
終末期医療には、見過ごされている構造的な問題がある。 延命治療を始めるかどうかは、一応、家族と医師の間で議論がなされる。しかし一度始めた後に、立ち止まって再評価し、やめるかどうかを考える制度的な節目が、現在の日本には存在しない。 これが問題の核心である。
前回の記事で述べた通り、ACPはこの問題を解決しない。人は自分の死を具体的には想像できないからだ。

最終的に終末期の判断を左右するのは、その場に立ち会った家族の決断である。そしてその決断を歪めているのが、延命治療にかかる自己負担の低さだ。
本稿では、その構造を変えるための具体的な制度を提示する。私は精神科病棟で10年以上、統合失調症の長期入院患者や認知症患者の看取りに日常的に関わってきた(詳細は前稿を参照されたい)。
一つの試案ではあるが、現場の経験から、かなり納得感が得られると自負している。
提案の骨格
端的に言う。
終末期(自力摂食困難な高齢者)の胃瘻・経鼻栄養・中心静脈栄養は、保険適用を2ヶ月までとする。
以降に処置を継続する場合は自費診療とする。
脳血管病変や腫瘍術後など、加齢以外に原疾患があり短期・中期的な改善が見込めるものは、これまで通り保険適用で良い。問題は、不可逆的な加齢性変化による嚥下困難である。
判定は主治医単独ではなく、多職種カンファレンスを基本とし、必要に応じて第二の医師の確認を要するものとする。具体的な運用基準は専門家による議論に委ねる必要があるが、家族への十分な説明と同意のプロセスを経ることは絶対の前提だ。
嚥下機能とは生命維持の根幹をなす機能である。食物や唾液が気道から肺に流入するのを防ぐ、この機能が失われれば、医療的介入なしに生きることはできない。そして原疾患があるわけでもないのに加齢によって嚥下機能が衰えているということは、認知機能・運動機能など他の機能も同時に衰えていることがほとんどだ。一般に、自力摂食ができなくなった時が寿命、という意見が少なくないのは、そのような根拠があるからである。
本人が処置の継続を望む意思を示す場合は、それを尊重して続行で良い。たとえ十分な意思決定能力がない状況であっても、本来は苦痛を伴うはずの処置を本人が受け入れ、あるいは求めているのであれば、それは生きようとする意思として汲み取るべきだ。しかし現実には、ほとんどの場合、本人は明示的に処置を望まないか拒否するか、あるいは意思表示そのものができない。
なぜ2ヶ月か
2ヶ月という期間は、二つの観点から臨床的に妥当と考える。
医学的な改善可能性の判断に要する観察期間と、家族が終末期の現実を受け止めるための心理的準備期間だ。
厳密な閾値については専門家の間でさらに議論の余地があり、2〜3ヶ月の幅で設定されるべきものかもしれない。ただ、その程度の猶予期間が必要であるという点は、終末期医療に携わる臨床家の多くが同意するところではないかと思う。
一見、加齢性の不可逆な変化に見えても、実は可逆性の病態である場合がある。小さな脳梗塞が起きていた場合、一時的に認知機能や身体機能が衰えることがあるが、改善しうる。実際に私が経験したのは、70代後半の男性で認知機能が低下し著しい食思不振となったため家族に終末期の可能性を説明したが、2ヶ月後に著明に改善したケースである。
MRIで検知困難な程度の脳梗塞があった可能性が高い。感染症とその後遺症で身体機能が落ちている場合も同様だ。高齢者では原因が判然としないことも多い。だから、最低2ヶ月の観察期間には臨床的な合理性がある。
もう一つの理由は、家族が再判断するための時間である。終末期についての具体的なイメージは、一般の方には想像がつきづらい。話だけ聞いているのと、現実を目の前にするのとでは、印象も考えも変わる。むしろその方が自然だ。瞬時に決断を迫られたら、落ち着いた判断はできない。家族間で意見が分かれることも現実にはあるが、2ヶ月という期間はその調整のための時間としても機能する。
現状の制度では、一度始めてしまえば、よほどのことがない限りやめる機会を失う。たくさんの管に繋がれ意思表示も乏しい家族を前にして、積極的に延命を中断する動機は持ちにくい。その最大の要因が、医療費自己負担の低さがもたらす再判断の契機の欠如である。
しかし、ここで2ヶ月後に自己負担へ切り替わる制度があれば、家族には決断の節目が生まれる。終末期の実情を目の当たりにしながら考えをまとめる時間が得られる。本人が本当にこれを望んでいるのか、問い直す機会となる。現行制度にはこの節目がない。それが問題なのである。
