意向投票のダブルスコアをひっくり返して東大総長に内定した藤垣裕子氏ですが、論文や著書が驚くほど何も言っていないという噂だったので読んでみました。
※東大総長に選出されたことについては、『「総合的判断」という説明は妥当か――東大総長選と日本学術会議任命拒否を比較する』参照

藤垣裕子氏 東京大学HPより
以下の内容+岩波の「科学」シリーズということで、かなり疑いの目をもって読み始めましたが、どうでしょうか。
次期総長予定者の藤垣裕子氏
フクシマ事故
福島事故
フクシマと表記がぶれているのは、意図的なのか、何も考えていないのか。
前者二つが「福島第一原発事故」でない理由はなんだろう?福島事故の背後にあるもの
https://t.co/ik6eUTY8C8
学者としての責任と STS
https://t.co/1IjA5Y4ym5— 晴川雨読 (@Seisenudoku) September 28, 2026
1 社会的存在としての科学者
ジャーナルに掲載されると何が保証されるのか?
(p.2)ジャーナル共同体とは、専門誌の編集・投稿・査読活動を行う共同体を指す。そしてジャーナル共同体は、科学の知識生産にとって以下の四つの点で重要である。第一に、科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌にアクセプト(掲載許諾)されることによって、その妥当性が保証される(妥当性保証)。
何を言っているのだ?
査読を経てアクセプトされると妥当性が保証されるのですって。
査読というプロセスを経たことの保証しかしないぞ。ありえないことを言っているね。
例えば、山室真澄東大教授のScience論文なんて、査読されたかも疑うような内容ですよ。
(p.2)第三に、科学者の後進の育成は、専門誌にアクセプトされる論文を書く教育をすることからはじまる(次世代の育成)。
東大総長がこれで良いのか?
研究テーマを決めさせるところから育成が始まるのでは?
ジャーナルに投稿するのは研究結果が出てからの話じゃないの?
好意的に「アクセプトされる論文が出せるような教育をする」と理解すると、その次は何なのか?
研究倫理とか?
でもそれって研究と並行(もしくは前)にすべき話で、後だと最初の論文で研究不正を仕出かす。
次にやるのは研究費の引っ張り方?う~ん、わからん。
この件のブログ公開前にXでポストしたが、それについて東北大学の黒木さんが以下の情報をくれました。
件の表現は【第一に,科学者によっ て生産された知識は,信頼ある専門誌にアクセプト(掲載許諾)されることによって,その妥当性が 保証される(妥当性保証)】の形式で、藤垣・藤垣(2021) https://t.co/JCZUrOBIqr にも登場します。
この文献なら誰でも無料で閲覧できます。 https://t.co/i3I06L40jo
— 黒木玄 Gen Kuroki (@genkuroki) October 5, 2026
STSの文脈の論文の内容をそのまま一般書になんら前提情報をつけず書いていることが分かりました。
そりゃあ、理解できるはずもない。
Grokと壁打ちして以下の解説文を作ってもらった(赤字、青字は私が付けました)。
赤字は、藤垣氏が言いたいことだろうが、解説してもらった上でもそれが妥当であるとは思えず、青字の部分が正しいと思う。
STSとは科学と相容れないものなのか、それとも藤垣氏がおかしいのか、どちらなのでしょうかね?
