安定的な皇位継承をめぐる国会協議で、衆参両院の正副議長が旧宮家の男系男子を皇族の養子として迎える案を取りまとめた。皇族数の減少に対応するため、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する案と並び、旧宮家の男系男子を養子として皇族に復帰させる案が柱とされている。
「門地による差別」を作り出す憲法違反
しかし、この旧宮家養子案には重大な憲法上の疑義がある。最大の問題は、現在の旧宮家の男系男子は皇族ではなく一般国民だという点だ。その一般国民の中から、特定の家柄に属する男性だけを選び、皇族になる資格を与えることは、憲法14条が定める「法の下の平等」や「門地による差別禁止」に抵触するおそれがある。
日本国憲法14条1項は「すべて国民は法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と定めている。旧宮家の男系男子に限定して皇族となる道を開くことは、まさに出生や家系、すなわち門地(家柄)による差別ではないかという疑問を避けられない。
現行の皇室典範9条は、天皇および皇族は養子をすることができないと定めている。旧宮家養子案を実現するには、この禁止規定を改正する必要がある。しかもその対象は、単なる一般国民ではなく「皇統に属する旧宮家の男系男子」に限られる。つまり、一般国民の中に、皇族になれる国民となれない国民という新たな区別を設けることになる。
皇統に属する男系男子に養子資格を限定するなら、一般国民の中での門地による差別に該当するおそれがあるとも指摘されている(東大PP)。旧宮家といっても、その血統が天皇家とわかれたのは600年以上前であり、遺伝的には天皇家と共通点はない。
政府側は、憲法2条は「皇位は世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めている。皇室制度そのものが世襲を前提にしている以上、皇族の範囲を法律で定めることは憲法が予定しているという理屈である。
内閣法制局も、憲法2条の世襲規定を根拠に、皇室制度は一般国民の平等原則とは異なる特別制度だという立場をとってきた。旧宮家養子案についても、皇位の安定的継承という目的に照らして憲法上許容されるとの考え方が示されている。(J-STAGE)
しかし、この説明には弱点がある。憲法2条が認めているのは「皇位の世襲」であって、一般国民の中から特定の家柄の人だけを選んで新たに皇族にすることまで認めているわけではない。すでに皇族である人々の地位や皇位継承順位を定めることと、一般国民から家柄を基準に皇族を選び出すことは、法的に同じではない。
何のために養子を迎えるのか?
また今回の案では、旧宮家から養子に入った本人には皇位継承資格を持たせない方向だと報じられている。日本経済新聞も、正副議長案について「旧宮家から養子容認、皇位継承資格は持たず」と伝えている。
そうであれば「皇位の世襲を守るため」という合憲論の根拠はさらに弱くなる。皇位継承資格を持たない人を皇族にする制度が、なぜ憲法2条の「世襲」から当然に導かれるのかは明確ではない。
さらに問題なのは、旧宮家の男系男子に限定することの合理性である。なぜ旧宮家なのか。なぜ男系男子だけなのか。なぜ現在の女性皇族やその子孫ではなく、戦後に皇籍を離脱して長く一般国民として暮らしてきた旧宮家の男性なのか。この点について、国民が納得できる説明は十分になされていない。
立憲民主党の議論でも、内閣法制局が養子案を許容する立場を示す一方で、衆参の法制局は、門地差別に該当するとする有識者もおり、許容・違反の両論が成り立ち得ると説明したとされる。(立憲民主党) つまり、国会内部でも憲法上の疑義が完全に解消されているわけではない。
皇室の制度改正にはオープンな審議が必要だ
皇室制度は、たしかに一般の制度とは異なる。天皇制そのものが世襲を前提としており、完全な平等原則だけで説明できるものではない。しかし、だからといって、一般国民の中から特定の血筋の男性だけを選び、皇族になる資格を与える制度まで無制限に認められるわけではない。
