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X(twitter)に自動翻訳が導入されて以降、海外勢と日本勢のあいだで漫画の海賊版論争が起こっている。
海外勢が海賊版をそれほど悪いこととは思っておらず、ファン活動の一環で宣伝になっているという意識でいるのに対し、日本側は海賊版は著作権者の利益を奪う窃盗行為に等しく、それを正当化するのは言語道断と憤激する。対立は激化しており、ヘイトスピーチすれすれの状態になった。
本稿はこの問題を整理するとともに、解決へ一つの提案として、著作権団体にキャンペーン方法の変更を提案する。すなわちキャンペーンの方法を海賊版を泥棒と非難するのではなく、推しを応援しようという形に変えるよう提案する。
1. 海賊版問題は簡単ではない
まず、海賊版問題は簡単ではない。これは著作物が物財ではなく情報財で、いくらでも複製可能・共有可能なためである。情報財は創作の誘因を考えなくてよければ無料で共有されたほうが良い。しかし、それでは創作者の売上がゼロとなり、創作の誘因が確保できないので、一定の独占利用権を創作者に与えることにした。これが著作権である。
この論理にしたがうと、売り上げを減らさない限りは海賊版の利用は(法的に違法でも経済厚生的には)容認される。海賊版があれば正規版が売れなくなると思うかもしれないが、宣伝のような派生効果を考えるとそうも言えなくなってくる。
図1はコンテンツ(たとえば漫画)の需要曲線であり、価格pで売っていたとする。均衡点はE点でx人の利用者(購入者)がいるので、売上は掛け合わせてp × x、図の四角形のO x Epの面積となる。ここに海賊版が登場すると海賊版の価格はゼロなので、利用者はyまで増える。
もし、ここでこれまで正規版を買っていたxの人々が同じように価格pで買い続ければ売上は減少しない。しかし、海賊版が無料で入手できるならそちらに代替されてしまい、売上が減少する。図の左向きの矢印がその代替分で、これが海賊版の被害である。

図1
しかし、話は簡単ではない。利用者がyまで増えると知名度があがり、宣伝効果が出てきて、需要曲線自体が右方向にシフトするからである。図の右方向の矢印がそれであり、最終的に売上が減るかどうかは、この海賊版の代替効果と宣伝効果のどちらが大きいかの比較考量となる。
宣伝効果など取るに足らないと思う人もいるかもしれないが、それは早計である。たとえば音楽業界は最初YouTubeに音楽があると無料視聴のためにCDが代替されて売れなくなると思って、YouTubeに音楽をアップすることを禁止しようとした。しかし、宣伝効果の方がずっと大きいことがわかって、いまでは積極的に無料視聴を受け入れている。
むろん、逆の例もある。たとえば、ゲーム機のマジコンでは海賊版の代替効果の方が大きかった。どちらが大きいか理論的には一概には言えない。
一概に言えないとなると実証分析に託される。実際、この問題は多くの経済学者の関心を集め、音楽、映画、ゲーム、書籍をはじめとして実証論文がたくさんでた。筆者もその末席を汚して論文を書いたことがある。しかし、多くの研究にも関わらず決着はついていない。
最近では派生需要が大きくなってきて、アニメを見てラノベを買う、あるいは漫画を読んでフィギュアなどグッズを買うというIP消費が盛んであり、これを含めた研究はまだされていない。海賊版を見てグッズを買ってくれればグッズ販売の形で売上が立つのであり、これを含めて海賊版をどう評価するかはまだ未調査である。海賊版問題は簡単ではない。
2. しかし、解決策は簡単である
海賊版問題は簡単ではないと述べた。ではまだ研究がされているかと言えば、実は研究は下火であり、最近はほとんど論文が出ない。海賊版の功罪に決着がついたからではない。海賊版の功罪いかんにかからず、きわめて強力で簡単な問題の解決策が見つかったからである。それは安価な定額配信サービスである。
音楽ならspotify、ゲームならソーシャルゲーム(モバイルゲームあるいはsteam)、アニメならd-animeやアマゾンプライム(海外ならCrunchyroll)、これらはいずれも無料あるいは無料に近い安い定額の料金でコンテンツが楽しめるサービスである。これらのサービスが登場したことにより、海賊版利用者は激減した。海賊版にとどめを刺したのは法的規制ではなく、このような定額配信サービスである。