少なくとも、一般読者に理解してもらうための本ではないことが分かりました(本人の意図がどこにあるかは、はじめに、あとがきを見てもわからず)。
1. 著者が本来言いたかったこと
著者が言いたかったのは、科学技術社会論(STS)の分析枠組みから見た「従来の学術システムにおける専門誌共同体の役割」です。
印刷文化に基づく科学の知識生産システムでは、専門誌を中心とした共同体が次の4つの重要な機能を果たしてきた、という整理です。
- 知識に制度的な正当性や権威を付与する(専門誌に掲載されることで「正式な知識」として扱われる)
- 研究者の業績評価の基準になる
- 次世代の教育・育成の場になる
- 予算や地位を獲得するための基盤になる
ここでいう「妥当性保証」は、「知識が実際に正しいと保証する」という意味ではなく、「専門家集団の制度的な手続きを経て、正当な知識として認定されるプロセス」を指しています。
2. 著者にどんな問題があるのか
最大の問題は、一般向けの本の冒頭で、十分な説明なしに断定的に書いている点です。
- 「妥当性保証」という言葉が、自然科学の研究者や一般の読者には「結論の正しさが保証される」としか読めない。
- STSの分析用語であることを明示していない。
- 査読が実際に保証するのは「プロセスを通過したこと」に過ぎず、結果の正しさや再現性は保証しない、という重要な留保がない。
- 本の2ページ目という早い段階で、あたかも科学の一般的な事実であるかのように記述している。
結果として、著者の意図(制度的なプロセスの記述)と、読者が受け取る意味(知識の正しさの保証)に大きなズレが生じています。言葉が圧倒的に足りません。
3. 一般書籍に本来書くべき文章(著者の意図を理解した上での書き換え例)
「従来の科学の知識生産システムでは、専門誌を中心とした共同体が重要な役割を果たしてきた。その一つが、投稿された論文を査読によって審査し、基準を満たしたものを掲載することで、その知識に『専門家集団によって正式に認められたもの』という制度的な地位を与える機能である。
これを仮に『妥当性の制度的認定』と呼ぶことにする。
ただし、ここで言う『認定』は、知識が絶対的に正しいことを保証するものではない。査読は主に方法や論理のチェックを行うが、結論の正しさや再現性までは保証しない。実際の科学的な妥当性は、公開後に他の研究者による検証や批判、追試などを通じて確立されていく。」
4. 3.に対する問題点の指摘
この書き換えなら著者の意図はかなり正確に伝わります。しかし、根本的な問題は残ります。
- 「制度的な地位を与える」ことと「知識の妥当性」を結びつける発想自体が、自然科学の実際の動きからずれています。知識の正当性は、査読という事前の手続きよりも、公開後の検証や批判を通じた過程で確立される側面が強いです。
- 査読を「正当性認定の装置」として過度に強調すると、査読の限界(再現性の低さやさまざまなバイアスなど)を軽視する印象を与えます。
- STS的な「制度が知識を正当化する」という見方を、一般書で前面に出すこと自体に、科学の認識論的な側面を相対化しすぎる危うさがあります。
要するに、「言いたいことは理解できるが、そもそもその捉え方自体が、科学の実際のあり方から見て適切かどうか」という疑問は、書き換え後も残ります。
ノーベル賞
(p.3)評価のトップにおかれているのがノーベル賞であるが、これも主にジャーナルに掲載された論文と、その論文を引用して展開された論文群によって評価される。
一般の人はノーベル賞が評価のトップだと思うかもしれないが、科学史などが専門の人から出てくる内容としては違和感がありますね。
ノーベル賞は、自然科学分野で物理、化学、医学・生理学しかないが、数学とかは十分に評価されないってことですかね?
論文でノーベル賞が評価されるというが、発見・発明の内容なのでは?単に論文はその科学的根拠や最初に見つけた人であることの確認手段に過ぎないのでは?
そもそも、論文群で評価されるって言っているが、ノーベル賞の選考基準は非公表でなかったでしたって?
