トランプ大統領とIRS(税務当局)をめぐる訴訟が、アメリカの法の支配に深刻な疑問を投げかけている。問題はトランプが脱税したかどうかではなく、税務当局による監査の対象になった人物が大統領として税務調査を禁じ、家族まで免責を得た点にある。

NYT報道から始まった脱税疑惑
発端はニューヨーク・タイムズによる一連の報道だった。NYTは2018年、トランプが父からの相続税・贈与税を大幅に圧縮した疑いを報じた。さらに2020年には、トランプが長年にわたり巨額の損失計上や税還付を使って納税額を抑え、2016年と2017年に連邦所得税をそれぞれ750ドルしか支払っていなかったことを報じた。
ただし重要なのは、この報道がそのまま「トランプ本人の脱税有罪」につながったわけではないことだ。トランプ・オーガニゼーションやCFOは別件の税務不正で有罪となったが、トランプ本人はこの税務疑惑で刑事有罪になっていない。
ここまでは、政治家や大富豪をめぐる税務疑惑としては珍しくない構図である。問題は、その後の展開だ。
IRS訴訟の不可解な幕引き
トランプと息子たち、トランプ・オーガニゼーションは、税務情報が漏洩したとしてIRSと財務省を相手に100億ドル規模の訴訟を起こした。税務情報の漏洩はたしかに重大な問題であり、トランプ氏側にも主張の余地はある。
しかし、その訴訟の決着が異様だった。司法省は、トランプ氏側に金銭賠償を支払わない一方で、正式に謝罪すると発表した。さらに、約18億ドル規模の「反武器化基金」を創設するとしている。
司法省自身も、トランプ氏、長男、次男、トランプ・オーガニゼーションがIRSと財務省を相手に提訴していたこと、和解により原告側は金銭賠償を受け取らず、正式な謝罪を受けることを発表している。
ここまでは、まだ「漏洩被害への救済」と説明できるかもしれない。だが、さらに問題なのは、米政府がトランプ氏、家族、関連企業の過去の税務申告について、IRSによる監査や税務請求を今後追及できない内容になっていると報じられている点である。
ロイターは、司法省の文書がIRSに対し、トランプ氏や家族、企業の過去の税務申告に関する監査を永久に禁じる内容だと報じている。これは単なる和解ではない。大統領本人の過去の税務問題について、行政機関がみずから手を縛るものだ。
法の上に立つ大統領
法の支配とは、権力者も一般市民も同じ法律に従うという原則である。ところが今回の構図では、税務当局の監査対象になり得る人物が、その税務当局を含む行政府の長として、結果的に自分自身への税務追及を封じたように見える。
アメリカ大統領には行政権があり、司法省もIRSも行政府の一部だが、だからこそ大統領の個人的利益と国家機関の判断は厳格に切り離されなければならない。
とりわけ税務は、国家権力の中でも最も強い強制力をもつ分野である。一般国民には1ドル単位で説明責任を求めながら、大統領本人には過去分の監査免除を与えるなら、税制の正統性は崩れる。
これは「トランプ氏が脱税したかどうか」という刑事責任の問題を超えている。より本質的なのは、「国家の税務権力は、権力者本人にも及ぶのか」という問題である。今回の決着は、その問いに対して「大統領には及ばない」と答えたように見える。
「反武器化基金」という名の政治資金装置
さらに不可解なのが、「反武器化基金」の創設である。ロイターは、トランプ氏がIRS訴訟を取り下げる代わりに、司法省が約18億ドルの基金を設けると報じている。
この基金は被害者を補償する名目だが、「武器化」というのはトランプ氏が長年使ってきた言葉だ。APもこの基金について、トランプ氏の同盟者らを補償するものだとして民主党側から「裏金基金」と批判が出ていると報じている。
問題は税務情報漏洩の被害救済と、政治的迫害を主張する人々への巨額基金創設が、なぜ同じ和解の中で結びつくのかである。
税務情報の漏洩に対する謝罪や再発防止は必要だが、それが大統領の支持者に公金を配る制度に変質するなら、国家機関は中立性を失う。司法省が大統領の敵を罰し、味方を救済する装置」になれば、それはもはや法の執行機関ではなく大統領の従僕である。
アメリカは王を否定して建国された国である
本質的な問題は、脱税疑惑が裁判で検証される前に、政治権力によって税務当局の手が縛られたことだ。脱税で有罪か無罪かは、証拠と手続きに基づいて判断されるべきである。その判断に至る前に、行政府の長である大統領が自分自身への監査を封じることができるなら、そもそも法の手続きが成立しない。
アメリカ合衆国は、王権への反発から生まれた共和国である。建国の理念は、誰も法の上に立たないという原則にあった。ところが今回のIRS訴訟の決着は、その理念を根底から揺るがしている。
税務当局が大統領を監査するのではなく、大統領が税務当局の行動範囲を決める。司法省が中立的な法執行機関ではなく、大統領個人の政治的救済装置に見える。これでは、共和国というより宮廷政治である。
専制君主とは、王冠をかぶった人物だけを指すわけではない。国家機関を自分の個人的利益に従わせ、法の適用を自分だけ免れることができる人物もまた、実質的には専制君主に近い。
トランプ大統領は税務当局を超える権力を持つのか。今回のIRS訴訟の幕引きは、その問いに対して不吉な答えを示している。少なくとも、アメリカの法の支配は、トランプ氏の税務問題を通じて重大な試練に直面している。







コメント