沖縄県名護市辺野古沖で発生した抗議船転覆事故をめぐり、元同志社大学大学院教授の浅野健一氏の発言が批判を浴びている。浅野氏は、事故で亡くなった同志社国際高校2年の武石知華さんの遺族がnoteで情報発信していることについて、「親が亡くなった娘の意思を代弁すべきではないのではないか」と疑問を呈した。しかし、その発言は、浅野氏が参加した学習会の趣旨や告知文の内容と照らすと、あまりにも大きな矛盾を含んでいる。浅野氏は、元共同通信の記者でもある。
浅野「親であっても娘の意思を代弁すべきではない」
浅野「同志社に対するバッシングが広がることは女子学生は望んでいないのでは」
浅野「”天国から声が聞こえる、抗議を続けてほしい”は素晴らしい投稿」姉「元同志社大学教授の人権と報道の専門家(?) がこんな矛盾したこと言うと… https://t.co/tJfOQ4FBal
— 辺野古ボート転覆事故 遺族日誌 (@Beloved_Tomoka) May 17, 2026
不思議なのは、このような狂気の講演会を行ったら、自分たちがどのように見られるかと言うのが彼らに分からないのでしょうか?講演会の結果は、基地反対と言う意見全体のイメージを大きく低下させるものでしょう。「自分たちの目標を、自ら遠ざける」遠目から見ると奇妙な行為にしか見えません。
— 分電でんこFC(電力・エネルギー業界応援) (@denkochan_plc) May 17, 2026
【参照リンク】「娘の意思、代弁すべきでないのでは」 元同志社大教授が辺野古事故遺族の投稿を疑問視 産経新聞
- 遺族は事故後、noteなどを通じて、事故の経緯や報道への疑問、誤情報の訂正などについて発信を続けてきた。
- ところが、元同志社大学大学院教授の浅野健一氏は、那覇市内で開かれた学習会で、この遺族の発信に疑問を呈した。

浅野健一元共同通信記者、元・同志社大学大学院メディア学専攻教授 Wikipediaより
- 浅野氏は「たとえ親子でも別人格であり、親が亡くなった娘の意思を代弁すべきではないのではないか」と述べた。
- 一見すると、個人の人格や意思を尊重する発言のようにも聞こえる。しかし問題は、浅野氏自身が参加した学習会との整合性である。
- この学習会のタイトルは「抗議船転覆事故乗り越え、辺野古新基地建設阻止を強化しよう」だった。
- 事故で亡くなった女子生徒の死を、辺野古新基地建設阻止という政治運動の文脈に位置づける催しだった。
- さらに告知チラシには、「亡くなった生徒と牧師が天国で、高市自民党政権をどう見ているか考えたい」と記されていた。
- これは、亡くなった本人の意思を確認できないにもかかわらず、死者を政治的主張の中に組み込む表現である。
- 浅野氏は遺族に対しては「娘の意思を代弁するな」と言いながら、「娘の意思を代弁すべきでない」と被害者の意思を勝手に代弁していた。
- ここに、この発言の最大の矛盾がある。
- 親が亡くなった娘について語ることは問題視する一方で、政治運動の側が亡くなった少女を象徴として扱うことには疑問を示さない。
- 遺族の発信は「代弁」と批判され、運動側の発信は「追悼」や「問題提起」として許されるのだとすれば、それは人権論ではなく、単なる政治的ご都合主義である。
- 浅野氏は「同志社に対するバッシングが広がることは女子学生は望んでいないのでは」とも述べた。
- しかし、これもまた本人の意思を推測している点では、浅野氏が批判した「代弁」そのものではないか。
- 「女子学生は望んでいないのでは」と語る浅野氏自身が、亡くなった生徒の意思を勝手に推測している。
- 遺族には代弁するなと言いながら、自分は「望んでいないのでは」と代弁する。この論理矛盾はあまりに明白である。
- そもそも、遺族が発信しているのは、単に亡くなった娘の心情を推測するためではない。
- 事故の事実関係を明らかにし、報道や学校側の対応に疑問を呈し、誤情報を訂正するための発信である。
- 被害者遺族が事故について語ることは、社会的にも当然認められるべき行為である。
- それを「代弁」という言葉で封じ込めようとする姿勢は、遺族の表現の自由を軽んじるものだ。
- 浅野氏は「人権と報道」を語る立場にある人物とされるが、今回の発言は、その看板と大きく食い違っている。
- 浅野氏は元同志社大学教授であるが、元共同通信の記者でもある。
まず、浅野健一氏は単なる元大学教授ではありません。元共同通信記者で、同志社大学でメディア論、報道倫理を教え、犯罪報道と人権、記者クラブ批判、国家権力と報道を長年扱ってきた人物です。現在も人権と報道・連絡会の中心人物として、既存メディアや国家権力への批判を続けています。… https://t.co/jL6K0kcjV9
— 粉男 (@kame_1223) May 17, 2026
浅野健一氏は、元同志社大学大学院教授&元共同通信社で、著書に犯罪報道の本があります。
ある意味エリートですね
自分は特別だと思ってそうです— 村田 裕樹 (@murata_ssj) May 18, 2026
- 人権を重視するなら、まず守られるべきは、政治運動にとって都合の悪い遺族の声である。
- ところが浅野氏の発言からは、遺族の痛みに寄り添う姿勢よりも、学校法人や反基地運動への批判を抑えたい意図が透けて見える。
- ネット上で批判が広がったのも当然である。
- 「遺族の痛みを踏みにじる発言だ」「赤の他人が死者を政治利用するのは許し、親の発信は許さないのか」「人権専門家のダブルスタンダードだ」といった声が相次いだ。
- 遺族も上記のようにXで浅野氏の発言に反論し、その投稿は大きな反響を呼んだ。
- この問題は、単なる失言では済まされない。
- 浅野氏の発言は、死者の意思を誰が語ることを許され、誰が語ることを禁じられるのかという重大な問題を含んでいる。
- もし遺族の発信を「代弁」として批判するなら、政治運動が死者を象徴として利用することにも同じ基準を適用しなければならない。
- その基準を自分たちの側にだけ甘く適用するなら、それは人権でも報道倫理でもなく、政治的な二重基準にすぎない。
浅野健一氏の発言の問題点は、遺族に対して「亡くなった娘の意思を代弁するな」と言いながら、自らは「女子学生は望んでいないのでは」と死者の意思を推測し、さらに死者を政治運動の文脈に置く学習会に関わっていた点にある。これは明らかな矛盾である。遺族の声を封じ、運動側の都合のよい語りだけを許すのであれば、それは人権の名を借りた政治的ご都合主義でしかない。