スパコンランキングと話は別でしょ
たとえば、二〇〇九年の事業評価の際、「一番でなければだめですか」という言葉が有名となった。科学者共同体の内部では、最初に法則や知見を見出したひとに敬意が払われ、そのひとの業績として論文が掲載され、他者から引用される。そのため、一番でなければ意味がないのである。しかし、その研究に研究費を提供する側からすると、一番であることにそれだけの金額を投入する意義があるのか、その研究が国民の生活をどれだけよくしてくれるのかといったことが問題となる。事業評価は、科学者共同体内部の評価と外部の評価の間にずれがあることを誰の目にも明らかにしたと言えよう。
事業仕分けの話が例として出てくることに違和感がある。
スパコンのランキングは半年ごとに変わるが、科学で何らかの知見を一番最初に見出したものは未来永劫一番であり全く違うものだ。
スパコンの話は事業であり、それ自体は科学研究ではない。付属するところで新しい科学的発見があるかもしれないが、スパコンで二番であってもそれはあるかもしない。
2 責任の三つの相
社会的リテラシーとは何?
(pp.8-14)科学者の社会的責任論を再整理してみると、次の三つの相による分類が可能となる。まず責任ある研究の実施(responsible-conduct)、つまり科学活動の品質の相がある。
・・・
第3相-応答責任
三つめの責任は、公共からの問いに答える応答責任である。これは、科学者集団がpublic(公衆)からの問いにさらされることによって生じるもので、共同体内部に閉じる形では果たすことができない責任を指す。たとえば市民からの「この研究はどのような形で社会に埋め込まれるのですか」という問いへの応答責任(社会的リテラシー)、・・・
(1)科学者の社会的リテラシー
科学者が社会的リテラシーをもつことは、市民からの問いかけへの応答可能性を支える条件である。社会的リテラシーとは、科学技術が社会に埋め込まれたとき、科学技術が社会のなかでどのように展開していくかという点に考えが及ぶ能力を指す。具体的には、自分のやっている研究の社会における位置づけや、研究が社会に応用されたときにどのようなことが起こりうるかを考えられる能力、自分の出したデータがどのように一人歩きするのかについて考えられることなどである。
「社会的リテラシー」という見知らぬ用語が登場する。
基礎研究と応用研究では話が全く別で、後者については応答責任を果たすことはできるが、前者はできないと思う。
引用外のところに原爆の話が出てきているが、基礎研究(理論研究)側にいるアインシュタインと応用研究のオッペンハイマーとは同列に語れないはずだ。
私が読む限り、基礎研究者と応用研究者に求められる責任の違いを明確に区別して論じておらず、まぜこぜの議論になっていることに違和感がある。
それらは同列に語る話か?
(pp.16-18)ところが、科学と社会との接点で起きる問題となると、人々はしばしば「科学は常に正しいことを言っているはずなのに、どうして答えが換わるのか」と言って批判をしはじめる。
たとえば水俣病の原因物質が有機水銀であることはすぐにわかったわけではない。一九五六年に水俣病患者が公式に発見されて以来、マンガン説、セレン説、タリウム説、など多くの説が報道された。これは、科学は常に「作動中」であるということ、すなわち科学的知識が常に現在進行形で形成され、時々刻々作られ、書き換えられ、更新される、という性質からすると、まったく正常なことである。ところが当時、原因物質が二転三転すると、「科学は常に正しいことを言っているはずなのに、答えがどうして二転三転するのか」と言って批判をし、ついには原因物質を探求している科学への信頼を失ってしまう人々がでてきた。
・・・
これらの言説は、科学的探究の現実の姿とは異なる。科学的な知見は常につくられつつあり、新しい事実や発見によって書き換わるというのが現実の姿である。「作動中の科学」というイメージを柔らかい科学観だとすれば、「いつでも確実で厳密な答えを提供してくれる」という科学観は、固い科学観と言える。水俣病や薬害エイズ対策やBSE対策などの遅れの一因には、固い科学観にもとづく右のイメージがある。
科学に対する認識が、科学者など科学に近い人と遠い人で捉え方にギャップがあるという話をしている。
これについては、その通りだと思う。
だが、4章の「不確実性下の責任」で、福島第一原発事故の話を持ち出している。
水俣病と福島第一原発事故の「不確実性」を同一視している、もしくはあまり区別していないのはどういうことなのだろうか?
