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1. はじめに:円安は政策の結果である
日本の為替レートは市場の自然な帰結ではない。現在まで続いてきた円安は、政府と日本銀行による超低金利政策と財政赤字の常態化がもたらした、明確な政策の結果である。円安を「市場が決めたもの」と説明することは、責任の所在を曖昧にするための言い訳に過ぎない。
購買力平価、交易条件、賃金水準、長期的な生産性を総合的に勘案すれば、日本の適正為替レートは1ドル=90〜100円程度と考えるのが妥当である。この水準を大きく下回る円安は、日本経済の競争力を高めるどころか、国民経済に深刻な歪みをもたらしている。
2. 超低金利政策という円安装置
1990年代後半以降、日本銀行はゼロ金利政策、量的緩和、マイナス金利政策、さらには長短金利操作(YCC)と、世界でも例を見ない超低金利政策を継続してきた。この政策の本質は、金利を人為的に抑え込むことで円の魅力を低下させ、資本の海外流出を促すことにある。
金利差は為替レートの最も重要な決定要因の一つである。米国や欧州が政策金利を引き上げる中で、日本だけが超低金利を維持すれば、円が売られ、ドルが買われるのは必然である。現在の円安は、偶然でも投機の結果でもなく、制度的に組み込まれた円安誘導メカニズムの帰結である。
3. 円を刷る「錬金術」と隠れた国民負担
日本銀行が国債を大量に買い入れることで、政府は巨額の財政赤字を低コストで維持してきた。この仕組みは一見すると「財政余力の確保」に見えるが、実態は通貨価値の希薄化による隠れた国民負担である。
円を大量に供給すれば、円の価値は下がる。その結果、円建て所得しか持たない国民は実質購買力を失う。これは増税のように明示されないため政治的には扱いやすいが、経済的には極めて不透明な再分配である。まさに「円を刷る錬金術」と呼ぶべき構造である。
4. 国内への外部不経済:実質賃金の構造的低下
円安が国内にもたらす最大の外部不経済は、実質賃金の低下である。日本はエネルギー・食料・原材料を海外に依存する経済構造を持つ。適正為替レートである90〜100円から大きく乖離した円安は、輸入物価を押し上げ、企業のコストを恒常的に上昇させる。
企業はすべてを価格転嫁できず、結果として賃金は抑制される。名目賃金がわずかに上昇しても、物価上昇に追いつかず、実質賃金は下落する。この構造が長期化した結果、日本は「失われた30年」、いや「失われた35年」を経験することになった。
5. 国外への外部不経済:通貨価値のダンピング
円安は国内問題にとどまらない。適正水準を大きく下回る為替レートは、国際的には通貨価値のダンピングと同義である。円を安く調達し、ドルやユーロに転換した主体は、為替差益を通じて価値を獲得する。
その一方で、日本の資産や企業は割安に評価され、海外資本に買収されやすくなる。これは自由貿易の結果ではなく、超低金利政策が生み出した歪んだ競争条件である。円安は、国際社会に対しても外部不経済を輸出している。
6. 対外純資産世界第2位の錯覚
日本が対外純資産残高で世界第2位にあることは事実である。しかし、それは国民生活の豊かさを示す指標ではない。むしろ、国内で消費されるべき価値が海外に蓄積された結果と解釈すべきである。
超低金利と円安の組み合わせは、国内投資よりも海外投資を有利にし、資本を国外へと押し出してきた。対外資産が増える一方で、国内では賃金が上がらず、地方経済は疲弊し、人口減少が加速している。この乖離こそが、日本経済の最大の病理である。
7. 結論:正常な為替と金利への回帰こそ再生の条件
日本経済に必要なのは、さらなる金融緩和ではない。適正為替レートである1ドル=90〜100円を視野に入れた通貨価値の正常化と、超低金利政策からの段階的な脱却である。金利は市場機能を回復させ、為替は購買力と生産性を反映する水準に戻すべきだ。
円安を成長戦略と誤認し続ける限り、日本は実質所得の低下と国力の空洞化から逃れられない。通貨は国家の公共財であり、その価値を守ることは政府と中央銀行の最も基本的な責務である。円安という静かな錬金術に終止符を打ち、国民経済の再建に舵を切る時は、すでに来ている。
編集部より:この記事は、山形大学教授・田北俊昭氏のfacebook投稿を転載させていただきました。






