
首相官邸HPより
1. バラバラな各主体を繋げることについて
「標題と全然関係ないではないか」とのお叱りを受けそうだが、最近勝手に感心している作家の朝井リョウ氏の小説の構成手法の話から入りたいと思う。すなわち「時代」の特徴を表現すべく、一見別々の個性をもった登場人物たちを繋げる力についてである。
2026年の本屋大賞に選ばれた朝井氏の近著『イン・ザ・メガチャーチ』。読み進めるにつれて、一見、独立事象のように別個に描かれていた登場人物がみるみる繋がっていく。特に最後は「まさか」という感じの繋がりが、かなりはっきりと示唆されていて(しかし明確に繋がりを描き切らないところがまた憎い……)、ファンダムとも呼ばれる「推し」を熱心に支持する世相が見事に表現されている。
時代の波とは関係なく生きているつもりでも、個々人の思想や行動は知らず知らず世情に影響されている。フーコー的に言えばエピステーメーか。小説の中では、特に後半、そのことが顕在化する。一見ファンダムに背を向けているような登場人物も、実は陰に陽に時代に影響されていてそこからは逃れられない。
そんなファンダムを朝井氏は、断罪するでもなく、もちろん慫慂するでもなく、巧みな皮肉を利かせながら、その光と影を淡々とバランスよく描く。「独立事象としての登場人物たちを、途中から、納得感のある透徹した『補助線』をひくことで見事に繋いでいく」ということそのものが、妙な感情を交えずに偏向なく世の中の特質をあぶり出すということを熟知している老成した書き手の朝井リョウ氏は、実はまだ36歳で、今月末(5月31日)が37歳の誕生日だそうだ。
少し前の芥川賞受賞小説の『推し燃ゆ』(宇佐見りん)なども、ファンダム・炎上カルチャーを描いた作品として興味深く読んだことがあるが、圧倒的な一人称であることから、しつこさというか、違和感というか、どこか共感できなかったというのが正直な感想だ。
人それぞれに好みはあるだろうが、私は、透徹した補助線で主体間を繋ぎ、全体として「世相」をあぶり出し、包括的・叙事的に世の特質をバランスよく描く朝井リョウ氏の手法に共感する。その圧倒的な構成力には脱帽だ。エピステーメーの言語化は、下手に情感が混じらない方がよい。
気になって朝井氏の話題作の『何者』や『正欲』にも、時間が許すところで手を伸ばしてみると、やはりというか、手法は見事に一緒である。いずれの作品も現代社会に現出している「世相」を綺麗に切り取って描くために、しかもその光と影を「淡々と」あぶり出すために、一見バラバラな独立した主体を、後半にかけて補助線を引いて繋げることに成功している。これはもはや、朝井リョウ氏の芸風と言ってよいのであろう。そして、その技にどんどん磨きがかかっていると見るべきなのであろう。
『何者』では、新卒学生が一斉に同じような格好をして「就活(就職活動)」をするという、恐らく世界的に見て稀な日本の事象を、その渦に飛び込む者、斜めに見つつ入り込む者、その波には乗らずに自らの道を行く者、という独立事象としてバラバラに描きつつ、それらの主体を、①ライバルでありつつ協働もするという友人や知人としての繋がり、②絡み合った恋愛関係や先輩後輩関係などの補助線を用いて、そして究極的には③SNS/裏垢(裏アカウント)という「世情を表す記号」も巧みに使いつつ、見事に繋いでいく。
『正欲』では、特定のものに発情する各個人を、後半にかけて、同じフェティシズムで繋いだり、同じと見せかけて、ブレーキをかけて世間に合わせている存在とそうでない存在(犯罪者)で実は区別してみたり、しかし彼らが実は繋がってもいて、それによって「違うのに同じにされる」という悲劇が襲ってきたり、非常に巧みな筆致だ。
多様性は、基本的には大事で尊重されるべきものという「正義」がありつつ、しかし、その正義は社会通念や法制度上、実は「悪」にもなりかねないということを、まさに「淡々と」妙な正義感や情念を交えずに、正義の代理人とも言うべき検察官の家庭内の矛盾も補助線として使いながら、透徹した客観目線で描いている。各登場人物を、偶然や必然を織り交ぜながら繋いで描き、矛盾に満ちた世間の現実をくっきりと浮かび上がらせている。
ファンダムも、一斉就活も、あるべき性欲(正欲?)も、今の日本という一つの世相の形であって、10年後~20年後には、言葉も事象も消えてなくなっているかもしれない。あたかもクールビズが当たり前になり、公衆電話があっという間に消滅したがごとくに、常識がひっくり返っているかもしれない。ただ、確実に、世相というものは存在する。時代の特色は厳然としてある。
当世事情を象徴する現象について、それがよいということでもなく悪いということでもなく、何かが明らかな正義だったり悪だったりということもなく、粛々と現象の光と影について補助線を使いながら、主体をうまく繋げて描く。そして、全体として世間を活写する。「影」は「光」がある限り存在する。そのことを象徴するかのように、3作品とも、結局は悲劇が襲う。しかし、同時にそこはかとない希望も何となくある。見事なプロットだとしか言いようがない。
2. 17と8と1を繋ぐものとは?