水俣病については、原因物質が上記にあるよう揺れていたが、福島第一原発事故についての「不確実性」は、一般人の被曝線量についてであり、低線量であれば他のリスクに隠れて顕在化しないことは事故前から分かっていた。
同レベルの例を出すと、有機水銀の魚・水からの曝露量と被曝線量であり、前者の話はこの本には一切でてこない。
また、福島第一原発事故の「不確実性」についても、いつまでのことを指すかが明示されていない。
この本は2018年のもので、以下の時点で「不確実性」はほぼ解消されている。
UNSCEARは2012年5月6日には、事故時の推定被曝線量を公開しているし、
UNSCEAR 2013年報告書では「被ばく集団での健康影響の発生率における一般的な放射線被ばくに関連した上昇は、ベースラインとなるレベルに比べて識別できるようになるとは考えられない。」と、観測できる有意な上昇は考えられないと言っている。
比較できないものを同列視して議論していることに大きな疑問がある。
どういう意図があるのでしょうね?
「編集の倫理」ではなく「取材の倫理」とは何?
(pp.18-19)(4)報道に用いられる科学の責任
もう一つ市民からの問いかけへの呼応責任のなかに入ると考えられるのは、報道に用いられる科学の責任である。自分が研究する分野のデータの、メディアでの取り扱われ方についての責任ともいえる。二〇〇七年一月に「発掘!あるある大事典」の捏造をめぐって議論がおこったことから、歪曲報道についての議論も増えた。「あるある」問題は以下の三つの側面から、科学コミュニケーションに関する問題提起をしていると考えられる。
まず、報道する側の演出の問題である。これは「わかりやすさ」「面白さ」を過剰に追求することによって生まれる。「あるある」問題を扱った『ネイチャー』誌の記事は、番組の報道の具体例として、テンプル大学のシュヴァルツ博士が行った実験ではないものが、あたかも博士が行った実験のように報道されたこと、米国の大学に勤めるキム博士の言葉の上に、彼がまったく言ってない言葉が日本語でかぶせられていたこと、千葉科学大学の長村洋一教授(当時)がレタスをマウスに与える実験を番組制作者とともに実施し、マウスが眠らないことを確認したにもかかわらず、テレビでは眠った実験として紹介されたこと、などを紹介している。これは確かに捏造にあたる。放送倫理に抵触する問題であろう。
しかし、この事件は、映像作成の際に「わかりやすさ」を過剰に追求したときに、故意の歪曲と、演出(わかりやすさの追求による正確さの低下)との間にグレーゾーンがあることにも警鐘を鳴らしている。専門用語ネットワークから日常用語ネットワークへ「わかりやすく」置き換えるプロセスでは、物質名、化学式、専門用語で表現された概念を日常用語に置き換えることによって、ある種の情報量が確実に減って「概念の精度」が落ち、比喩や対比により日常の文脈が追加される。「わかりやすく」することによって正確さが落ちることは、故意でなくても起きてしまうのである。メディアに携わる人間の報道や取材の倫理には、この点での考慮が必要となるだろう。
意味のわからない文章なので、それを理解してもらえるように長めに引用しました。
最後の「取材の倫理には、この点での考慮が必要となる」の「この点」は、捏造のことではなく(捏造の話は最初の赤字の所で倫理抵触について言及しているから)『「わかりやすく」することによって正確さが落ちる』ことを指すだろう。
そう理解した時に、「わかりやすくする」ことに倫理が必要なのか?という疑問がでる。
原形を留めないものになったら、それは捏造に類する話だ。
最もわからないのは、「編集の倫理」ではなく「取材の倫理」としていること。取材の段階で「わかりやすく」はしないだろうに、そう書いている。
しかも、「故意でなくても起きてしまう」ものに対して「倫理」で対応せよというのはどういうことなのか?
できるとしたら、報道前に専門家に過剰な修飾・簡略化をしていないか確認するプロセスとするのだろうが、それは倫理ではないし、報道はそれをしたがらない。
3 科学の原罪論と役割責任――日本における科学者の社会的責任論
4 不確実性下の責任
極端な説明をしないで
(p.40)予防原則には二種類あり、「まったくリスクがないと証明できないのであれば、技術を開発してはならない」というのが強い警戒原則であり、「科学的な確かさに欠けるとしてもそれ自体では対策を取らない理由にはならない」というのが弱い警戒原則である。
日本では、リオ宣言よりも二四年も前の一九六八年に、当時の厚生省の初代公害課長であった橋本道夫氏が、イタイイタイ病に対して類似の原則を適用し、カドミウムの慢性中毒による骨軟化症が種々の原因から来るカルシウム不足を誘因としてイタイイタイ病を引き起こすとして、その汚染源を神岡鉱業所と断定(公害病と認定)した。
予防原則には二つあり、「強い警戒原則」というのがあるというのは知らなかった。
だが、「まったくリスクがない」ものなど存在しないので、本当にそんな無意味な原則を掲げているのか疑問に思い調べた。
すると、藤垣氏の言う「強い警戒原則」は、「強い警戒原則」の中でも極端な例で、メジャーな考えではないようだ。
「Rescuing the Strong Precautionary Principle」によると、藤垣氏の言う「強い警戒原則」は、異端・極端な例外的な考え方であり、実効的な支持や政策上の力は無いそうだ。
そんな変な解釈を持ち出すのはどういう了見だろうか?
また、二つの解説をしているのだが、後続の事例でどちらのものか明示していない(読めば「弱い警戒原則」のことであるだろうことはわかる)。
(p.41)予防原則を採用する際、責任をどのように設計するかは難しい問題をふくむ。時々刻々と変化する事実(作動中の科学)に対応して、ある時点での「事実A」にもとづいた判断が、数十年後の「事実B」からみて誤っていた場合、事実Aにもとづいた判断のもつ責任は、どのように定式化すればよいか、という問いが生じるからである。
「事実」と書かれているが、事実ではなく、科学的な解釈・認識・理解・知見でしょうに。
事実は一つしかなく変化はないが(事実誤認はあり得る。だが事実が変わったわけではない。)、解釈は複数あり得るし変わり得る。
大丈夫かね?
そもそも系統的知識の説明がおかしいのでは?
(p.47)福島原発事故後は、とくにユニークボイスをめぐる議論が数多く行われた。たとえば、二〇一一年一一月、米国クリープランドで国際科学技術社会論学会と米国科学史学会と技術史学会の合同の全体会議が「フクシマ」をテーマに行われ、三学会をそれぞれ代表する原子力技術史あるいは原子力社会論の研究者たちが発表を行った。そのなかの一人(米国の人類学者)が、作業服を着た菅首相(当時)と枝野官房長官(当時)のスライドを映し、「日本政府は非系統的知識(dis organized knowledge)を出しつづけた」と説明すると、約八〇〇人の聴衆から失笑が漏れた。この失笑から読み取れるのは、事故後の日本における情報流通が、国際社会の場で民主主義国家として胸を張れるものではなかったということである。
それではどういう情報公開のしかたが望まれたのだろうか。そもそも系統的な知識とは何だろうか。
系統的な(organized)知識とは、幅があっても偏りのない知識である。幅があるとは、最悪のシナリオからそうでないものまでふくめたものであることを指し、偏りがないとは、安全を強調する側にのみ偏っているのではないことを指す。日本政府が出した情報は、幅が少なく偏りのある知識だと指摘されたわけである。
丸っきり意味がわからないので、またSTSの文脈で言っているのだろと思い、本来の意味の「系統的知識」が何なのかChatGPTと壁打ちして解説文を作ってもらった。
「系統的な(organized)知識」とは、本来、知識を分類・整理し、相互の関係を体系化した知識という意味であり、「幅があっても偏りのない知識」という意味ではない。Herbert Spencerも「科学とは組織化された知識である」と述べたうえで、知識を「事実を結びつけ、推論し、結果を予測するもの」として説明している。したがって、organizedを「偏りのない」と解釈するのは適切ではない。
出典:Herbert Spencer「The Genesis of Science」
GeminiにChatGPTの文を確認してもらったら「提示された批判の内容は妥当かつ正確です」とのことなので、合っていそうだ。
安全側に偏った情報発信であっただろうが、科学に反する発信ではなかったと私は思っている。
「日本政府は非系統的知識(dis organized knowledge)を出しつづけた」
は、意味の違う用語を使ったことによって騙されて失笑があったのでは?
