ディズニー映画『モアナと伝説の海』は7月31日に日本公開されますが、これほど評価が分かれる作品も珍しいでしょう。2016年に公開された3Dアニメ版は、冒険心あふれる少女モアナが、半神マウイとともに大海原へ出て、自分たちの島を救う物語です。批評家からの評価は高く、商業的にも大きな成功を収めた作品として知られています。
実写版は「非ディズニー的」
今回はその実写版ですが、これを「最悪のディズニー映画」と見る人もいます。なぜなら『モアナ』は、古典的なディズニー映画の楽しさを意図的に壊しているからです。王子様との恋愛はありません。華やかな城もありません。悪役を倒してめでたしめでたし、という単純な構造でもありません。
主人公のモアナは、「選ばれたプリンセス」というより、共同体の未来を背負うリーダー候補です。白雪姫、シンデレラ、眠れる森の美女といった古典的なディズニー像を期待する観客にとっては、かなり物足りなく映る部分もあるでしょう。
「文化の借用」という厄介な問題
もう一つの批判は、ポリネシア文化の扱いです。ディズニーは本作で、太平洋諸島の航海文化や神話を題材にしました。これは大きな挑戦であると同時に、非常に繊細な問題でもあります。
ポリネシアの神話や文化を世界中に紹介したという意味では、本作には大きな意義があります。しかし、ディズニーのような巨大なグローバル企業が少数文化を映画化するとき、その文化はどうしても「世界市場向けの商品」として加工されます。
そこに敬意があったとしても、商業作品である以上、文化が消費されるイメージになってしまう危険は避けられません。『モアナ』を手放しで称賛しにくい理由は、まさにここにあります。
それでも「最高傑作」と言える理由
しかし、それでも『モアナ』をディズニーの最高傑作の一つと見ることは十分に可能です。最大の理由は、主人公の成長がきわめて現代的だからです。
モアナは「誰かに選ばれる」少女ではありません。自分で海に出ます。自分で失敗します。自分で戻り、もう一度進みます。彼女の冒険は、恋愛成就でも身分上昇でもありません。「自分は何者なのか」を発見する旅なのです。
ここには、現代のディズニーが到達した一つの答えがあります。女性主人公は、もはや救われる存在ではありません。かといって、単に男性を打ち負かす存在でもありません。共同体の過去を受け継ぎながら、閉ざされた未来を切り開く存在として描かれています。
敵を倒さない物語
本作の優れている点は、敵の扱いにもあります。『モアナ』には、わかりやすい悪役がいません。火の怪物テ・カーは、実は心を奪われた女神テ・フィティでした。つまり、倒すべき敵だと思っていた存在は、癒やされるべき存在だったのです。
これは子ども向け映画としては、かなり高度なメッセージです。問題は外部の悪者にあるのではなく、奪われたもの、忘れられたもの、傷つけられたものの中にあります。勝利とは相手を滅ぼすことではなく、本来あるべき姿を回復することなのです。
この点で『モアナ』は、単なる冒険活劇ではありません。自然、伝統、共同体、自己発見を重ねた寓話です。環境破壊や文化の断絶というテーマを、説教臭くならずに物語へ溶け込ませている点は見事です。
「最悪」と「最高」は同じ理由から生まれる
結局、『モアナと伝説の海』が「最悪のディズニー映画」に見える理由と、「最高のディズニー映画」に見える理由は同じです。それは、この映画が古いディズニーの型を壊しているからです。
恋愛も王子様も城もありません。勧善懲悪の構造も薄くなっています。プリンセス映画でありながら、従来型のプリンセス映画ではありません。だからこそ、古典的なディズニーの甘い夢を求める人には、物足りなく感じられるのでしょう。
しかし、その型破りこそが本作の価値でもあります。モアナは「誰かに幸せにしてもらう少女」ではなく、「自分と共同体の未来を選び取る少女」です。これは、ディズニーが長年描いてきた少女像の大きな更新でした。
『モアナ』は、最悪のディズニー映画ではありません。むしろ、古いディズニーを終わらせ、新しいディズニーの完成形を示した作品です。
ただし、その完成度の高さは、同時にディズニーという巨大企業が他者の文化をどう扱うのかという問題も突きつけています。だからこそ、本作は単なる名作でも、単なる問題作でもありません。
最高傑作でありながら、違和感も残る。『モアナと伝説の海』の面白さは、まさにその矛盾の中にあるのです。






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