人間関係の難しさは何時の時代になっても変わらないものです。良かれと思ってやってあげたことが仇になったことも何度もあります。カナダに来てカナダ人とつき合って思うのは多くのカナダ人は表層のつき合いが上手なのです。だけど芯のところまで通じ合うにはなかなか難しいと思います。一方、アメリカ人は比較的入りやすく、時々うざいと思うことすらありますが、ディープな付き合いも可能です。
では日本人は、といえば昔とだいぶ変わり、自分のことが精いっぱいで余力があれば人づき合いに時間を割く、という感じに見えます。また本音と建て前があり、殻を突き破った付き合いはなかなかできるものではありません。
「つき合う」とはどういう意味か、じっくり考えたことがありますか?若者同士でよく「おまえ、あいつと付き合ってんの?」というその意味合いは恋愛関係を暗示する言葉だと思います。一方、女性同士で「買い物につき合ってよ」というのとはどう違うのでしょうか?
私の解釈は両方、同じです。付き合うとは「共に時間を過ごす」という意味だと考えています。女性同士の買い物のお付き合いは数時間で終わるでしょう。男女のお付き合いは相当の長時間を伴う話です。そこには時間のコミットメントが必要なのです。これが現代人はだんだんできなくなっているように感じるのです。「買い物一緒に行っても見るもの違うから一人で行くわ」という人が増えているでしょう。男女の付き合いはSNSでやり取りすればそれでコネクションが存在していることの証であり、それ以上は「私に干渉しないで!」と言われるかもしれません。

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私は結構、人の面倒見がよいので時として全くお金にならない業務の延長のお手伝いをしてあげることがあります。例えばAさんの仕事とBさんの仕事を繋げる仲介のような感じです。もちろん、完全ボランティアなのですが、双方に専門的知識がなければ、私の知識で役に立つ限りそれを提供することもあります。ある時などは双方の契約書まで作ってあげたことがありますが、直前に破談しました。それは私には関係がない事情故でしたので「残念でしたね」なのですが、その後、両者からはお礼の一言すら言われなかったのです。かなり時間を割き、最後の片づけ仕事までしてあげたのですがね。
そんなことがあると恨みはしないけれどその後の人間関係は崩れます。表層の付き合いはしますが、それ以上のことはなかなかできなくなるのです。そういうケースは割と多く、そんなことしているうちにまるで友人をろ過しているような感じになり、最後はほとんど誰も残っていなかったということになるのかもしれません。
私も昔は同世代の人と「飲み行こうぜ」という勢いがあり、それこそ10人以上集まってワイガヤすることもしばしばあったのですが、「飲みに行くのがかったるい」という人が増え、「行っても花すら咲かないバカ話に高いお金払って飲みに行くのもうっとうしい」という人がかなり増えました。それでもバンクーバーあたりならばゴルフでお付き合いということもあるのですが、私のようにそれもしなければ1年、2年会わない人はざら、ということになります。
そんな忘れかけていた人から突然の電話というのも下心満載で思わず構えてしまうものです。これは実話なのですが、「私のこと覚えていますか、10年前に〇〇でお会いした…」と言われて「うーん、えーと、ああ、あの人か?」。そして10年間分の前段話を一方的に聞かされて「で、ご用件は?」と聞けば「実は、お恥ずかしい話ですが、娘の習い事でお金が足りなくてお借り出来ないかと…」。心の中では怒り心頭なのをぐっと抑え、柔らかく「申し訳ないが…」とお引き取り願うわけであります。私を利用できないかと考えたのでしょう。
先日、私のマリーナのアメリカ人の顧客と飲みに行ったのですが、氏が「女はブスで普通がいい」というので「何の話?」ときけば「俺は数年前に離婚したんだが、その調停が終わる時、裁判官から『今後はどんな生活をしたいのか』ときかれ、お金もずっかりもぎ取られてがっくりしている最中、裁判官から『君はもう自由なのだ、お金と時間に束縛されない第二の人生がある』と言われてハッとしたよ」と。私が「いったいどんな人と結婚していたの?」と聞けば「Playboy雑誌に出ていたPlay Matesの1人」と聞き、悪いけど爆笑してしまいました。派出そうだし、さぞかし難しい結婚生活だったのでしょう。彼の今の彼女はブスではないけれど日本人みたいに華奢なちっちゃな人でプレイメイトとは真逆を選んだ彼をみるとこういう人とは人生の深みを分かち合って対等づきあいができるからよいな、と思ったりするのです。
人付き合いってやはりある程度対等であるべきなのです。時間にコミットする以上、そこから双方が得られる何かがないと続かないと思うのです。そして対等関係から距離がある人ほど人は離れていく、とも言えます。深いか、浅いか、その尺度はいろいろあると思いますが、私は一種の愛なのだと思います。人を受け入れるキャパと自分の時間や知見を提供し、相手からも同等のことを受け入れるその懐具合ではないかと考えています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2026年9月6日の記事より転載させていただきました。







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