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「根拠と言えるものではない」のはしご外し
筆者は、昨年『コロナ対策の政策評価』を上梓した。拙著の帯には「接触8割削減の科学的根拠を問う」と書かれており、6年前の2020年4月7日に緊急事態宣言が発出された際に、感染症数理モデルの分析に基づき感染症専門家が提言した対策の妥当性を検証している。このモデルを計算したのは、「8割おじさん」と呼ばれることになった西浦博京都大学教授である。
今年1月22日付の朝日新聞朝刊に、西浦教授を取り上げた記事が出た。記事では、
「西浦さんは数理モデルを駆使して、感染の広がりを予測。政府の専門家会議に参加し、感染拡大を防ぐには人との接触を8割削減することが必要だと説いた。」
と紹介されている。多くの人がこのようなイメージをもつと思われるが、そのイメージに少し異論を唱えてみたい。
朝日新聞記事は西浦教授のコロナ対策への発信を全肯定するのではなく、「国民の危機意識を高めた一方で、経済的な影響への不安と相まって反発も招いた。」とのべて、バランスをとろうとしている。しかし、ここで着目したいのは、そうした異論ではなく、このイメージが西浦教授自身の発言と食い違っていることである。
西浦教授は2025年8月のインタビューで、接触8割削減を主張した際に使用した数理モデルの分析について、
「この政策シナリオは厳密には根拠と言えるものではないかと思います(「背景理論」と表現できる程度ではないでしょうか)。その背景理論は、基本再生産数(R0)=2.5等々の一定の仮定の下で、対策によって流行動態がどう変化するのかを「トイモデル(簡易的な計算モデル)」で計算した、というだけのものです。」
と語っている。つまり、西浦教授がおこなった計算が接触8割削減の根拠となったように思われているが、当の本人は、根拠と言えるようなものではないと言っている。
感染症専門家の助言を受ける政府側の発信を見ると、この分析が根拠と認識されていたと考えられる。一般市民や企業が外出自粛、リモートワークなど不便を被る対策に協力したのは、科学的な根拠が示されていると思ったこともあるだろう。別に根拠を示してもらわないと、根拠はなかったことになる。根拠と受け取った側から見ると、この発言はかなり壮大なはしご外しである。
接触削減は、はじめての緊急事態宣言の発出とともに改定された基本的対処方針に記載された。基本方針が改定される際には、有識者で構成される諮問委員会に諮問することが定められている。委員会に諮問された政府案には接触削減の数値目標は入っておらず、会議の場で尾身茂委員長(当時)が「最低7割、極力8割」の接触削減を提案し、これが政府の対策に採用されることとなった。会議の場では、尾身氏と委員の押谷仁東北大学教授から西浦教授の分析が説明され、委員長の提案が支持を得た。
政策決定の岐路となったこの委員会の前夜に、尾身氏は西浦教授に電話をかけ、「感染を1か月である程度収束させるにはどうしても8割削減が必要なのですよね?」とたずね、西浦教授は「そうです」と即答したそうである(尾身『1100日の葛藤:新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録』2023年、日経BP、73頁)。
もしこのときに「この政策シナリオは厳密には根拠と言えるものではないかと思います。トイモデルで計算した、というだけのものです」と尾身氏に答えて、諮問委員会でもそのような説明がされていたら、どうなっていたのだろうか。
コロナ対策でおこなわれた強い私権制限については賛否の議論があるが、その前に数理モデルによる分析をある程度注意深く見ることによって、感染症専門家の提言の本当の内容を知ることが重要である。
拙著『コロナ対策の政策評価』の第Ⅰ部はその作業をおこなっていて、じつは西浦教授のインタビューも、拙著での指摘がひとつの契機となっている。2回に分けて拙著の作業の一部を紹介したい。
7割削減でも目標の達成を確認できる
拙著では、接触削減の分析を検討して、「政府に対しておこなわれた助言は科学的に正しいものとはいえず、不幸なことに接触8割削減は科学的根拠に基づくものではなかったと言わざるを得ない」と書いたので、根拠がなかったとする点で結論は同じである。ただし、そこに至る過程は違いがありそうなので、拙著の考え方を以下で紹介したい。