むしろ、皇室制度が国民統合の象徴であるからこそ、その制度変更には憲法上の明確な根拠と国民的な納得が必要である。旧宮家養子案は、男系維持という結論を先に置き、そのために「一般国民から家柄で皇族を選ぶ」という極めて例外的な制度を導入しようとしているように見える。
これは単なる保守かリベラルか、男系か女系かという政治的対立にとどまらない。問題の核心は、憲法が禁じる「門地による差別」を、皇室制度の名の下にどこまで許すのかという点にある。
憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定める。国民の7割以上が女系天皇を容認しているのに、なぜ一部の政治家が、秘密会で国民の総意に反する制度改正をするのか。この問題は国会でオープンな審議が必要である。







コメント
記事の指摘は鋭い。憲法14条は「すべて国民は法の下に平等」とし、門地による差別を禁じます。
一方、憲法2条は「皇位は、世襲のもの」と定めます。
世襲とは血統による継承であり、まさに門地による区別そのものです。
一方で門地差別を禁じ、他方で門地による継承を制度の根幹に据える――この矛盾は何でしょうか
皇族も広義の「国民」ですが、その地位は特殊です。
天皇は国政の権能を持たず選挙権もなく、皇族も婚姻・職業選択・参政権が制限されます。
これは世襲の象徴制度を採用した論理的帰結であり、ゆえに皇族には第3章の人権規定が一般国民と同じ形では適用されない、というのが通説です。
もし同じ強度で適用されるなら、皇室典範の制約はすべて違憲となるはずで、それらが現に維持されている事実が証左です。
規範構造上も、天皇・皇室を定めた第1章は特別規定として、一般規定たる14条に優先します。
皇室における血統に基づく区別は、14条が禁じる「差別」ではなく、2条が定める「世襲」の当然の内容なのです。
そして誰を皇族とするかは、2条が「皇室典範の定めるところにより」と国会の立法に委ねた事項です。
皇族の範囲は固定不変ではなく、立法政策に委ねられています。
典範9条が定める養子禁止も憲法の直接の要請ではなく立法政策の選択であり、これを改正することも立法裁量の範囲内です。
該当コメントで証明されている命題は、
いま問題とされている命題と完全にズレており、
「まったくの的外れ」そのものの構造というのが率直な意見である。
養子案に向けられた門地差別の疑いが争っているのは、
該当コメントで論証された装置(皇族の特殊性、第1章=特別規定、世襲の当然の内容)ではなく、
「国家が一般国民のなかから特定家系の者を血統を理由に選び出し、皇族に引き上げる」点であり、
両者の間には論証されていない飛躍がある。
なぜなら第1章という特別規定が覆うのは、
「すでに皇族である人々」であって、
「いまだ一般国民である人々を選別する国家の行為」ではないからだ。
旧宮家の男系男子は、
選別されるその瞬間には一般国民であり、
14条の完全な保護下にある。
特別規定は皇族を律するのであって、
「どの一般国民を皇族にするか」という、
選別の場面にまで自動的に及ぶことは、
この反論が前提しているだけで論証していない当の争点なのだ。
これは池田氏の記事で紹介された、
東大公共政策大学院の片岡レポートで、
引かれた区別と同様であり、
該当コメントの型はモット・アンド・ベイリーの誤謬に該当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC
また
> もし同じ強度で適用されるなら、皇室典範の制約はすべて違憲となるはずで、それらが現に維持されている事実が証左です。
についても、
的が1つズレている。
この「証左」が示すのは、
すでに皇族である者が権利を制限されることの合憲性であって、
一般国民のあいだで皇族になる資格を、
血統で付与することの合憲性ではない。
population(皇族か一般国民か)も、
方向(権利の喪失か特権の付与か)も、
それぞれ違う事例を証左にしている。
門地差別の疑いは
「一般国民のあいだに皇族になれる者となれない者の線を引く」
点に向いており、
皇族の権利制限が維持されている事実は、
それに対する反証になっていない。
さらに
> 皇族の範囲は固定不変ではなく、立法政策に委ねられています。
> 典範9条が定める養子禁止も憲法の直接の要請ではなく立法政策の選択であり、これを改正することも立法裁量の範囲内です。
についても、
独立した飛躍がある。
「立法政策である」ことは、
「14条の審査を免れる」ことを意味しない。
立法裁量はつねに憲法(14条を含む)によって枠づけられているからだ。
しかも門地は14条1項後段の列挙事由であり、
これを基準とする区別には厳格審査が妥当する。
すなわち「立法裁量の範囲内」
などと緩やかに推定するのではなく、
合憲性の推定を排し、
推進側に「真にやむを得ない目的」の立証を課す土俵に乗る。
さらに特定家系を名指す立法は、
法の一般性原則による制約も受ける。
該当箇所は「立法裁量の範囲内」と書くことで、
まさに争点である審査の厳格さを、
結論として先取りしてしまっているのである。
総じて該当コメントは、
仮に全面的に認めたとしても、
池田氏(および門地差別論)への反論として成立していない。
なぜなら池田氏らが問うているのは
「一般国民の血統選別」であり、
「皇室内部の区別」という答えはすれ違っているのだ。
金尾泰之さん。ご返答ありがとうございます。
今回、金尾さんと私の見解にずれが生じている背景には、憲法や法律の捉え方の違いがあるように感じています。
まず前提として、憲法に定められている権利が、いかなる場合でも無条件・絶対的に保障されるわけではない、という点があります。
最も分かりやすい例が、憲法第二十一条が定める「表現の自由」です。
表現の自由は確かに憲法上の重要な権利として保障されています。しかし、たとえば新聞などで他者のプライバシーを侵害する記事を書くことは許されません。表現の自由が憲法で保障されているにもかかわらず、です。
これはなぜかというと、ある法と別の法が衝突した場合には、そのどちらかが優先され、もう一方が一定の制約を受ける、という調整が働くからです。
憲法で定められていても、互いにぶつかる場面では、状況に応じて優先順位がつけられます。
私がお伝えしたいのは、まさにこの点です。
「憲法に書かれているから絶対に守られる」「だから今回の件は重大な憲法違反だ」という単純な構図ではなく、複数の法の中で判断されるべき問題だ、ということです。
その上で、それでもなお金尾さんや池田さんが今回の件を「重大な憲法違反である」と確信されるのであれば、その判断を最終的に下せるのは裁判所です。
ご自身の主張に正当性があるとお考えなら、訴訟という形で司法の判断を仰ぐことを、一つの選択肢としてご提案いたします。
該当コメントについては、
論拠が反証のたびに入れ替わって後退しており、
先のコメントで挙げたモット・アンド・ベイリーの誤謬と、
論点ずらしの同じパターンの発現が見受けられる。
最初に主張の骨格からして、
まったく的外れな藁人形を論破している、
という論理破綻が見受けられる。
私も池田氏も、
・憲法上の権利は無条件・絶対ではない
・法と法が衝突すれば調整される
・だから『書いてあるから絶対守られる』
などとという単純な構図を主張していないからだ。
門地差別論は「14条に書いてあるから絶対だ」ではなく、
これは門地(後段列挙事由)に基づく区別だから、
合憲性の推定が外れ、厳格審査に乗る。
推進側に『真にやむを得ない目的』の立証が課されるが、それを満たせていない。
という、
まさに法益衡量の構造そのもので立っている。
誰も言っていない「絶対無条件論」をでっち上げ、
それを倒して勝ったつもりになっているのは、
典型的な藁人形論法であり、
該当コメントは反論として成立していない。
また例として、
表現の自由とプライバシー権という、
同一の場面で正面衝突する、
二つの実在する権利・利益のあいだの調整をあげているが、
養子案では14条の門地差別禁止と
「衝突するもう一方の法」、
対抗法益を具体的に名指しできておらず、
「絶対ではない」という一般論を反復しているにすぎない。