先ほど述べた図で説明しよう。図2をごらんいただきたい。y-xの海賊版利用者はお金を払う用意が無いわけではない。CD,DVDなどの価格pは高くて払う気になれないが、安い価格なら払う用意がある。図の三角形Exyのところには安い価格なら払っても良いという人達が大量に存在する。彼らに向けてデジタル技術を使って安く提供するのが定額配信サービスである。

図2
現在、日本では音楽もアニメもゲームも定額配信サービスが普及し、ほとんどきわめて安い価格で利用可能である。海外でも音楽とゲームは無料配信、無料プレイが普通であり、アニメもCrunchyrollが普及してだいぶ定額視聴が可能になりつつある。
しかし、唯一漫画だけが定額サービスになっていない。日本ではそれでも一部定額の電子コミック書店があり、さらに漫画喫茶で読むなど、低料金での利用が可能であるが、海外の場合、漫画にそのような定額サービスが存在しない。海外において漫画の海賊版が盛んな理由はここにある。
読みたくても正規版が無い(あるいは禁止的に高い)からしかたがないではないかという海外勢の言い分には一理あるのである。
3. 歴史を忘れるべきでない
それでも海賊版を読むのは違反であるから許せないという意見の人もいるだろう。しかし、そのような人には歴史を忘れるなと申し上げたい。
日本で海賊版がなくなったのは定額配信が普及して以降であり、それ以前には日本でも海賊版は大いに流通していた。例えば、秋葉原にはゲームソフトのレンタル屋があり、そこで借りてコピーして返すということが普通に行われていた。貸しレコードと同じビジネスモデルであるが、無許諾なために違法である。
しかし、違法とはわかっていても当時の(2~3日でやり終わってしまうごく小規模な)ゲームソフト6000~7000円、音楽CD3000円はあまりに高く、たくさんのゲームをやりたい、音楽を聞きたいというコンテンツ消費欲の大きな若者に払える金額ではなかった。友人間でのコピーのやり取りも活発であり、彼らは海賊版に走ったのである。
当時の日本人は、いま海外の人々が言っているのとほとんど同じ議論をしていた。すなわち、海賊版に宣伝効果がある、正規版が高すぎる、デジタル技術を使えば安くできるはずなどである。
その海賊版が日本から無くなったのは、定額配信ゆえである。決して日本人のモラルが上がったからではない。日本人のモラルが10年かそこらで変わるはずはない。
海賊版問題について、日本に比べて海外の人はモラルがないと述べる日本人がいるが、それは思い上がりというものである。日本人が海賊版を犯罪とし、海外の人を断罪するのはかつての自分たちに唾する行為に等しい。我々日本人が海賊版から決別したのは我々が高潔になったからではなく、環境が変わったからに過ぎない。
10年前にあった漫画村騒動では日本人が一斉に漫画の海賊版を読んだことを思い起こそう。漫画の定額配信が無いとき日本人も海賊版に手を出すのである。
海外から見ると日本は漫画については天国のような場所である。すべての漫画が母語で読めて(日本語なので当然であるが)、最近では定額で安く読める電子書店もあり、販促で無料の巻もあり、さらに漫画喫茶に行けば安い値段で人気作家の漫画がいくらでも読める。
海外ではこのような状態はなく、限られた人気作家の漫画だけが、しかも拙い翻訳で、そして禁止的な高価でしか提供されていない。面白い漫画を読みたいという欲求にあふれた海外読者が漫画を読もうとすれば自ら翻訳して流通させるしかなく、それが海賊版である。
安い価格でいくらでも漫画が読める満ち足りた環境にいる日本人が、ろくな環境がなく違法を承知で好きな漫画を自力で翻訳して読むしかない海外の漫画ファンを泥棒と呼ぶのはどうだろうか。それは、海外の人から見れば、満ち足りた環境にいる強者の傲慢に思えるだろう。
海賊版を使いながら時に彼らが日本を責め、なじるのはこのように考えると理解できる。この問題を解決する方法は簡単であり、海外向けに漫画の定額配信サービスを行う事である。
4. 著作権は正義か
しかし、このように述べても海賊版が違法であることは間違いなく、それを正当化するのは許せないという気持ちは日本側には強いだろう。これは海賊版が窃盗や傷害と同じ犯罪行為であり、海賊版を禁じることが正義だと考えられているからである。
海賊版はいわば泥棒(万引き)と同じであり、泥棒をしておいてそれを正当化するとはゆるしがたい、と。確かに泥棒は絶対の悪であり、それを守ることは絶対の正義である。
