W杯恒例の渋谷乱痴気騒ぎは共同体を失った日本の「根無草祭り」なのか

渋谷で騒ぐ若者を憂う前に

W杯になると、若者が渋谷に集まる。

代表戦に勝てば、スクランブル交差点に人があふれる。ハイタッチをする。叫ぶ。スマホを掲げる。警察官が出る。ネットでは「また渋谷か」「迷惑だ」「騒ぎたいだけだ」と批判が起きる。

もちろん、通行人や周辺住民、店舗に迷惑をかけてよい理由はない。ごみを捨てる、路上で酒を飲む、交通を妨げる、他人に絡む。そうした行為は批判されて当然である。

しかし、そこで話を終えると何も見えない。本当に問うべきなのは、なぜ若者は地元の祭りではなく、渋谷の交差点に集まるのか、ということだ。

私は、渋谷のW杯騒ぎを単なるサッカー熱とは見ていない。あれは、共同体の祭りに参加できない若者たちの「根無草祭り」である。

東京には祭りがある。しかし、誰でも担えるわけではない

東京に祭りがないわけではない。浅草の三社祭、神田明神の神田祭、日枝神社の山王祭、富岡八幡宮の深川八幡祭り。東京には、全国的にも知られる巨大な祭りがいくつもある。

しかし、これらは単なる観光イベントではない。三社祭は、浅草氏子44ヶ町の町内神輿約100基が神社境内に参集する。神田祭では、氏子108町会が有する大小200基の神輿に明神様の御神霊を遷す神事が行われる。山王祭の神幸祭も、広範な氏子町内を巡る天下祭である。

つまり、東京の祭りは開かれているようで、実は深く地域に根ざしている。観光客として見ることはできる。沿道で写真を撮ることもできる。屋台で食べることもできる。

だが、担い手になるには、町会、氏子、地域の顔見知り、半纏、準備、後片付け、先輩後輩の関係に入らなければならない。

本来の祭りとは、単に騒ぐ場ではない。若者の身体性やエネルギーを、地域の役割に変換する装置だった。神輿を担ぐ。山車を引く。太鼓を叩く。提灯を運ぶ。神酒所を手伝う。交通整理をする。終わった後に片付ける。先輩に怒られ、後輩をまとめ、地域の顔見知りに見られる。

祭りは、若者を群衆にするのではなく、担い手にしていた。

ワンルームの若者に「氏子」はない

ところが、現代の東京の若者は、その共同体に接続しにくい。

地方から進学や就職で東京に来る。住むのはワンルームマンション。朝は大学や職場へ向かい、夜はコンビニ、チェーン店、SNS、動画配信、推し活、ライブ、スポーツバーの世界に戻る。

住民票はある。家賃も払っている。ごみも出す。道路も駅も使う。しかし、町会には入らない。神社の氏子でもない。近所の人に名前を知られていない。地域の祭りに呼ばれることもない。

これは感覚論だけではない。東京都の将来世帯数予測によれば、2020年時点で東京都の一般世帯のうち単独世帯は50.2%、区部では53.5%に達している。東京はすでに、世帯の過半が一人暮らしの都市である。

さらに東京都の「町会・自治会活動に関する調査」では、20代の58.4%、30代の62.5%が町会・自治会に加入していないと回答している。単身世帯では67.6%が未加入であり、賃貸集合住宅で加入している割合は15.9%にとどまる。

つまり、東京の若者は都市には住んでいる。しかし、地域には所属していない。ここに、渋谷の騒ぎの本質がある。

東京には祭りがある。だが、ワンルームマンションと大学、職場を往復する若者にとって、その祭りは「参加するもの」ではなく「眺めるもの」になっている。

共同体の祭りに入れない若者は、渋谷へ向かう

では、若者の祝祭欲求はどこへ行くのか。消えるわけではない。

若者には身体がある。群れたい欲求がある。叫びたい瞬間がある。自分が大きな何かの一部になりたい感覚がある。これは善悪以前の人間の性質である。

昔なら、それを地域の祭りが受け止めた。学校行事、職場の行事、地域スポーツ、青年団、町内会、神社の祭礼が受け皿になった。

しかし、今は違う。地元の祭りには入れない。町会には入らない。会社の飲み会は嫌われる。大学の自治も弱い。宗教的な祝祭にも接続していない。

その結果、W杯、ハロウィン、カウントダウン、優勝騒ぎ、推し活イベントが、疑似的な祭りになる。

渋谷はその舞台としてあまりに都合がいい。誰の地元でもあり、誰の地元でもない。商業施設があり、駅があり、スクランブル交差点があり、スマホを向ければすぐ映像になる。都市の匿名性とメディア性が、若者の祝祭欲求を吸い寄せる。

