
2026年6月2日付けの日経新聞がグリーア米通商代表へのインタビューを元に、トランプ政権の対中政策の転換を論じている。
習近平主席の統治が続くかぎり、中国は西側が望む改革はおろか、中国の改革派識者が望むような改革も期待できない、という意味で、この記事の結論に異論はない。
しかし、トランプ大統領が貿易戦争を通じて、中国に政策転換や改革を促す狙いだったとは思えない。目指していたのは、貿易赤字を減らすとか中国に奪われた工場とジョブを取り戻すといった目に見える成果であり、それを可能にする政策についても「関税をかければ赤字は減る」というお目出度い認識以上のものはなかったと思う。
トランプが貿易戦争の幕引きを図っているのは事実だが、それは当初「不振の中国経済は輸出頼みの一本足打法だから、高関税をかければギャフンと参って妥協するだろう」という能天気な勝手読みをしていたトランプが中国からレアアースの反撃を食らったからだ。
グリーア代表は政策変更の理由を「改革は望めないと悟った」と中国側の原因に求めているようだが、勝手読みが通じずに想定外の反撃を食った言い訳をしているだけに聞こえる。
レアアースの反撃は、スポーツに喩えると柔道の関節技のように一発で決まった。トランプはそれ以降「中国とは喧嘩できない、うまく折り合いを付けて行くしかない」と180度態度を軟化させて、まるでヒトラーの台頭に妥協を繰り返した英首相チェンバレンのような宥和主義者になってしまった。
米国や日本など「同盟国」側は「フレンドショアリング」などの調達先を多様化してレアアースの楔を抜く努力を始めたが、抜くのに5年、10年はかかるという。少なくとも2期目トランプ政権の残る3年の任期中は、宥和主義的な対中政策が続くのだろう。
ただ、先月の首脳会談で米中が合意した「建設的、戦略的な安定関係」がずっと続く訳ではないだろう。両者の間に信頼関係がなく、互いに時間稼ぎのつもりだからだ(中国にとっては米中の国力逆転がもっと明白になるまで、米国にとってはレアアースなどの楔が抜けるまでの時間稼ぎ)。
同じく6月2日付けの朝日新聞で、日本総研の呉軍華さんが「いまの米中関係は『冷和(コールド・ピース)』、『次の衝突の前奏曲』だと述べているのは、けっこう刺さるものがある。
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以上述べたのは前置きだ。このポストを思い立ったのは、記事の次のくだりにチョイとばっかしツッコミを入れたくなったからだ(以下はマイナーな論点なので、いきなり「本題」に入っても唐突に見えるかも、と考えて、上の前置きを置いた)。
中国製造2025はITや航空宇宙、EVなど戦略分野に補助金を集中投入し、競争力を一気に上げて世界の覇権を奪いにいく産業政策。トランプ政権は産業ロボットや航空部品などに関税を発動してこれを潰しにかかった。
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米中交渉団は19年5月、中国の補助金の削減や技術移転の制限など包括合意の寸前までこぎつけた。ところが北京から届いた修正文書は補助金などの構造改革案をすべて削除。「中国首脳は決して譲らないレッドラインを明確にした」(グリア氏)
わずか10年足らず前の米中関係なのだが、記憶の風化は速いというか、この記事みたいに経済視点だけで要約してしまうと、何だか露光過多の白黒写真みたいで、双方に見え隠していた様々な陰影や襞(ひだ)が全部飛んでしまう感じだ。
この頃の米中関係を執拗に追いかけていた者として振り返ると、当時の顛末はこんな風に見えた。
1. 1期目トランプ政権の対中姿勢(最初は北朝鮮問題で米中タッグマッチ)
北朝鮮は2006年から累次核実験を繰り返してきたが、2017年9月に行われた核実験は推定地震マグニチュードが6を超えるほど規模が大きかった。北朝鮮は「水爆の実験が成功した」と発表して、世界に今さらながら衝撃を与えた。
北朝鮮は併行してICBMの開発も進めて、同年7月には射程1万km、米本土に届く「火星14号」の発射に成功していた。
発足したばかりの1期目トランプ政権は、これで危機感を強めて、にわかに北朝鮮対策に注力し始めた。
同時に習近平政権も累次の制止にも応じず核配備を進める北朝鮮への不快感を強めた。2017年9月の核実験では、中国吉林省でも大きな揺れが観測されたので尚更だ。
この結果、2017年11月には、米中双方の軍制服組高官が秘密裏に北朝鮮有事の対応策を協議した。年末にはティラーソン国務長官が講演で米中が北朝鮮有事対策で協議したことを公に認めるなど、中国が北朝鮮問題で米国と手を組む姿勢が明らかになった。
同盟国中国のこの対応に、今度は金正恩が衝撃を受けて、2018年の新年詞で韓国平昌五輪に参加意向を表明するなど和平路線に転じ、米国との首脳直接対話を目指し始めた。4月には「米国と虚心坦懐に対話する用意がある」と表明、同月行われた韓国との南北首脳会談では「朝鮮半島の完全な非核化」も宣言した。
これでトランプはすっかり乗り気になって、同年6月にはシンガポールで初の米朝首脳会談が実現した・・・
と、ここまでの展開で、習近平政権は発足したばかりのトランプ政権に効果てきめんのアシストを提供、米中の新たな関係作りは「上々の滑り出し」と自己採点したに違いない。
2. 一転対中強硬姿勢に転じたトランプ政権:トランプに「恩を仇で返されて」衝撃を受けた習近平
トランプ政権は2017年9月の北朝鮮核実験の前月から通商法301条に基づく対中調査を始めていた。この報告書が18年3月に「中国による知的財産権の侵害や技術の強制移転」を認定すると、7月に産業ロボット、電子部品、自動車など340億ドル分、318品目を対象に25%の関税を引き上げる第1弾の対中制裁を発動、以後妥協しない中国を相手に毎月のように品目を追加した。
米朝関係が好転するや、アシストした中国に後足で砂をかけるような真似をするトランプに対して、きっと習近平は「恩を仇で返しやがって…」と愚痴っていたと思う。
しかし、習近平と中国にもっと甚大なショックを与えたのは、同年10月にペンス副大統領がハドソン研究所で、「米中新冷戦」の幕開けとも評された強硬な演説を行ったことだった(この演説は皆さんも記憶にあるでしょう?)