海賊版が泥棒と同じなら許せないのは当たり前である。車販売店で売られている車を無許諾で利用してドライブして楽しかったですとSNSに書く人はいない。お店からアイスクリームを盗んで食べておいて、それをおいしかったとSNSに食レポすることはありえない。それはモラルの壊れた非常識な人のやることである。「海賊版で読みました、面白かったです」という海外の人に対し、嫌悪感を露わに罵る人は海賊版の利用者をそのように見ていると考えられる。
しかし、著作権は泥棒とは異なり、絶対の正義ではない。その証拠に権利制限というのがあり、一定の条件の下での無許諾利用が認められている。家庭内の私的利用、非営利の上演、教育目的の利用などで、これらの無許諾利用が認められているのは、著作物は広く利用されてこそ文化の発展に役立つからである。
さらに寛容的利用(tolerated use)というのもある。これは違法であっても宣伝のため、あるいはファン活動として黙認されている利用のことで、同人活動やYouTubeへの楽曲アップなどがこれにあたる。さらに著作権は親告罪であり、取り締まりには著作権者の告訴が必要であり、告訴なしには警察は動かない。
物財の場合、そのようなことはない。所有権は絶対であり、権利制限はありえない。一定の条件で第三者が無許諾であなたの所有物たとえば車や家を利用できるなどと言うことはありえない。寛容的利用もないだろう。宣伝になるからといって、無許諾で店頭の車を使わせるカーディーラーなどいない。また、窃盗は非親告罪であり、窃盗の事実があれば告訴が無くても警察が動きうる。
一方、著作権では、物財ではありえない権利制限や寛容的利用があり、また告訴が無ければ警察は動かない。この“緩さ“からわかるように著作権は絶対の正義ではない。
そもそも、著作権法は頻繁に改正されており、違法合法の境界の変化が激しい。頻繁に変化するものが正義ではありえない。正義とはいつでもどこでも誰にとっても正しいものである。汝盗むなかれ、の戒律は聖書の時代からあり、目には目を、の法はハンムラビ法典の時代からあった。これからわかるように、泥棒は悪、傷害は悪というのはいつでもどこでも誰にとっても正しいこと、すなわち正義である。
これに対し現在に連なる著作権法ができたのは18世紀以降であり、さらに最近にいたるまで何度も変更され、合法違法の境目が変わっている。このように歴史が浅く、頻繁に変更されるものが正義ではない。
著作権は文化の発展にために社会が工夫した一つの制度的な仕組みであり、絶えず調整を要する。創作者と利用者の利害調整をして文化の発展を図るための仕組み、それが著作権法である。
5. 正義の議論は避けるべき
しかし、著作権を利害調整の仕組みではなく、正義と見る人々が一部に存在する。著作権を正義と見なすことは法の執行の点からは利点がある。しかし、正義は敵を非難・断罪し、秩序を作りだすことはできても、妥協したり、現実的な解決策を探すことが苦手である。なにより敵と味方をわけるため社会に分断を引き起こしやすい。この悪い面が最もよくあらわれたのが、今回の海外との論争である。
海外においてはすでに述べたように漫画は定額配信がされておらず、正規版も限られるため、海賊版で広く読まれている。
海賊版で読んでいたとしても、彼らの漫画・アニメへの愛は深い。たとえばドラゴンボールの作者の鳥山明が亡くなった時、南米アルゼンチンでは大規模な追悼集会が開かれた。図3の左上がそうで大勢の人が集まっており、日本以上の規模である。図3右上はロシア語圏からの投稿で殺伐たる日常の中でアニメが明るさをもたらしてくれると書いている。図3の下の図は英語圏からの投稿で、打ちひしがれた日常にアニメが救いをくれたことを絵で表している。
同時翻訳が始まって以降、このような投稿は増えており、海外の人が日本の漫画・アニメを愛している投稿があいついでいる。

図3
これは彼らにとって良いだけでなく、日本にとっても良いことである。世界に日本のファンが増えることで広い意味で日本にさまざまの恩恵があるからである。日本に来るインバウンド観光客は漫画・アニメで日本を知って来たくなったという人が多い。
世界に日本のファンが増えることは外交にも良い影響を与える。これは国際政治ではソフトパワーと呼ばれており、軍事力が限られ、経済力に陰りがみられる中で日本にとって数少ないパワーである。
さらにこのような損得勘定に寄らずとも、漫画・アニメを通じて世界と交流できること自体が日本にとってきわめてありがたいことであろう。著作権法の本来の目的は文化の発展であり、このような国際交流は文化の発展におおいに役立っているはずである。
しかし、そんな中で、著作権を正義と見なす人は、海外の漫画・アニメファンを泥棒と非難するのである。確かに上記の鳥山明の追悼に集まった数千人のうちほとんどは海賊版で読んだ人であろうし、暗い日常で漫画とアニメに心救われたと述べた人にも海賊版で見た人が多いだろう。しかし、彼らを泥棒と呼び貶めることにどんな意味があるだろうか。
彼らは反論するだろう。だって正規版がない、あるいは高すぎる、日本のような漫画喫茶もないし定額配信もないのだ、と。しかし、正義を掲げる側はそんな事には動じない。そんなのは言い訳であり、泥棒の正当化にはならない。泥棒は泥棒である。それ以上何の議論も必要ない。相手が海賊版を利用していることが明らかになった時点で、泥棒と話すのはつらいと言って議論を打ち切る。国際間の交流は断絶する。
ここで海外勢は言う。正規版が無いのだから、海賊版がいけないとなれば我々は日本の漫画を読むことができなくなるではないか、と。これに対し、日本の一部論客はそれなら読まなくて結構だと応じるのである。海賊版で読むくらいなら日本の作品は読まなくてよい、と。
日本の漫画が読まれなくなれば、海外に日本のファンはできず、ソフトパワーも得られず、国際交流も消えてしまう。日本の損失は巨大であるが、正義の論客は気にしない。正義は帰結に寄らず自分の正しさを主張する。
正義を掲げる人は、海賊版は悪であるの一点を繰り返し、そこから生じる様々の帰結を議論する用意がない。海賊版を利用することの帰結、海賊版を禁止することの帰結、海賊版を利用する人を泥棒と呼ぶことの帰結、すべてを気にしない。ただ、己の正しさを主張するのみである。
帰結を検討するなら、海賊版問題を解決する最良の方法は海外向けに安い定額配信を行う事であるが、議論はそこに広がらない。ただ海外のファンは泥棒だと言い続ける。そこに交流はなく、分断あるのみである。
6. 正義を生み出したもの
このような正義を掲げる人はなぜ正義を掲げるようになったのだろうか。ヒントになる調査がある。前に筆者が行った調査では、海賊版に批判的なのは出版社、コンテンツ制作会社、クリエイターなど業界関係者ではなかった。これら業界関係者は相対的には擁護的であり、批判的なのは業界とは関係ない一般人だったのである。
図4は、その時の調査結果の一部で、海外の海賊版(漫画のファンサブ)が窃盗にあたるかどうかを聞いたものである。
一番上のバーが全体平均で、全体では窃盗にあたると答えた人が30%、当たらないと答えた人が15%で、窃盗にあたると考える人が2倍も多い。しかし、5番の出版社に勤務している人では、それが42%と44%で拮抗する。9番の漫画を描いている人でも42%と39%で拮抗である。5番目から9番目までが広い意味での業界関係者であるが、いずれも全体平均での比率2倍よりも、窃盗でないという意見が多くなっている。

図4
海賊版を窃盗であり絶対の悪と断じるのは業界関係者ではなく一般人である。したがって著作権が正義だという認識を作り出したのは業界事情とは異なる要因である。考えられる要因は二つある。
ひとつの要因は著作権教育である。日本の著作権教育は著作権者の権利保護に力を入れ、公正な利用にはあまり触れない。利用促進のための権利制限の教科書での扱いは小さく、寛容的利用にいたっては全く触れていない。
日本の著作権教育は大雑把にいえば、とにかく著作権者の許可をとりなさいという一点に集約され、したがって無許諾での利用はすべていけないという認識になりやすい。図4で10から12で著作権教育を受けた人ほど、海賊版を窃盗と思う人が増え、業界関係者以上に批判的になっているのはこのためと考えられる。
もう一つの要因は著作権団体のキャンペーンである。著作権団体はある時点から海賊版利用を犯罪あるいは泥棒とするキャンペーンを開始した。図5は代表的なもので、漫画出版社が行った「きみを犯罪者にしたくない」キャンペーンと、映画館でおなじみの「映画ドロボウ」である。
著作権法は改正されて刑事罰が可能になったので犯罪あるいはドロボウと言う記述は間違いではない。ただし、個人の海賊版利用が摘発されることはまずないため、多分に威嚇であり、啓蒙的意図であったと考えられる。この威嚇と啓蒙は一定の成果をあげたと考えられる。

