
私は10年以上、精神科病棟で日常的に看取りをしている。統合失調症の長期入院患者、認知症、腫瘍患者と、終末期の現場には事欠かない。その経験から一冊の本も書いた(『精神科病院で人生を終えるということ』)。
その上で、はっきり言う。
今の日本で、ACPは機能していない。
理由は一つだ。
人は、自分の死を具体的には想像できない。
「人生会議」はなぜ普及しないのか
ACPが社会的に知られるようになってから久しい。芸人の小籔氏のポスターが炎上したのは2019年のことだが、あの炎上が示したのは「ACPを知っている人が一定数いる」という事実だ。それでも普及しない。この一点が、ACPの本質的な限界を物語っている。
私は物忘れ外来を担当している。認知機能の低下が始まった患者に診断を伝えながら、いずれ来る終末期について話す機会がある。認知症の診断後の経過は個人差が大きいが、長期にわたる緩やかな機能低下の末に看取りを迎えることになる、というおおよその見通しは伝えることができる。その際に「今から終活を考えてほしい」と言うと、露骨に嫌な顔をされる。「その時になったら考えます」と。80代後半でも、そう言う。
2021年9月、コロナ禍の最中に西本願寺で終末期についての講演をした機会がある。終活に関心を持つ人々が集まり、胃瘻・気管切開・延命治療の話まで、真剣に聞いていた。ところが私が「あなたがコロナに感染しました。どこまでの治療を望みますか」と問いかけた瞬間、全員の顔が曇った。コロナ禍の最中だ。全く他人事ではない、現実の問いだ。しかしその質問は、議事録には残らなかった。
生々しすぎたのだ。
これが核心である。遠い抽象的な「死」は仮想的に考えられる。しかし目の前にリアルに迫った死からは、人は目を逸らす。これは弱さではなく、ほぼ普遍的な人間の性質だ。少なくとも私が日常診療で接してきた患者と家族には、この傾向が強く、一貫して見られる。
事前意思は「現場」で機能するか
仮に終末期に関心を持ち、ACPを記したとしよう。それでも、そこに実効性はほとんどない。
終末期とは一瞬ではない。徐々に忍び寄り、生と死が長期にわたって共存する過程だ。そしてその過程は、元気な時に想像したものとは根本的に異なる。
典型例が誤嚥性肺炎だ。嚥下機能が衰えると、食物が食道ではなく気管に入り肺炎を起こす。これが繰り返されると、いよいよ終末期と判断したくなる。しかし一回ごとは「治る」のだ。絶食・点滴・抗生剤・酸素で大抵は改善する。その状態の患者は、会話もでき、笑いもする。昔話もできる。
その人に向かって家族は言えるか。「以前、延命治療はしないと言っていたから、次の肺炎では治療をやめましょう」と。目の前で笑っている人に。
言えない。そして、言えない家族が間違っているわけでもない。
もう一つ、避けられない問題がある。認知機能が低下すると、元気な時に語っていた価値観と、その場での苦痛回避や生きようとする反応とが、ずれて見えることがある。理性的に「治療をやめてほしい」と言い続けられる人は極めて稀だ。元気な時に「延命はしない」と言っていた人が、介護に抵抗して「殺す気か」と言ったとする。それは生きる意思か、苦痛への反応か。その判断を誰がするのか。
ACPが想定する「本人の事前意思」は、こうした現実の前に容易に溶ける。
終末期を決めるのは誰か
はっきり言おう。終末期の実務で最終的に問われるのは、
その場に立ち会った家族の「覚悟」である。
本人の事前意思だけではない。
命は本人のものだ。これは原則として正しい。しかし、自力で食事も摂れず、意思表示も困難になった人の命の行方を、現実に決めることができるのは、傍らにいる者以外にない。それは本人の意思をできる限り想像した上での判断でもあるが、同時に、今この瞬間に死に瀕している人の苦しみと尊厳について、目の前で考え抜いた結果でしかありえない。
そうであれば、ACPの真の意義は「本人の意思を固定すること」ではなく、「家族が覚悟を形成するためのプロセス」にある。ACPを行うこと、それ自体は否定しない。やっても良い。ただ、それをやることで「終末期が適切に決まる」という期待は、現場の実態から大きくかけ離れている。
問題の根は「命の安売り」にある
では、家族が覚悟を形成するために、社会に何ができるか。ここで私は、不快に聞こえるかもしれない提案をしよう。
終末期医療の自己負担を、現実のコストに見合った水準に引き上げることだ。
もちろん、緩和ケアや基本的な看取りの医療まで自己負担を重くしろと言っているのではない。問題にしているのは、回復可能性が乏しい延命処置が、家族にとってあまりに低い自己負担で選択できてしまう現状だ。
現行制度では、胃瘻・中心静脈栄養・気管切開といった延命処置にかかる医療費の自己負担は極めて低い。高額療養費制度によって月数千円に抑えられることもある。つまり、延命を選択することの心理的コストは、ほぼゼロに近い。
コストがゼロであれば、家族は「とりあえず続けよう」と決断を先送りしやすい。何もしないことへの罪悪感を避けるため、あるいは惰性のまま、延命が選ばれることがある。その結果として生じるのが「苦しい終末期」だ。
ここで「それは貧しい家族を追い詰める論理だ」という反論が出ることは承知している。しかしよく考えてほしい。現行制度は本当に平等か。実際の終末期医療にかかるコストは確実に発生しており、そのほとんどは保険料と公費で負担している。家族の自己負担が低いことは、コストの消滅ではなく、不可視化にすぎない。私は、金で命の価値を測れと言いたいのではない。むしろ逆だ。命にかかわる選択の重みを、制度が見えなくしてしまっていることが問題なのだ。
一定の自己負担が生じた時、家族は初めて問いに向き合う。「この治療に、今の父の苦しみに見合う意味があるか」と。これは冷酷な問いではない。むしろ、これこそが終末期に本来なされるべき問いだ。金銭的負担が可視化されることで、その問いから逃げにくくなる。
「苦しい思いをしてまで生きたいとは思っていなかったはずです」という言葉は、この問いを経た後に出てくる。それは諦めではなく、覚悟だ。
かつては「寝たきり大黒柱」といった言葉まで生まれた。実態として多数派ではないにせよ、制度が歪んだインセンティブを生む余地を持ってきたことは否定しにくい。延命という行為に実際の費用がかかっているにもかかわらず、それを公的負担で不可視化することは、結果として命を「安売り」することに等しい。安売りの中では、命の重さに対する正しい感覚は育たない。
命の価値を取り戻せ
ACPでは終末期は決められない。事前に書いた意思は、現実の死の前では参考程度にしかならず、最終的に決めるのはその場に立たされた家族の覚悟だ。
ならばACPより先にすべきことがある。家族が覚悟を持てる環境を整えることだ。終末期医療に適切なコスト感覚を取り戻すことだ。人生会議を広める前に、終末期の選択が「コストゼロの惰性」で流れない制度設計を議論すべきだ。
日本の終末期医療の問題は、文化の問題である以上に、制度が命の値段を隠してきた問題である。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2026年4月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。








コメント