3. 米国を驚かせた習近平政権の対中譲歩:ライトハイザーすら「誑(たら)し」こんだ劉鶴の交渉
同じ頃中国では景気の悪化が取り沙汰されていた。18年通年のGDP成長率は6.6%と発表されたが、人民大学の某教授が「本当の成長率は1.67%とかマイナス成長だったという内部報告がある」と述べた爆弾講演のビデオが拡散して大きな波紋を呼んだことを覚えている方もおられるだろう。
これで党や政府に「景気の落ち込みを防げ!貿易交渉もトランプに譲って円満解決しろ!」という声が高まったと言われる。
2019年初めにはワシントンで「中国側が米国も驚くような高い輸入目標を出してきた」とも聞いた。習近平主席も対米交渉に当たった劉鶴副総理に対してそういう交渉方針を指示し、ゴーサインを出していたはずだ。
19年3月には米側交渉責任者ライトハイザー代表が米国のラジオ番組に出演して「中国には改革を進めることが中国の国益になると信ずる人々がいる。彼らと協力して交渉すべきだ」と発言した。
この物言いは、昨今「間違っていた」と批判されている「対中関与政策」にそっくりだ。私は「ライトハイザーはいつから関与政策論者になったのか」と驚くと同時に、「劉鶴はライトハイザーとの交渉をよほど上手く進めているのだろう。交渉は早くまとまるかもしれない」と感じたものだ。
4. 19年4月「中国卓袱台返し」事件起きる:中国が交渉文書案を破棄、それでも龍鶴は罷免されなかった
ところが、翌4月末、中国側はまとまりかけていた合意文書案を突然、原形をとどめないほど修正、簡略化して米国側を落胆、激怒させる事件が起きた(中国卓袱台返し事件)。
原因については、国有企業補助金問題や技術移転問題の交渉が最終局面で暗礁に乗り上げたとか、「米側の要求に従うと、全人代抜きで法律改正を約束することになるが、それは主権国家としてあり得ない」等々の説がある。
いずれにせよ、交渉が終盤に至り、合意案が中国内部で回覧されたときに、強い反対が起きたことがうかがわれた。党内に批判文が出回ったという噂も流れた。外交交渉の過程で内部に異なる意見が衝突することは、中国でもままあるだろうが、今回のように対立が起きたことが外部からも観察できるのは珍しい。
劉鶴副総理がボスの習近平主席に十分相談せずに軟弱な交渉をしてしまったのだろうか……そんな迂闊(うかつ)な人ならば、習近平主席の信任を得て副総理にまで出世するはずがないし、事件の後も劉鶴が罷免されなかったことは、彼の一存で交渉を誤ったわけではないことの証拠になる。
しかし、党内には執行部の交渉の進め方に不満な保守派、強硬派もいた。合意案の中には、ファーウェイ社に対する半導体禁輸措置の解除といった内容も含まれていない・・・そのことは不公平感をいっそう高めただろう。彼らが最終局面で出てきた合意案を見て反対論が爆発、習近平主席も裁可済みの妥結案を吹き飛ばした……それが真相だったのではないか。
簡単に言えば、習近平主席は交渉の進め方について、党内左右、妥結派と強硬派のバランスの取り方を誤って保守派の怒りを買ってしまったのではないか。
興味深いのは、卓袱台返し事件の数週間後、習近平主席が革命聖地の一つである江西省赣州(ガンジョウ)を訪問、米中関係を新しい長征に喩えて、国民にも「戦いに参加する」よう呼びかけたことだ(China Daily、新華社電)。同地はレアアースの産地でもあるため、米国のハイテク制裁措置に対抗してレアアースの対米輸出禁止措置をほのめかしたのだとも言われた。
当時の私には左右のバランスを取り誤った習近平主席が保守派に詫びを入れている姿に見えたが、党内対立が卓袱台返し事件を生んだという私の推論が誤っていないとすれば、こんにち中国が活用し始めたレアアースの関節技には、卓袱台返し事件を契機に習近平がレアアース産地で新しい長征の開始を誓うという前史があったことになる。
この記事はグリーア代表の言葉を借りて「北京から届いた修正文書は補助金など構造改革案をすべて削除。「中国首脳は決して譲らないレッドラインを明確にした」と言うが、実際にはもっと複雑なジグザグプロセスがあったのだ。
昨今は3期目習近平がいよいよ独裁ぶりを発揮しているせいで、過去の事件も含めて、万事「左巻きで保守的な習近平の意向」で片付けられてしまいがちだが、中国には習近平より左巻きな保守派も大勢居て、現実の中国政治過程はもっと複雑だ。
新聞記者さん達は転勤もするし、担当するテーマも変わるが、私らのように中国をライフワークとして追いかけている人間にとっては、中国が雑駁な要約で片付けられる存在では、面白くないのだ。
編集部より:この記事は現代中国研究家の津上俊哉氏のnote 2026年6月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は津上俊哉氏のnoteをご覧ください。







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