考えられる候補は2条の「世襲」だろうが、
2条の世襲が覆うのは、
皇室内部の血統継承であって、
一般国民から血統で選別する国家行為ではない、
という指摘は先コメントで述べた通りである。
最後に(これはあえて言うまでもないが)、
締めの「最終判断は裁判所だ、確信があるなら提訴を」という一節は、
丁寧な体裁を装ってはいるが、
論証としては二重に的を外しておりまったく中身がない。
1. 論点先取の裏返し
「司法しか判断できない」ということは、
裁判所が判断するまで合憲とも違憲とも確定しない、
ということだ。
それはむしろ
「自明に合憲とは言えない(だからこそ司法判断を要する)」という、
こちら側の結論を相手が認めたに等しい。
当初の「合憲だ」という断定を、
自ら「未確定だ」へと後退させているのだ。
2. 論点回避
「正しいと思うなら裁判で」は、
提示された論証に中身で応答することの放棄である。
しかし日本の付随的違憲審査制では、
一般国民の原告適格・事件性の壁が高く、
「養子案」については提訴の入口自体が狭い。
相手が司法に持ち込みにくいことを承知のうえで
「司法へどうぞ」と促しているなら、
それは反論ではなく体よく場を去る所作である。
https://literacy.agora-web.jp/category/%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%93%8D%E4%BD%9C%E3%81%A8%E8%A9%AD%E5%BC%81%E3%83%BC%E8%AB%96%E7%82%B9%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC/%E8%AB%96%E7%82%B9%E5%9B%9E%E9%81%BF/
該当記事が特段鋭く立てているのは、
> また今回の案では、旧宮家から養子に入った本人には皇位継承資格を持たせない方向だと報じられている。日本経済新聞も、正副議長案について「旧宮家から養子容認、皇位継承資格は持たず」と伝えている。
> そうであれば「皇位の世襲を守るため」という合憲論の根拠はさらに弱くなる。皇位継承資格を持たない人を皇族にする制度が、なぜ憲法2条の「世襲」から当然に導かれるのかは明確ではない。
という難詰であろう。
これは「養子案」をめぐって先行した、
「皇位継承の手段ではなく、皇族数確保策として提示された」
という論点を憲法論の次元で問い直したものといえる。
「養子案」の合憲論は、
上記をはじめ先行する個々の論点との整合を図ろうとした、
遡及的補強の産物といえるだろう。
この種の後付けは、
結論が先に定まっている以上、
継ぎ足せば継ぎ足すほど、
論理の綻びを拡大させるものである。
そして「養子案」の継承資格を付与しない設計が、
憲法2条「世襲」を根拠とする合憲論との乖離をさらに押し広げ、
合憲性の自明性をいっそう損なうものとなり果てている。
なんとも残念でならない事例である。
金尾泰之さん、ご返答ありがとうございます。
憲法解釈の細かい法技術論はいったん横に置いて、広い視点から確認させてください。
金尾さんは「皇族の養子」や「門地」を問題にされていますが、世界各国の王室・皇室を見渡せば、養子縁組によって王族の身分を得る制度や事例、結婚によって民間から王族・王室の一員になる制度などは、特段の問題もなくごく普通に存在しています。金尾さんは、こうした海外の王室制度も含めて、王室の養子や婚姻が、すべて「問題がある」とお考えなのでしょうか。
■「問題ない」とお考えの場合
現在の日本における議論も、その「問題ない状態」として現実的に制度設計を調整しているに過ぎない、というのが私の受け止めです。
■「問題がある」とお考えの場合
そもそも皇室制度そのものへの見方、前提とする価値観が根本から異なるため、おそらくこれ以上どれだけ言葉を尽くしても、議論は噛み合わないでしょう。
■「そこまで視野に入っていなかった」という場合
失礼ながら、憲法しか見えていないのだとすれば、このテーマについては視野が狭すぎると言わざるを得ません。
