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正直に言う。「水は食べものだ」と最初に聞いたとき、鼻で笑った。
水は飲むもの。喉が渇いたら飲む。それ以上でも以下でもない。小学校の理科でそう習ったし、疑ったこともなかった。ミネラルウォーターだの水素水だの、その手の話には昔から警戒心が強いほうだ。だから今回も、また怪しいやつか、と身構えていた。
『水というたべもの』(有馬ようこ 著)ホリスティックライブラリー出版
きっかけは、グルジェフだった。100年ほど前のロシアに、ゲオルギー・グルジェフという妙な思想家がいる。彼は「人間は三つの食べものを食べている」と言った。一つ目は口から入れる食物。二つ目は呼吸で取り込む空気。そして三つ目が——五感で受け取る「印象」。目に映る景色、耳に届く音、肌に触れる風。それらも人を養う糧なのだ、と。
うさんくさい。そう思うだろう。私もそう思った。
ところが、だ。この三つを現代の生化学に並べてみると、妙に符合する。食物は代謝の材料になり、空気は酸素として代謝を回し、印象は神経系を通じて体の状態を整える。顕微鏡もろくにない時代に、ここまで直感で当てていたのか——と、少し背筋が寒くなった。まあ、まぐれかもしれない。それは認める。
で、本題。この三つを貫く一本の軸がある。水だ。消化も、酸素の運搬も、神経の伝達も、全部が水の上で起きている。水がなければ何も動かない。要するに水は、三つの食べものが芝居を打つための「舞台」なのだ。ここまでは、まあ、納得できる。
問題はこの先である。本書はこう言う。水は、そのままでは食べものにならない。糖・塩・呼吸・光——この四つと響き合って、初めて「食べもの」になる、と。
塩で下ごしらえ、糖で火を入れ、呼吸で酸素を整え、光で仕上げる。まるで料理だ。……いや、比喩が過ぎるか。ただ、こう並べられると、朝の習慣がまるで違って見えてくるのは事実だ。一杯の水に塩をひとつまみ。果物をかじる。深呼吸。窓を開けて朝日を浴びる。どれも、私が何十年もなんとなくやってきたことだ。健康のためでもなんでもない、ただの惰性で。それが「水を調理している」行為だったと言われると、さて、どう受け止めたものか。
正直、まだ半信半疑でいる。EZ水だの構造水だの、科学的に決着のついた話ではない。むしろ懐疑的な専門家のほうが多いだろう。それは先に断っておく。眉に唾をつけて読むのが、たぶん正しい。
ただ、それでも、だ。明日の朝、水を一杯飲むとき。私はきっと、いつもより少しだけ、その水を意識してしまうのだろう。余計なことを知ってしまった。厄介な本に出会ってしまった、というのが今のところの正直な感想である。
※ここでは、本編のエピソードをラノベ調のコラムに編集し直しています。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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