図5
しかし、同時に、海賊版利用が泥棒と同じ犯罪行為であると述べたため、著作権を正義と考える人を増やしたと考えられる。海賊版が泥棒と同じ犯罪なら、これを絶対に許すべきではない。著作権を正義と考える人が増えた背景には、映画館に行くたびに著作権法違反は犯罪であり、泥棒であると毎回耳もとで囁かれたという事情があるだろう。
そして、それは海賊版を利用する海外のファンを泥棒と罵る人を作り出すことになった。海賊版を利用しているというだけでも、もう話もしたくないと拒否的な態度をとる人がでたのはこのためであろう。
海賊版利用者は万引き犯と一緒であり、しかもいろいろ理由を言う。理由は言い訳であり、言い訳を言う万引き犯とは話したくないのである。今回の問題の背景にはこのようなキャンペーンの影響があると考えられる。
7. キャンペーン変更の提案
著作権法を正義と考えることの問題点は海外海賊版に限るものではない。著作権法はすでに述べたように創作の誘因と利用の促進の利害調整を行う仕組みである。デジタル技術の発展によりさまざま新しい問題が生じており、そのたびに柔軟な対応が望まれ、著作権法学者は知恵を絞っては対策を考えてきた(たとえば、金子・木下・高倉編、2026,『変革期にある情報環境と著作権法制: 情報流通における媒介者の多様性と動態からの視座』,弘文堂)。
しかし、著作権者の利益を守ることを絶対の正義にしてしまうと、柔軟な調整ができない。たとえば、何度か述べた寛容的利用はこの柔軟な調整の典型であるが、きわめてグレーな制度であり、正義とは相性が悪い。最近の例ではAIついての著作権論争でも、正義をふりかざしてしまうと柔軟な調整が損なわれる。著作権制度が利害調整の法である以上、本来、正義は抑制すべきである。
正義の抑制ためには原因である著作権教育とキャンペーンの見直しが必要になるが、ここではすぐに対応が可能な方法としてキャンペーンについて考えてみよう。
正義を抑制するなら、図5の著作権団体のキャンペーンは変更した方が良い。そもそも、現在の日本においては定額配信が普及した結果、海賊版の被害は大きくない。映画ドロボウと言うが、アマゾンプライムでほとんどの映画が無料で見れて、レンタルでも200~300円で見られるのに海賊版サイトで映画を見る人はいないだろう。
ゲームも音楽も海賊版の問題はほぼなくなった。漫画だけは残っているが、電子書店が次第に普及してきており、定額配信サービスが本格化すれば海賊版の入る余地は無くなる。正義を振りかざして犯罪をあげつらうことの意義は低下しつつある。特に漫画はともかくとして映画ドロボウの歴史的使命は完全に終わっており、いたずらに正義を煽るだけの効果しかない。
では、どう変えるか。それは著作権の本来の姿に沿ったもので良い。それは「推しを応援しよう」である。あるいは「感動に対価で報いよう」でもよい。著作物で楽しい思いをしたならば作者に報いるべきである。返報性は倫理として普遍的なものであり、多くの人の賛同を得るだろう。
海外の海賊版利用者にこのキャンペーンが届けばどうなるか。彼らは答えるだろう。応援したいが方法がない、対価を払いたいがどうすればよいのか、と。そこで低価格でのコンテンツ提供方法を考えようではないかと言う話になる。そうなれば、日本の著作権者と海外の利用者がともに満足する解に向かって協調して進むことができる。それはともに利益を得るwin winの方法である。できない相談ではない。
現在の映画ドロボウキャンペーンは著作権を正義と同一視する人を作り出す効果しかない。映画ドロボウのキャラは人気キャラで消すのがもったいないのなら、泥棒という呼びかけを止めて、あのキャラのままで、「推しを応援します」と叫ばせても良いだろう。
海賊版の利用者とはいえファンであることはまちがいないのであり、そのファンを泥棒呼ばわりするよりよほど気持ちの良いキャンペーンになるはずである。
編集部より:この記事は田中辰雄氏のnote 2026年5月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は田中辰雄氏のnoteをご覧ください。







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