お待たせして恐縮ではあったが、2000字超の前置きを経て、ようやく標題の話に入ることとする。高市政権の「宿題返し」についてである。
「働いて、働いて、働いて……」と息巻いた高市総理は、日本の復活をかけての成長投資、すなわち成長戦略の策定と実践を政権の一つの至上命題として掲げてきている。2月の選挙で大勝し衆院で絶対安定多数を確保した今、支持率を下げずに国民の期待に応えるためにも、実効性のある成長戦略は非常に重要である。
いわゆる「骨太の方針」などと併せて、成長戦略の策定の目安になってきた時期は今年の夏である。いわば、「宿題」の期限と言ってよいであろう。果たして宿題は仕上がるのか、そして、その宿題への解答で合格点が取れるのか。
私見では、宿題は大きく、①17の成長戦略(AI・半導体、造船、量子、航空宇宙などの縦割り分野ごとの戦略)、②8つの分野横断的課題への対応策(金融、スタートアップ、人材育成など横割りの分野)、③地域未来戦略(1)ということで、17+8+1=26と多岐にまたがる形となっている。
この分野の広さについては、様々な批判が寄せられている。あまりにも手を広げ過ぎていて、これでは戦略とは呼べないというものから(多すぎるという批判)、逆に自動車やロボットなど我が国にとって大事な分野が明示的には入っておらず、これでは広さが足りないというものまで様々である。
内閣官房には日本成長戦略本部事務局という司令塔が設置されていて、経産省からの出向者の約15人を筆頭に各省から集められた約50人で、17+8=25を担当している模様だ(地域活性を担う地域未来戦略本部事務局は別にあるので、最後の「1」は担当していない)。単純計算で、1分野について2名(50÷25=2)ということになるが、経産省などの関係省庁も実質的にバックアップしてサポートしているので、裾野は必ずしも狭くない。
つい先日、例えば横割り8分野の一つのスタートアップ推進についての取りまとめが発表されたが、かなり経産省側でドラフトしたようにも言われている。スタートアップ総力創出パッケージという気合いを感じさせる名前が冠されており、実際に目を通してみると、現時点ではこれ以上は書きようがないだろう、というくらいに、かなり詳細に多岐にわたって、しっかりとした方向性が記されている。
特に個人的に注目に値すると感じているのが、①いわゆるEXITの多様化(上場だけでなく、M&Aを推奨)、②官公需でのサポートの本格化(米国のスペースXは、NASAが結果として育てたとも言われているが、官からの発注によるサポートの重要性の強調。いわゆるSBIRの本格活用)、③レイターステージでの支援の強化、などである。
青山社中でも、経産省やあずさ監査法人と共同で事務局を務めつつ、日本からメガベンチャーを生むための勉強会(メガベンチャー勉強会)を運営してきているので(今年度で4期目に突入)、それなりの相場観がある中での感想だと自負しているが、なかなかこれ以上のものを作ることは困難だと思われるくらい、広くて深い見事なベンチャー支援策になっている。書き物としての出来はよいと言ってよいであろう。
地域未来戦略などについても、全国を10のブロックに分けての戦略産業クラスター計画の素案が発表されるなどの動きがあるが、「26」それぞれに担当大臣を決めて、会議を回して、案を取りまとめて……ということを突貫作業でやってきており、上述のように既にいくつかの分野では明確な進捗や取りまとめが出てきている。今後、ほぼ全ての分野について、精魂を込めて作られた戦略がまとまり、順次発表されていくのであろう。
ここで鍵になるのが、せっかく作ったものが「絵に描いた餅」にならないか、ということである。果たして、この26分野の成長戦略で、日本は復活するのであろうか。
失われた10年と言われた1990年代から、政府は、これでもか、というくらいに、様々な日本復活策を策定しては実施してきた。物凄い財政出動をしたり、需要側ではなくサプライサイドだということで過剰設備や過剰雇用を無くす戦略を立てたり、中国の国家資本主義を横目に、それまでのような市場任せではなく、政府が相当に介入する方策を示したり、ここしばらくは経済安保なども絡んでその傾向に拍車がかかるなど、筆者の経産省在職中から今まで、本当に色々な戦略を立てては実施してきた。