発信する側は「偏った情報を発信し続けた」の意味で言ったつもりが、「非科学的な情報を発信し続けた」と受け取ったら失笑しますね。
しかも「民主主義国家」がどうのこうのってどういうことだ?言論弾圧があったわけでもなく、デマ屋が好き放題発信していただろ?まるっきり理解不能だ。
そして「フクシマ」ってなんだ?アメリカ人はカタカナを知っているのですね。知りませんでしたわ。
「日本政府は非系統的知識を出しつづけた」発言はどのような文脈で出たのか?
アメリカの人類学者がSTS学会・米国科学史学会・技術史学会合同のイベントで「日本政府は非系統的知識を出しつづけた」と発言したと、先ほどの引用部分にありました。
これが、どういう文脈であったかを調べてみます。藤垣氏が都合よく発言を切り取っていないかを疑ったためだ。
そのような発言があったという記述は藤垣氏の文章しか見つからない。
例えば「科学技術社会論からみたリスクコミュニケーション -幅のある情報発信と市民の分断,そしてRRI をめぐって-」であり、この中の文章は本の中のものと同じだ。
ちょっと脱線する。
この論文?は、『藤垣 裕子 (Yuko Fujigaki) – MISC – researchmap』によると査読済みとのことだが、内容に疑問符が付く。
めっちゃ主観的なものを文脈も示さず引用しているが「Dealing with Disasters:Perspectives on Fukushima from the History and Social Studies of Science and Technology, HSS/SHOT/4S Joint Plenary Nov.3, 2011, Cleveland」としか書かれておらず、これからは発言の全容は不明である。
また、「まずリスクの定義から・・・ついて考察する」とあるが、まともなリスクの定義をしていない。
リスクを語るうえで必須の「ハザード」の話がSlovic 1987から翻訳・引用した図のタイトルにしか登場しない。
「リスク=ハザード×発生確率」というリスクの定義ではなく、おかしなことを言っている。
次の記述には目が点になりました。
それでは,確率概念とリスク概念の違いは何だろうか.確率の概念には通常価値は混入しない.それに対しリスク概念には,健康や環境など何か守るべきものがあり,それを守るべきものと判断するか否かの価値判断が入る.例えば,「健康」を守りたいと考えるとき,被曝の確率は「リスク」へと変化する.「環境」を守りたいときには,地球の気温上昇確率は「リスク」へと変わる.
リスクについて、この超絶おかしな理解で「リスクコミュニケーション」を語り、査読が通るSTSの恐ろしさを垣間見ました。
何がおかしいかというと、リスクに価値判断は入らない。健康を守りたがろうが、そうでなかろうが、リスクはリスクだ。
しかも、『被曝の確率は「リスク」へと変化する』って、なんやねん。先ほども書きましたが、「リスク=ハザード×発生確率」なのに、なぜ「リスク=発生確率」となるのだ?
全くもって理解不能。
価値判断が入るのは、科学ではなく政治で基準値を作る時だ。
私がおかしいのかね?って思い、一応Geminiに評価してもらった。STSは、おかしな人達の蛸壺ですかね?
1. リスク工学・安全工学系の査読者(想定判定:リジェクト)
リスク工学や安全工学の専門誌では、定量的なデータや厳密な工学的定義(ハザードとリスクの区別など)が重視されるため、この内容は大きな修正、あるいはリジェクトの対象となります。
想定される査読コメント:
「『確率の概念には価値は混入しないが、価値が入るとリスクに変わる』という記述は、リスク工学におけるハザード(有害性の源)とリスク(被害の大きさ×発生確率)の定義を混同しており、学術的におかしい。また、海外の学会における個人のスピーチや『失笑』という主観的なエピソードを根拠に国家の民主主義を断定するなど、工学的・客観的なデータが一切欠如している。安全工学の誌面に掲載するには前提から破綻しているため、リジェクト(不採用)とする。」
2. 科学技術社会論(STS)・社会学系の査読者(想定判定:条件付きアクセプト)
一方で、この論文が掲載された『安全工学』誌の「リスクコミュニケーション特集号」のような、人文・社会科学的なアプローチを許容する文脈やSTS系のジャーナルであれば、指摘を修正する条件付きでアクセプトされる可能性が高くなります。
想定される査読コメント:
「ベックやスロヴィックの理論を用いたリスク認知の整理は妥当であるが、『海外の学会での失笑』から『民主主義国家として胸を張れるものではなかった』と結論づける部分は、著者の個人的な印象論に過ぎず、学術的論理の飛躍がある。当該エピソードの描写は表現を和らげるか、あるいは客観的な公的批判の引用に差し替えるべきである。これらの修正を行えば、特集号の啓発的・問題提起的な論文としてアクセプト(採用)可能である。」
脱線から復帰し「日本政府は非系統的知識を出しつづけた」の発言について見ていく。
誰の発言かわからないので『4S 2011 Cleveland』を見ると、米国の人類学者は一人しかおらず、ヒュー・ガスターソン(Hugh Gusterson)であることが分かる。
YouTubeにこの時の再生リストがあるのだが、木曜日にヒュー・ガスターソンが登場した時のものがないので、どういう文脈での発言かはわからない。
仕方がないので、ヒュー・ガスターソンによる2011年11月頃の発言などを探した。
2011年5月の「Social Containment of Disaster」がよさげなので、どのレベルの理解度で発言していた人かを見てみる。
機械翻訳を引用してツッコミます。
突然、専門家たちの意見が公の場で食い違い始めました。事故発生後の1週間、日本当局は福島第一原子力発電所から20km以内に住む住民に避難指示を出し、20km圏外は安全であるとみなしました。同時に、米国原子力規制委員会(NRC)は50マイル(約80km)圏内の米国市民に避難を勧告し、フランス政府は福島から150マイル離れた東京から全フランス市民が避難するよう勧めました。専門家が合意しているはずの放射線リスクが、突如として国家ごとに構築されるものとなったのです。これらのリスク予測は、放射線の危険性と同じくらい、日本、米国、フランスの文化について物語っています。
この人は何を言っているのだ?
被曝リスクをどう見積もったかという専門家の見解が一切なく、政治により決定された内容が違うから「専門家たちの意見が公の場で食い違い始めました」だと?
