硬貨の両面であり、片方なしにもう片方は存在し得ないからです。
こうして人間は、自分の行為すべてに責任を負うことを自覚します。自分の美徳と弱さ、成功と失敗に責任を負うのです。そして同時に、自分が本当に自由であることも理解します。この「責任ある自由」こそが、人間を創造へと向かわせます。
ゆえに、この世界的局面において自由主義思想を広めることは、国家という堕落した存在が私たちを隷属させてきた奴隷状態から、新たな解放をもたらす偉業です。
経済成長はほとんど完全に、個人が世界で自由に自己実現できるかどうかに依存します。法の保護の下で創造し、革新し、努力と犠牲の果実を自分のものにできると確信していること――それが成長の基盤です。
そして経済成長は、国家を名乗るに足るいかなる国家にとっても、希求すべき目標であるはずです。なぜならそれは、すべての国民の生活の質を継続的に改善することを意味するからです。
しかし、このプロセスを定着させるためには、国家もまた必要な役割を果たさねばなりません。国境を守ること。近隣国による侵害から国民を守ること。マクロ経済の安定を守ること、です。
興味深いことに、私たちが議会へ送る法案の一つには、こうした内容があります。つまり、財源の裏付けのない公共支出を伴う法律――すなわち財政均衡を破壊する法律、あるいは金融均衡を破壊する法律――を制定し、推進し、可決に賛成した政治家は、懲役1年から6年の刑に処されると規定しているです。ポピュリズムによる虐殺は、もう終わりです。
要するに国家は、この神聖な光、この灯台――自由な人間の魂を照らし、労働の所有という自然権を与える光――を守らなければなりません。それを神聖なものとして保護し、隣国の専横からも、そして国家自身の専横からも守らねばなりません。なぜなら、左派が言うように国家の役割が「少数者を守ること」だというなら、個人ほど小さな少数者は存在しないからです。個人は、常に多数者の専制から守られるべきなのです。
この灯台こそが、長期的な繁栄と成長への道徳的な鍵なのです。長い間、西洋が忘れてきた光です。私たちはそれを再び見いださなければなりません。
今日ここにお集まりいただいたこと、そして自由主義思想の普及への皆さまの絶え間ないご支援に、心から感謝申し上げます。どうか素晴らしい年末年始をお迎えください。神の祝福が皆さまにありますように。そして天の力が、私たちとともにありますように。
自由万歳、クソッタレ! ありがとうございました。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2025年12月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。