同志社大学HPより







コメント
アゴラ編集部のこの記事が指摘している、元同志社大学大学院教授・浅野健一氏の呆れるほどのダブルスタンダード(二重基準)と論理破綻については、全面的に賛同せざるを得ない。
彼の背景を冷徹に見つめ直せば、今回の言動は「全く不思議ではない」のであり、むしろ彼らのイデオロギーからすれば極めて整合性の取れた「必然の行動」だからである。
メディアや世間は、浅野氏をいまだに「中立的なジャーナリズムの専門家」あるいは「人権の擁護者」という前提で扱うからこそ、その言動に奇妙な矛盾を感じてしまう。だが、私たちが直視すべき最も重要な前提は、「浅野健一とはどういう人物か」という冷厳な事実である。
浅野氏は、単なる「元大学教授」や「元共同通信記者」といった、過去の肩書だけで語れる人物ではない。
憲法改悪を許さない運動の発展をめざす明確な政治団体である「9条連(憲法改悪を許さない運動の発展をめざす全国市民の会)」の共同代表を務める現役の政治活動家である。
また、その著書には『安倍政権・言論弾圧の犯罪』があり、同志社大学浅野ゼミ名義では日本軍従軍慰安婦問題を扱った『ナヌムの家を訪ねて――日本軍従軍慰安婦から学んだ戦争責任』を出版している。
これらは、歴史認識や国内政治において、特定のイデオロギーに基づいた強烈な反権力・反自民の立場を一貫して鮮明にしてきた証拠である。
これらから彼の行動を読み解けば、答えは極めてシンプルだ。彼らにとっての最優先事項は、「反自民党政権」「反基地」「護憲」という自らの政治闘争を勝利に導くことだ。
だからこそ、「抗議船転覆事故を乗り越え、辺野古新基地建設阻止を強化しよう」と銘打った学習会を開催し、その告知チラシに「亡くなった生徒と牧師が天国で、高市自民党政権をどう見ているか考えたい」などと恥ずかしげもなく記すことができるのだ。
悲しい事故で命を落とした少女の死を、自分たちの政治運動を有利に進めるための「道具」として消費する行為は、一般社会の感覚からすれば極めてグロテスクで不謹慎なものに映る。
しかし、浅野氏らの歪んだ悪の正義感の中では、大義名分(=辺野古移設反対・反政権闘争)のための「正当な道具」と化す。
一方で、今回の事故で亡くなった女子生徒の遺族(親や姉)がnoteやSNSで行っている発信は、決して亡き娘の「政治的意思」を代弁して特定の政治運動を応援・批判するためのものではない。遺族が必死に訴えているのは、事故の客観的な事実関係の検証であり、メディアの報道姿勢に対する疑問であり、ネット上に蔓延する誤情報の訂正である。これは身内を亡くした遺族として当然の権利であり、社会が真摯に耳を傾け、検証を助けるべき声である。
しかし、浅野氏ら活動家にとっては、この「遺族による事実の発信」こそが、自分たちの「辺野古新基地阻止」という絶対的な正義の運動に水を差す「不都合なもの」に見えてしまう。だからこそ浅野氏は、那覇の学習会という身内の集まりにおいて、「親であっても娘の意思を代弁すべきではない」と言い放ち、遺族の口を封じようとした。
彼らのような活動家にとって、「人権」や「報道の自由」あるいは「表現の自由」とは、敵対する国家権力や保守政権を攻撃し、自らの陣営を優位に立たせるための「便利な武器」に過ぎないのだ。
彼らの脳内妄想世界では、今回の発言は一切矛盾しておらず、一貫して「政治闘争の勝利」という目的に奉仕しているのである。
彼がやっていることは、自らの政治的目標のために遺族の表現の自由を軽んじ、その声を封殺しようとする行為にほかならない。
これは、彼がかつて著書などで激しく批判してきた「権力による言論弾圧」の構造と何ら変わりがない。
自らのイデオロギーを盲信するあまり、他者の痛みや普遍的な倫理すらも政治の道具として扱うその悪こそ、真に警戒すべき「こんな人たち」の姿の本質である。