そこには神社も町会もない。氏子も保存会もない。準備も後片付けもない。あるのは、スマホ、SNS、警察、群衆、メディアである。

共同体の祭りは、若者に役割を与える。根無草祭りは、若者を群衆にする。

コストを負うのは誰か

問題は、ここからである。根無草祭りには、担い手がいない。責任者もいない。終了後の後片付けを引き受ける共同体もない。

そのコストは誰が負うのか。警察官である。渋谷区である。周辺店舗である。住民である。通行人である。清掃する人である。そして最終的には納税者である。

若者は一晩だけ高揚して帰る。メディアは「渋谷が熱狂」と映像を撮る。企業は代表戦や都市の熱量を広告やイベントに利用する。だが、騒音、ごみ、路上飲酒、警備、交通整理、条例対応は公共側に残る。

渋谷区は、ハロウィーンや年末カウントダウンなどで来街者による迷惑行為、ごみの放置、騒音などが深刻化したとして、2024年10月から渋谷駅周辺の公共の場所における飲酒を、午後6時から翌朝5時まで通年で禁止する条例改正を施行した。

これは一見、当然の秩序対策に見える。しかし別の角度から見れば、共同体が失った祭りの処理を、行政と警察が後始末しているということでもある。

祭りの担い手を作らず、若者を地域に接続せず、商業都市として人を集めるだけ集める。そして問題が起きると、警察官と条例で押さえ込む。これは「若者の民度」の問題というより、都市設計の失敗である。

必要なのは「騒ぐな」ではなく「担え」である

では、どうすればよいのか。単に「渋谷に来るな」と言えばよいのか。ハロウィンもW杯もカウントダウンも禁止すればよいのか。それでは、問題は地下に潜るだけだろう。

必要なのは、若者の祝祭欲求を否定することではない。若者を単なる消費者や迷惑な群衆にせず、担い手に変えることである。

代表戦や大規模イベントでは、公認のパブリックビューイングと滞留場所を用意する。終了後の導線を設計する。参加者に清掃や誘導ボランティアへの参加を促す。イベント主催者、商業施設、飲食店、広告で利益を得る企業に、警備や清掃の負担を明確に求める。

地域の祭りにも、若者が一日だけでも参加できる入口を作るべきだ。町会加入を前提にしすぎると、ワンルームの単身者は入れない。担ぎ手不足を嘆くなら、外から来た若者をどう受け入れるかを考える必要がある。

もちろん簡単ではない。祭りには歴史がある。地域の秩序がある。誰でも入れればよいという話ではない。むしろ安易な観光イベント化は、祭りを壊す危険もある。

それでも、若者を完全に外側に置いたままでは、祝祭は渋谷の交差点に噴き出す。騒ぐな、では足りない。担え、である。

問題は若者ではなく、若者に役割を与えられない社会である

渋谷で騒ぐ若者は、三社祭や神田祭の外側にいる若者である。

東京には祭りがある。しかし、その祭りは氏子と町会の世界に根ざしている。ワンルームマンションに住み、大学や職場と部屋を往復する若者にとって、東京の祭りは参加するものではなく、眺めるものになった。

だから彼らは、渋谷の交差点で根無草の祭りを始める。もちろん、迷惑行為を正当化する必要はない。だが、若者を叩くだけでは何も変わらない。

若者は祭りを壊しているのではない。祭りを持てない社会の中で、祭りの残骸を拾っているだけだ。

問題は若者の民度ではない。都市に住む若者を、地域の担い手に変えられない日本社会の失敗である。

【出典リスト】

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント