安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件を題材とする映画の製作が進んでいるという。東スポWEBは、山上徹也被告役を菅田将暉氏が務めるとの情報を報じ、「歴史に刻まれた衝撃事件」として、そのキャスティングや興行面への期待を紹介している。

安倍晋三元首相 首相官邸HPより
政治テロを「映画」にすることへの懸念
事件を歴史的に検証し、その背景や社会的影響について議論すること自体に問題はない。しかし、政治家を殺害した政治テロを、実行犯を主人公の一人として描く「映画」にすることには、慎重であるべきだろう。
とりわけ気になるのは、事件の「センセーショナルさ」が映画化の価値や話題性として語られていることである。記事でも「有名どころの俳優が集まります」「『国宝』に迫る可能性がある」といった映画産業としての側面が強調されている。だが、殺人事件、とりわけ民主主義社会において政治家が銃撃によって命を奪われた事件を、興行収入という尺度で語ることには違和感を覚える。
人気俳優の起用が生む「英雄化」の危険
もちろん、作品そのものが政治テロを肯定するとは限らない。記事でも「政治色の強いものにはならない」とされ、鈴木エイト氏も「事件にきちんと向き合うのであればその姿勢は評価したい」と述べている。問題は、作品の意図とは別に、映像という媒体が持つ「英雄化」の作用である。
テロリストや政治的暗殺者を描く際には、実行犯の思想、境遇、動機、苦悩を詳細に描けば描くほど、観客がその人物に感情移入する可能性がある。とりわけ人気俳優が実行犯を演じれば、その人物に強いスター性が付与される。結果として、本人にその意図がなかったとしても、「社会に復讐した人物」「既存政治に一矢報いた人物」という物語が生まれる危険性は否定できない。
ここで重要なのは、山上被告がどのような境遇にあったのかを検証することと、その人物を政治的暴力の象徴として消費することを明確に区別することだ。
社会問題の存在と政治的暴力は別問題
旧統一教会をめぐる問題については、事件を契機として社会的・政治的な検証が進んだ。その問題自体を検証することには大きな意義がある。しかし、「社会に重大な問題が存在した」ことと、「その問題を訴えるために政治家を殺害することが許される」ことの間には、決して越えてはならない一線がある。
民主主義とは、暴力によって政治的結果を生み出すのではなく、選挙、言論、議会、司法といった制度を通じて対立を処理する仕組みである。どれほど政治への不満が強くても、政治家を殺害することによって社会が動いたという物語を作ってしまえば、それは将来の政治的暴力に誤ったメッセージを与えかねない。
問われるのは「なぜ暴力を許してはならないのか」
したがって、この映画が本当に「事件に向き合う」作品になるのかどうかは、山上被告の人物像をどれだけ魅力的に描くかではなく、政治テロによって奪われた命と、民主主義そのものへの攻撃をどのように描くかにかかっている。
「なぜ彼はこの事件を起こしたのか」を問うことは必要だ。しかし、それと同時に「なぜ政治的暴力を許してはならないのか」も描かなければならない。
安倍氏の殺害を単なる「衝撃事件」や「センセーショナルな映画作品」として消費するのではなく、日本の民主主義に何が起きたのかを考える作品であることを願いたい。政治テロを娯楽化し、結果として実行犯を英雄視するようなことだけは、決してあってはならない。







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