
先週月曜にアプリを開けたら、ヘッダーのとおりの通知が来ていて嬉しくなった。当該の記事で紹介した、文藝春秋からのライブ配信も楽しく盛り上がった。みなさん、ありがとうございます。

そこでも話したとおり、今年起きた左派やリベラルの壊滅的な崩壊は、突然起きた地滑りではない。ここ10年間をかけて進行した “歴史の食い潰し” の果てに訪れた、必然の帰結である。
国民の中央値よりも「やや左」に軸足を置くのが、学者や言論人のマナーだとされてきた “戦後民主主義の遺産” を使い尽くした、と呼び換えてもいい。だいぶ前から鳴り続けたアラートを、ずっと無視した結果がこれだ。

学者が民意とズレるのは、別にいい。むしろ安易に世論に与さないのも、職業倫理の一部なのだが、問題はそれが「ボク、指導する人。キミたち、される人」と驕る自意識につながることだ。
そんな彼らは2020年代、有事の中でにわかに国民を指導するかに見えた “専門家” を「俺たちの代表キターッ!」とばかりに持てはやし、現実から乖離しても耳を塞ぎ続けた。だがそれでは、センモンカがコケたら丸倒れだ。
公開された浜崎洋介さんとの番組でも、そうした言論への信頼そのものを失墜させる構造を掘り下げて、議論している(沖縄や国政の問題を扱う前編はこちら)。話題によっては、専門家を「活動家」その他に置き換えてくれてもかまわない。
気づいてほしいのだが、そう指摘する記事が読まれ、トークを聞いてもらえるのだって、最後に首の皮一枚、知識人とは本来ならもっと「立派な人のはずだ」とする期待が残っているからだ。
その幻想まで食い潰し、メディアに出る学者を “情報商材を売る博士持ち” くらいに見なす感覚が新たな常識(New Normal!)になれば、なぜ凋落したかもなにも「元からそうでしょ?」としか、思われなくなってしまう。

そうなる前に止まれるのか、否か。かねて呼びかけてきたとおり、拙著を世に問ういまが、この社会が引き返せる、最後のチャンスになるだろう。
今回の記事のタイトルは、ずばり21日に刊行する『なぜ「まちがえた」と言えないのか』の副題だ。同書の結論部にあたる最終章「”答えのない時代” はいつ始まり、これからどう生きるのか」の冒頭を、先行して公開する。
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専門家を消費した「ニヒリズム」の根源
なぜ、「信用しない」はずのメディアに依存するのか
いま、かつてなく日本人は、メディアを信じていない。
「敵対的メディア認知」という用語がある。マスコミが言うことは「どうせ嘘だろう」と考える思考を指すものだ。実際に2025年11月の意識調査で、テレビや新聞を「おおむね信じない」との回答が、5割を超えたという例もある。

選挙ドットコム、2025.12.1
左軸の目的語は「高市内閣を」
注目すべきはこのとき、高市早苗首相を「強く支持する」と答える層ではなんと7割が、この敵対的メディア認知を持っていたことだ 。そもそも報道や識者を信じないので、彼らが批判すればするほど、守旧派の抵抗を打破する「指導者の剛腕」に快哉を叫ぶ――。
ちょうどアメリカのトランプ政権を支えるのと同じ構造が、日本でも始まった。いまやこの国の全体が、「ぬるいラストベルト」になっているのだ。
――おかしな話ではないか。かつてなくメディアが「専門家」を起用し、学問的な知見で「正しく」コロナ禍やウクライナ戦争を報じてきた後に、なぜそんなことが起きる?
鍵を握る概念は、ニヒリズムだ。もし実態がともなわないのなら、「正しさ」を社会が高らかに掲げるほどに、人はむしろすべてを不信の目で見るようになってゆく。
2020年代の危機で報道を席巻した専門家への依存は、そんな風潮に対抗するかに見えて、かえって事態を悪化させた。ワクチンの副反応で体調を崩す例があるように、治療がむしろ病状を深刻にした「メディアの医原病」とさえ言えるだろう。

では、ぼくらはいつから、そうしたニヒリズムを患ってきたのか。
やはり25年の末に発表された新語・流行語大賞では、「オールドメディア」がトップ10に入り話題を呼んでいる。国境なき記者団が公表する「報道の自由度ランキング」でも、同年に日本はG7で最下位の66位。なんと戦時下のウクライナ(62位)より下で、権威主義化したハンガリー(68位)と同格だった 。

そんなことは政治や社会を語りたがる「意識の高い」人ほど、前から知っている。日本のメディアなんて信じないよ、と口にしあうのは、彼らにとってはずっと挨拶がわりだ
ところが20年のコロナ禍以降、同じ人たちは、その不自由なオールドメディアが起用する「専門家」に全幅の信頼を置き出した。多くはにわかにTVのニュースショーに露出し始め、危機の前にはまるで知られていなかった存在にもかかわらず、その人の主張を「すべて信じ、言うとおりにしろ!」とSNSで持ち上げる視聴者が続出した。
矛盾と言うほかないが、しかし現にそうなった。いったいあのとき、日本でなにが起きたのか?