皇室のような国家の根幹に関わる制度設計の議論は、ドメスティックな理屈に終始するのではなく、
より広い視野で捉える必要があるのですよ
該当コメントに至っては、
論証を一つも追加せず、
・論点ずらし
・偽の三択
・優位を装う見下し
だけで構成されており、
過去コメント群からさらに質の落ちた、
空虚な発信と言わざるを得ない。
> 憲法解釈の細かい法技術論はいったん横に置いて
該当箇所が返答全体の性格を決めている。
門地差別の論点はほかでもない憲法解釈の問題であり、
前回まで「合憲だ」と憲法論を述べていたにもかかわらず、
その憲法論で対抗法益を示せず詰まった結果、
最終的に「横に置け」と返すのは、
土俵そのものを降りる宣言にほかならない。
これは論点の格上げではなく、
負けている土俵からの撤退を、
「視野の広さ」に偽装したものである。
一見して中身にみえる唯一の主張である、
> 世界各国の王室・皇室を見渡せば、養子縁組によって王族の身分を得る制度や事例、結婚によって民間から王族・王室の一員になる制度などは、特段の問題もなくごく普通に存在しています。
は事実として正しいが、
門地差別論への反論にはならず、
むしろ発信者の従来の合憲論を内側から破壊している。
第一にやはり「まったくの的外れ」という点である。
門地差別論が問うている是非は、
「養子で皇族になる制度一般」ではなく、
「特定家系の男系男子に限定して選別すること」である旨は、
先の発信群で繰り返し述べてきた論点である。
海外に養子・婚姻の制度があることは、
該当限定の正当化に何一つ寄与しない。
婚姻で民間から王室に入る制度は、
まさに家柄を問わない開かれた経路であって、
むしろ引き合いに出すほど、
「なぜ旧宮家の男系男子だけなのか」
という限定の恣意性は際立つ結果となる。
第二に致命的なのが、
発信者は過去コメント群にて
「皇室は特別で、海外の一般的な人権・平等の議論とは違う」という、
日本の皇室の特殊性を合憲論の支柱にしてきた一方で、
此度は「海外の王室では普通だ」と国際標準を持ち出した点である。
特殊だから比べるなと発信を繰り返しておきながら、
都合が悪くなれば海外と同じだと返す。
古典的なダブル・スタンダードである。
さらに海外王室の趨勢を基準とするなら、
ヨーロッパ王室の大半が、
女子・女系に継承を開く方向へ進んでいることから、
結論は男系男子限定の養子案ではなく、
女性・女系の容認に向かう。
自分に不利な比較軸を、
自分から持ち込んでいるのである。
そして該当コメントの本体が、
> ■「問題ない」とお考えの場合
> ■「問題がある」とお考えの場合 > ■「そこまで視野に入っていなかった」という場合
という出口を有利に設計した誘導であるが、
これは複数の誤った前提を一つに畳んでいる。
まず藁人形論法の再演。
私も池田氏も「海外を含む王室の養子・婚姻がすべて問題だ」
などと主張しておらず、
問題にしているのは「家柄による選別の限定」であって、
「養子制度一般」ではない。
存在しない極論を割り当てて、
そこから三択を作っている。
次に偽の二分法。
「海外で普通=だから日本の今回も問題なし」
という第一の枝は、
一般的な養子制度の存在から、
特定家系限定という個別案の合憲性へと、
論証なしに飛んでいる
※最初に述べた自爆と同じである
「価値観が根本から違う=議論は噛み合わない」
という第二の枝は、
意見の相違をすべて「前提となる世界観の断絶」に格上げし、
中身の応答を放棄する口実にしている。
これは前回の「裁判所へどうぞ」と同じ、
議論からの離脱に他ならない。
そして第三の枝「視野に入っていなかったなら視野が狭い」は、
【人格に訴える論証 Argumentum ad hominem】であり、
論証をまったく含まない。
論点で勝てないとき、
相手の見識を見下すことで優位を装う、
ad hominem + 知的優越のポーズという、
典型的な所作を複合している。
これらはモット・アンド・ベイリーの誤謬の、
末期的症状として記録に値する、
なんとも非建設的な事例である。