延命を中止したらどうなるか
2ヶ月後に自費とする理由を述べる前に、延命治療を中止した場合の経過を概説しておく。ここで言う延命処置には、人工呼吸器やECMOなど、中止すれば数時間で命が尽きるものは含まない。それらは今回の検討対象ではない。問題としているのは胃瘻・経鼻栄養・中心静脈栄養といった非緊急的処置である。
大雑把な目安として、人間は水分を摂取しなければ1〜3日しか生きられない。しかし水分さえあれば食事がなくても概ね1ヶ月は生きられる。細かい専門的議論の余地はあるが、まずはこう理解してほしい。
胃瘻を中断したとする。十分なカロリー摂取は難しくなるが、飲水や点滴で1日1500ml程度の補水ができれば、まだ1ヶ月程度の猶予がある。胃瘻中断が即、死を意味するわけではない。この期間に経口摂取を再試行することも可能だ。誤嚥を恐れて中断していた経口摂取を再開してみると、意外と食べられる場合もある。その場合はより長期の生存が可能であり、終末期という判断が誤りだった可能性を実際に試すことができる。
残念ながら、そのようなケースは多くない。多くの場合、即時に誤嚥を起こすか、しばらく持ちこたえても1ヶ月ごろに誤嚥性肺炎を起こす。その際、家族は再度、延命処置をするか否かを考えることになる。
しかし今度は、最初の時とは状況が違う。すでに2ヶ月の延命治療を見た後だ。どのような状態かはよく理解できている。延命をやめた場合の経過も理解できている。
これが、制度的な節目として2ヶ月が機能する実質的な意味である。
なぜ自費なのか
その上で延命治療が必要と本当に思うのであれば、自費で行うことは可能である。公的保険は本来、治療・症状緩和・機能維持など、本人に直接的な医療上の利益をもたらす介入を中心に設計されている。不可逆的な加齢による嚥下機能の喪失に対する無期限の栄養補給は、その範疇に収まらない。
これは選定療養や美容医療が保険外とされているのと同じ、給付範囲の合理的な線引きの問題である。経済格差の問題ではない。
費用は処置内容や施設によって異なるが、概ね月30〜60万円程度となる。現行制度ではその負担がほぼゼロに近い水準に抑えられており、結果として再判断の契機が生まれにくい。
月30〜60万円を自費で払ってまで望まれる延命治療であれば、本人にとっても不幸な状況とは言えない、と私は考える。家族がその人の命をそのままの価値として担う意思と希望があるからだ。
なおこの問題は、日本でも既に議論の俎上にある。日本老年医学会は2012年の立場表明で人工的栄養補給を行わないことも選択肢と明示し、厚労省の2018年改訂ガイドラインも本人意思と家族の合意形成プロセスを重視している。国内外ともに、人工的栄養補給を無条件に継続すべきものとは考えないという方向性は共有されている。
本稿の提案はこうした流れと方向性を同じくしつつ、日本の現行保険制度の中で実現可能な具体的な線引きを示そうとするものだ。
延命治療の再開を決断するまでの間の治療は保険適用で良い。必要な過程であり、さほど長い期間でも高額な費用でもない。家族と本人の終末期を支える費用として、公的負担に値するものである。
制度が倫理をつくる
この制度が広まっていけば、自然な終末期の倫理観が国民全体に醸成されていくと確信する。
2ヶ月という節目を前に家族に寄り添う期間は、フラットに冷静に終末期について考えることができる時間だ。日本人にはその洞察に十分耐えうる知性があると私は信じている。そして、この制度があることで事前に終末期を考える解像度も必然的に上がっていき、それが国民全体の倫理観の深まりに繋がるだろう。
命にかかわる判断を、ほとんどコストの自覚もないまま先送りし続ける今の制度こそ、私は不誠実だと思う。 延命治療は生存権ではない。それは、制度が作り出した惰性である。
適正な節目を持つ、健全で倫理的な最低限度の終末期医療の実現を、切に願う。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2026年4月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。







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