ドストエフスキーが描いた「すべて運だけ」の絶望
考えるヒントをくれる、ドストエフスキーの小説がある。一般に中編と呼ばれるが、それはこの人が大長編ばかり書いたからで、最新の邦訳では300ページほど。日本でいえば徳川幕府が亡ぶ寸前の、1866年に口述された『賭博者』だ。
欧州の各国から観光客が集うドイツのカジノリゾートが舞台だが、当時ポーランドの民族運動を武力で圧殺したことが非難を招いて、ロシア人は肩身が狭い。ちょうど2022年にウクライナ戦争が始まったころの空気と、そっくりな状況で物語は進む。
いかにもドストエフスキーらしく、主人公のロシアの青年アレクセイはニヒリストだ。学歴は高いが、「それだけ」しか自分には取り柄がなく、満たされる日が来ないことをあらかじめ知っている。その彼が、こんな文明論を「西側」に向けて述べる。

ぼくからすると、ルーレットが作られたのは、もっぱらロシア人のためですよ。……
ぼくらは、たとえばルーレットのように二時間かそこらで労せず金持ちになれる手段を大歓迎しますし、そういうものにまったく目がないんですね。つまりそこのところが、ぼくたちの気持ちにおおいに媚びるわけですよ 。
光文社古典新訳文庫、54-55頁
ルーレットは100%「運のみ」で決まる賭博で、本人の「実力」は勝てるかどうかにまったく意味をなさない。だが、ロシア人に言わせればそこがいい。
自らを磨く努力を続け、正しい主張を訴えればやがて社会を動かすとは、誰も信じない。そんなニヒリズムが蔓延した国には、成功者にも内実はなく、タイミングのよさ以外の「中身は空っぽ」だと如実に示すギャンブルのほうが、しっくり来るというわけだ。
コロナ禍以降に日本のメディアを覆いつくした専門家への信仰が、依存症と同じメカニズムで動いていたことを、これまで確認してきた。だがなぜ命が懸かっていると叫ばれる危機の中で、自立でなく依存を選ぶのだろう。

令和の日本人の心にも、「アレクセイ」が居るからではないか?
多くの人は大学で疫学など学んだことがない。国際政治学で学位を取ってもいない。つまり「私は専門家です」と名乗ってメディアに出始めた識者が、ほんとうにその業界で一定の水準に達しているのか、判定する力を持っていない。
なのに、なぜ信じる? ほんとうは、いま気持ちよくなれれば「学問の真偽なんてどうでもいい」と、思っているからではないのか?
ルーレットに当たれば2時間で金持ちになれるように、混乱の中で手っ取り早く自分を安心させる方法がある。周りに自粛を強要したい、侵略者をボコボコにしろと叫びたい、有害な教団を解散させたい。
そうした気持ちに「正しい」とお墨つきをくれる専門家に、四の五の言わず全額をベットすればいいのだ。
「実力とは無縁」に専門家がウケる理由
もちろんそんなやり方は、研究の積み重ねや相互の批判においてなりたつ、ほんらいのアカデミックな「専門」とはなんの関係もない。だがそこがいい。
人としての内実を問わず、誰もが襲われうる疫病や戦争のイメージが脳裏を埋めつくした状況では、実力になんか「意味がない」と暗に示してもらえたほうが、かえって気持ちが楽になる。そもそも何者かも事前には知らず、もとは信頼したことなどなかった相手のほうが、いまだけ依存して使い捨てる分には、むしろ後腐れがなくていい。

そんなルーレットの賭場に座っているのは、実は「専門家」の側も同じだ。
2022年7月に安倍晋三氏が撃たれるまで、戦後に「国葬」の先例は吉田茂の1度しかなかった。そんなマイナーな研究テーマに世論が注目し、メディアの取材が殺到するなんて、他に誰も賭けていない数字でルーレットを当てたようなものだ。
むろんそれは研究の値打ちと無関係な偶然だが、だからこそいま民意が期待する役回りを、全力で演じて応えてしまう。その様子を見ている周囲の同業者も、自分の「専門」にルーレットの球が止まる日を待つばかりで、なんの批判意識も持たない。

国葬の例はわかりやすいから出したまでで、その研究者個人の資質は問題ではない。真理を扱うとされる学者の世界ですら、この社会を巨大なルーレット場のように見なすニヒリズムに埋没している、令和という「時代の構造」こそを問わねばならない。
なによりそれを、いちがいに不道徳なものと呼べるのか。まじめに働けば見返りがあるという発想こそ、すでに終わってしまった古い世代の理想論ではないのか?
『賭博者』のアレクセイは、そう問うて「西側」の人びとを挑発する。それはあたかも資本主義の成長神話が行き詰まった先を見越して、160年前のロシアから届いた哄笑にも聞こえる。
だって、じっさいのところまだわかっていないわけでしょう、ロシア式のはちゃめちゃと、勤勉な労働によるドイツ式の蓄財法とでは、どっちが醜悪か?
同上、55頁
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ぜひ、ご予約をお願いします!
『なぜ「まちがえた」と言えないのか:専門家依存が壊すメディアの信頼』
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年10月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください








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