2020年春の緊急事態宣言発出時でのひとつの重大な選択は、接触削減割合だった。緊急事態の期間は1か月とされていたが、その期間内にクラスター対策が可能となるように、1人当たり新規感染者数が100人を下回ることを確認することが目標とされた。モデル分析では7割削減ではその目標の達成が確認できないが、8割削減では可能だという結果だったことが、感染症専門家が8割削減を主張した根拠となった。
図は、西浦教授が4月3日(上)と4月9日(下)に発表したグラフを示したものである(ただし、上図は筆者が再現したもの、下図は4月22日の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の提言に掲載された、同種の図による)。
このグラフは、接触削減したときの新規感染者数の動きを示すものとされている。上は8割削減と7割削減、下は8割削減と6.5割削減を比較したものである。
両者に共通する8割削減を見ると、2つのグラフで動きが大きく違っている。上図では接触削減を開始したところで新規感染者数は垂直に降下するが、下の図ではそのようなことは起こらず、連続的に低下する。

図(上) 2つの接触削減のシミュレーション
出所:NHK、日本経済新聞社で報道されたグラフの筆者による再現。

図(下) 2つの接触削減のシミュレーション
出所:「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議、2020年4月22日)
どうして違う結果になるかと言えば、違うモデルで計算されたからである。政府が8割削減の根拠として使用していたのは下の図である。西村康稔新型コロナウイルス感染症対策担当大臣(当時)はこれらの計算にはSIRモデルが使われたと国会で答弁しており、多くの人がSIRモデルを使っていると思っていた。しかし、昨年、このグラフがSIRモデルではなく、別のモデルで作成していることが一般に向けて明らかになった。
この別のモデルには、大きな問題がある。「人と人との接触を抑制する」ことが感染症対策の基本となっているのは、経済社会活動での接触機会と新規感染が関係をもつことが大前提である。
SIRモデルでは両者が比例関係にあるものとして定式化され、接触を8割削減すれば、新規感染者数が8割減少することが数値的に想定されている。接触削減の分析では削減開始時に瞬時に8割減少すると想定されていて、上の図のように新規感染者数も瞬時に8割減少する。
ところが、政府内での検討に用いられたとされる下の図を計算したモデルではそうなっておらず、接触削減をした時点での接触と新規感染の関係が壊れてしまう。その結果、「接触を減らせば感染が減る」という政策の前提とモデルの構造の間に論理的な断絶が生じ、対策の根拠が自己矛盾を起こす。
SIRモデルで接触削減の効果を分析すると、このような自己矛盾は起きないが、結果は違ってくる。政策過程の研究が関心をもつのは、この違いが意思決定にどの程度影響を与えるか、である。もしSIRモデルを用いても大筋で8割削減が必要とされるのであれば、そこまで大騒ぎする必要はないかもしれない。
拙著では、接触と新規感染の関係に標準的な考え方を入れたモデルを用いて、8割削減と7割削減を比較した。すると、接触7割削減の場合でも、1か月以内に新規感染者数を目標水準まで低下したことを確認することが可能であり、8割削減でなければならないという結論にはならない。以上より、コロナ対策における数理モデルの活用は画期的であった一方で、整合性に欠けるモデルを使ったことが政策判断に影響を与えたことがわかる。
次回は、モデルだけでなく8割削減を推奨する説明にも問題があることを見ていく。
(次回に続く)








コメント
ここに示されております西浦教授の言葉と、これに対する岩本氏の解説は、一見正しいようにも見えますが、西浦氏の趣旨は、「厳密さに欠けるモデルであった」というもので、実際問題としてこの時点での対応を立案するには、西浦氏のいう「トイモデル」で十分であったように私には思われるのですね。