それらは、日本の退潮を多少なりとも食い止め、衰退を遅らせる効果は一定程度あったかもしれないが、読者諸賢が恐らく強く理解し感じられているとおり、世界に冠たる成長を実現した、大きな効果を生んだ、とは言い難い。
そんな中での今回の「26」だが、悪く言うと断末魔のように「かくなる上は、もう覚悟を決めて全部何でもやる!」という宣言を、「働いて、働いて……」の高市総理と、中核的に官邸を支える経産官僚たちがして、「26」もの分野になっている。シャカリキに戦略を策定しているということに他ならない。
せっかく作った戦略の実現を図るためには、先立つものが必要だ。つまりはお金(予算)だ。これら全ての分野をカバーすべく全力で予算を付けていると、それはもう、大変なことになる。例えば私の在職中、インフラ輸出強化のための11分野、のようなものを定めて重点的に実施したことはあるが、これだけ広範に「26」を本格的にカバーするとなると、ただでさえ苦しい財政がより悪化するのは目に見えている。
そこで、あらかじめ高市政権が訴えてきているのが「責任ある積極財政」である。マーケットなどからの攻撃を避けるため前半の「責任ある」ということを言わざるを得ない事情はあるが、本音というか、高市政権として、今までの政権より明らかに舵を切るという姿勢を表している言葉が後半の「積極財政」ということになる。
そういう意味では、これからの注目ポイントは、各戦略についての、即ち26分野についての予算がどれだけつくのか、ということになるが、実は私はその点は、本当の本質ではないのではないか、と思っている。マーケットの意向(長期金利の推移など)を気にせざるを得ないので、そんなに無茶な財政出動はできないはずだ、という読みもあるが、より本質的には、上記1.で詳述した私なりの朝井リョウ氏の解釈に基づいて言えば、バラバラの26の主体(各戦略)を繋ぐ何かが必要だと感じている。
日本を世界で輝かせ、圧倒的な成長を取り戻すとは言っても、今の厳しい世相(米中二強が、AIやロボティクスなど、どんどん先端技術で先行する中、日本国内では少子高齢化が極端に進んでいってしまっている現象など)では、それは容易ではない。もちろん、「26」を繋ぐものは、日本への愛であると、ナイーブなことを言っても始まらない。そして、上記のとおり、お金(予算)には限界があるので、お金も「繋ぐもの」とはなり得ない気がする。
「26」に通底するもの、補助線的に示して、現代日本社会にその戦略の実現・成功のために必要だと全体を浮かび上がらせる「何か」とは、私見では、「最後は、民間の皆さん、一人一人の日本人が頑張るしかない」という厳しい現実である。
中国が国家戦略を定めてそれが功を奏しているのも(例:中国製造2025)、アメリカでGAFAMなどのIT・AI関連企業が次々に誕生して伸びているのも、結局は、民間企業/国民にチャレンジ精神がみなぎっているからである。政府が主導しているから、政府がお金をたっぷり出しているから、というのは私に言わせれば副次的な理由である。
「26」を繋いで、活気ある日本をつくり上げるべく、しっかりと引かなければならない補助線、新たな世相・世情を築き上げるために必要な言説とは、「民間人、国民一人一人が頑張るしかないよ」という厳しさだと思う。「皆さんは悪くない。悪いのは政治だ。だから、政治・政策がよければうまくいくはず。」という甘言に惑わされてはいけない。果たして、高市政権が、その真実を新しいドラマの通奏低音として奏でて、「26」をしっかりと繋ぐことができるのか。
見通しは必ずしも明るくないが、政権・政府は、そのことをしっかりと伝え、企業や国民の一層の奮起を促さなければならないと思う。そうでなければ、「26」は残念ながら画餅となるであろう。
さて、このエッセイだが、1.と2.と、一見異なる二つの独立事象を並べる形で文章を紡いできた。果たして後半で納得感ある補助線を引きながら、うまく繋げることができたであろうか。小説や映画の評価を、高市政権の施策と結びつけることにはやはり無理があったであろうか。望むべくもないが、朝井リョウ氏の感想を聞いてみたいものである。







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