高市首相の普通の国という言葉が、一部のマスコミで話題になっている。憲法を改正して戦争のできる国になるというのは彼女のオリジナルではなく、自民党の幹事長だった小沢一郎氏が1991年に使った言葉である。それから35年、小沢氏はついに議席を失った。
今回の厳しい結果は、ひとえに私自身の力不足によるものであり、謹んでお詫びを申し上げます。
これまで私に期待を寄せ、変わらぬご支援とご声援をお寄せくださった全ての皆様方に、改めて深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
令和8年2月9日
小沢一郎— 小沢一郎(事務所) (@ozawa_jimusho) February 9, 2026
グランドキャニオンの柵
小沢氏は海部首相が辞任したとき、後継首相に党内で一致して推されたのを断った。当時49歳で党内の実権を握り、まだ何度でもチャンスはあると思ったのだろう。彼の持論は、自民党の福田派と田中派の流れが二大政党として政権交代を実現する保守二党論だった。
彼は政治改革で主導権をとり、中選挙区制に固執する左派を追い出すつもりだったが、竹下派内の権力闘争に敗れた。しかしこれをきっかけに自民党を離党し、「政治改革」をとなえて細川内閣をつくり、念願の小選挙区制を実現した。
ここまでは小沢氏のギャンブルは大成功で、彼の著書『日本改造計画』は、サッチャー・レーガン以来の「保守革命」を受け継ぐものとしてベストセラーになった。その序文に、彼はグランドキャニオンを訪れたときの印象をこう書いている:
国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ柵が見当たらないのである。もし日本の観光地がこのような状態で、事故が起きたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、その観光地の管理責任者は、新聞やテレビで轟々たる非難を浴びるだろう。
政府や企業に頼らないで「自己責任」で生きるという彼の政治哲学は、自民党政権の崩壊後の日本のビジョンとして鮮烈な印象を与えた。それはバブルが崩壊して公共事業の財源が尽きた90年代に、英米のあとを受けて日本も小さな政府に舵を切る宣言だった。
自民党が汚れ役を引き受け、社会党がきれいごとを言って責任をとらない55年体制は「出来レース」だと小沢氏は批判し、日本は憲法を改正して「普通の国」になるべきだと主張した。英エコノミスト誌は彼の論文を掲載して「日本にわれわれの理解可能な指導者が初めて登場した」と賞賛した。
実際には『日本改造計画』の中で小沢氏の書いたのは序文だけで、内容は大蔵省の香川俊介課長(のちの事務次官)が編集長となり、竹中平蔵氏や伊藤元重氏などが書いていた。そこに書かれた「小さな政府」を求める政策は、当時の経済学者のコンセンサスに近く、消費税を10%に引き上げると書かれていたのだ。
迷走に次ぐ迷走
しかし細川内閣は、10ヶ月足らずの短命政権に終わった。これが小沢氏の挫折の始まりだった。このとき彼は渡辺美智雄グループを自民党から引き抜こうとしたが失敗し、羽田内閣の崩壊後、村山内閣で自民党の復権を許してしまった。海部俊樹氏を党首に担ぎ出して自民党を分裂させようとした奇策が、自社さ連立という奇策に裏をかかれたのだ。
高市早苗氏は、新進党が住専への公的資金投入を阻止する座り込みをやったとき、それに参加した(前列右端)。当時はネトウヨのきらいな「新自由主義」だったわけだ。

住専処理法案に反対する新進党の座り込み
小沢氏の最大の失敗は、1997年末に突然、新進党を解党したことだ。このときも小沢氏は、亀井静香氏や梶山静六氏などと保保連立を画策し、それが党内に亀裂を生んでミニ政党が次々に新進党から離れ、公明も「公明党」に戻ることを決めたため、保守勢力を純化しようと自由党を結成したが、結果的には小沢氏についてきたのはわずか54人だった。
そこで彼は1999年に、「自自連立」を仕掛けた。このときは前年の参院選で自民党が過半数を割り、「ねじれ国会」になったため、かつての仇敵、野中広務氏と手を結んで自民党と連立を組んだが、自民党を割ろうという小沢氏のねらいは実現せず、逆に公明党を呼び込んで与党の絶対多数を回復してしまった。
そして2003年に自由党は民主党に合流し、その代表になったが、政権を目前にして政治資金規正法にからんで辞任を余儀なくされた。その後はまた民主党内で派閥抗争を繰り返し、消費税の増税に反対して党を分裂に追い込んだ。
「小さな政府」は今も重要だ
このように小沢氏の軌跡をたどってみると、90年代までは一貫して「普通の国」をめざす右派だったが、それが新進党の失敗で混乱したことがわかる。自民党の打倒を唱えながら保保連立を画策する彼の矛盾した行動の背景には、自民党が分裂しない限り安定した二大政党はできないという信念があった。
それはそれなりに筋の通った政治理念なのだが、彼はそれをいつも側近で固めて裏取引で合従連衡する奇策で実現しようとし、その独善的な体質が反発を招いて、失敗を重ねてきた。それでも自由党のころまでは「ぶれない政治家」として一定の支持があったが、民主党に合流してからはその一貫性も失った。
かつては右派だった小沢氏が迷走したあげく左派になってしまったのは、小泉政権の後である。90年代に彼の掲げていた政策は小泉首相が実現し、彼の勉強会のメンバーだった竹中氏は、小泉政権の経済政策を実質的に決めた。
小沢氏は、それに対抗して民主党に合流した。私が民主党代表だった小沢氏にインタビューしたとき、「グランドキャニオンの考えは今でも同じですか」ときいたら、彼は即座に「まったく変わっていない」と答えたが、その政策は(かつて彼が否定した)バラマキ福祉だった。
小沢氏にとっては権力を取ることが目的で、政策はその手段だった。90年代には「新自由主義」がはやったので流行に乗ったが、それは身についていなかったのかもしれない。その後は民主党の「大きな政府」路線に合流し、その後も迷走を続けた。
しかし小沢氏が35年前に提起した問題は、当時より重要になっている。憲法を改正して軍備をもつ「普通の国」になり、膨張した社会保障支出を減らして「小さな政府」になることは今も日本の最大の課題である。しかしかつて新進党にいた高市首相は、積極財政と称する「大きな政府」になってしまった。
この35年の政治の迷走の最大の原因は、小沢氏にあったともいえる。今回の総選挙で彼が「普通の国」を阻止する立場の中道改革から出馬して落選したことは象徴的である。大惨敗で「焼け跡」になった中道改革をリセットし、「小さな政府」の党に生まれ変わらせることは不可能だろうか。







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