なにぶん、この時点では、コロナの伝搬を予測する精密なモデルなど存在しない一方、コロナ禍は特に欧米で急速に拡大しており、イタリアでは医療機関が対応不能に陥り、犠牲者が多すぎて墓穴を掘るのが追い付かず、棺桶の山が築かれておりました。
日本では、欧州と異なる弱毒性のコロナの感染が広がっていたのですが、この時期になりますと、欧州型の感染力の強いコロナ株が日本に流入しておりました。2020年3月29日には、タレントの志村けんさんがコロナで亡くなり、コロナの恐ろしさが多くの日本国民に意識され始めていたのですね。
ここで西浦氏の言っておられる「トイモデル」は、確率過程(日本の対応する学界はOR学会:オペレーションズ・リサーチ学会)でいう「分枝過程(ブランチングプロセス)」としてよく知られたもので、疫病の伝搬以外に、核分裂やレーザの誘導放出といった物理現象の記述や、新製品の普及や情報の拡散などの社会現象の記述に使われております。
分枝過程は、独立にある確率で自然発生する個体と、他の固体の影響によって発生する個体(その数と発生までのタイムラグは一定の分布で与えられる)によって現象を記述するものです。
コロナの場合は自然発生がなく、人から人への感染のみで記述される単純なモデルで、タイムラグは5日、対策が打たれていない状況下である個体によって発生する個体数(基本再生産数)は、ヨーロッパの実績から2.5と推定されておりました。
容易に予想されるように、感染者一人が一人以上の新たな感染者を生む場合、感染者数はどんどん増大します。感染を避けるためには、人と人との接触を断てばよく、基本再生産数2.5を1以下にするためには、0.4以下の値を乗じればよい。すなわち、接触を6割以上減らせば再生産数は1以下となって、感染は収束に向かうのですね。
ちなみに、6割という数字を8割にした根拠として、西浦氏は「いうことを聞かない人がいるから」と述べておりますが、減少速度を大きくするには、再生産数は1よりも小さければ小さいほど良い。再生産数の目標を1.0ではなく0.5にするという考え方は、いわゆる「安全係数」という観点からも、妥当なものであるように思われます。
もちろん、実際の感染拡大は、こんな簡単な話ではありません。第一に、感染者が生む感染者数は人によって大きく異なり、特に多数に感染させる「スーパースプレッダー」の存在が、感染拡大に大きな影響を与えます。また、マスクの着用や三密防止などの様々な対応も再生産数の減少に寄与したでしょう。しかし、これらの影響を精密に見積もることは難しく、実行可能解として簡単なモデルが使われた。これを西浦氏は「トイモデル」と表現したのでしょう。
アゴラにも寄稿されております篠田英朗が2020年04月05日に書かれた「科学者のご神託とビッグデータ」には興味深い一節がありました。https://shinodahideaki.blog.jp/archives/34856553.html
詳細は上のリンクをご参照いただきたいのですが、Googleがコロナ下の東京、ニューヨーク、カリフォルニアの人的移動を計測した結果、自粛要請にとどめた東京の人的移動の低下が約60%と最大になっているとの結果です。ここでも、コロナ対策の程度を示すパラメータとして、接触の低下を取り上げているのですね。
結局のところ、このような非常事態にあっては、精密な科学的モデルなどによる評価は困難で、それが簡単な「トイモデル」であっても、迅速な感染拡大予測と対策の妥当性見積もりができれば、それで十分ということでしょう。
そして、結果的に我が国の犠牲者は抑えられた。この「トイモデル」、効果は絶大でしたし、トイモデルを使おうという判断も極めて適切であったということができるでしょう。
上の数字の興味深い点は、職場などを除く、不要不急と思われる外出が日本ではおよそ60%の減少を示しているという点です。8割減を目標として6割減が実現する。西浦氏の安全係数(さばよみ?)も絶妙な値でした。そして、不要不急の外出に対する6割程度の減少で感染が押さえられた原因は、マスクや手洗いや三密防止などの他の対策も奏功した結果と考えられ、我が国の様々な部署での対応が、総合的に効果を発揮したものと思われます。ここは、素直に評価したらよいのではないでしょうか。