自然放射線は合理的に安定した定数であると考えられがちですが、福島事故の直後、NRCは説明もなく、3月16日のプレスリリースで年間の自然放射線推計値を360ミリレム(※補記 1 mrem = 0.01 mSv)から620ミリレムへと密かに倍増させました。リスクを測定するための基準となるはずの定数が、突如として増大したのです。
陰謀論者やデマ屋と同レベルで大爆笑ですね。
これは日本における「100Bq/kg と 8000Bq/kg の二つの基準の違いについて」と同じレベルのゴミ言説です。
100Bq/kgは原発などから「放射性物質」として扱わなくて良い基準で、8,000Bq/kgは廃棄物管理の基準で全くの別物。
福島第一原発事故があったので、勝手に変えたと言うが、2009年に改訂されたとあります。
一般市民は、自然由来および人為的なイオン化放射線源に日常的にさらされています。米国(U.S.)に住む個人が受ける年間平均実効線量当量(EDE)は、約 620 ミリレム(mrem)(6.2 ミリシーベルト [mSv])と推定されている(米国放射線防護評議会 [NCRP] および測定報告書 160、2009 年)。NCRP 報告書第 93 号(1987 年)の改訂版である NCRP 報告書第 160 号では、米国の平均的な住民が、以前の推定で観察されていたよりも、医療処置による放射線被ばくを著しく多く受けていることが指摘されています。
※『West Valley Demonstration Project Annual Site Environmental Report Calendar Year 2009』から機械翻訳して引用
福島原発はマグニチュード7.9の地震に耐えるよう設計されていましたが、実際に襲った地震はマグニチュード9.0でした。マグニチュードは対数スケールであるため、予測と現実の差は温度計の数値の違いよりもはるかに大きく、マグニチュード9.0の地震は7.9の地震の1,000倍のエネルギーを放ちます。この地震は耐震設計をはるかに超える激しい揺れをもたらし、想定を数メートル上回る津波を引き起こしました。
こりゃヒドイ。
揺れの大きさ(Gal)とマグニチュードの違いがわからんとは。中学1年の理科で習うことですが、そのレベルの知識もないのですね(『文部科学省「中学校学習指導要領解説 理科編」』参照)。
「耐震設計をはるかに超える激しい揺れをもたらし」もヒドイ。東電のこれを見てもらえばわかるが、1~4号機で設計値を超えたのは、東西方向に3つが100Galほど超えた(一番差が大きいのは438Gal⇒550Gal)以外は下回っていて「はるかに超える激しい揺れ」ではない。地震の揺れではなく津波にやられたのですよ。
そして「マグニチュード9.0の地震は7.9の地震の1,000倍のエネルギー」もヒドイ。正しくは44.7倍です(『地震比較 – 高精度計算サイト』で計算できます)。
この人は、設計の1000倍の揺れがあったと思っているのかな?
福島事故を通じて、原子炉建屋のコア内部よりも使用済み燃料プールの中に遥かに危険な放射能が存在し、しかも使用済み燃料プールは格納容器ドームの外側にあるという事実が明らかになりました
原子炉よりも燃料プールの方が「危険な放射能」が存在したんだってさ。アホか。
核燃料の総数は燃料プールの方が多いが、半減期が極短いものは燃料プールには無いのであり得ないが調べますか。
『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書』の総放射能を見ると、原子炉内は 1.29×1021 Bq、燃料プールは3.29×1019 Bqであり、原子炉内の方が約40倍多いわ。
しかも「使用済み燃料プールは格納容器ドームの外側にあるという事実が明らかになりました」なんてあるが、事故前から普通に知られた事実だ。
「日本政府は非系統的知識を出しつづけた」と言った人がどのような主張をしていたかを見てもらいました。
レベルとしては『つくられた放射線「安全」論』という本を出した宗教学者とどんぐりの背比べです。
「日本政府は非系統的知識を出しつづけた」という発言がもの凄く信用のならないものであり、失笑した人達・藤垣氏も疑いの目で見るべきでしょう。
以降は、文字遊びにしか見えなかったので、ぱらぱらッとめくって、気になったところだけ読みました。
5 科学の倫理的・法的・社会的側面
6 責任ある研究とイノベーション
やっと「科学技術社会論(STS)」が登場したよ
(p.62)今やRRIはELSI、TA、応用倫理、科学技術社会論(STS)、企業の社会的責任(CSR)、予測によるガバナンス、価値にもとづくデザイン、自由市場による資本主義の過度の超過に対する改善の手段、などさまざまな研究潮流を含みこむアンプレラ・タームとして機能しはじめている。次章では、RRIの具体的内容、RRIへの批判と可能性を論じる。
今までSTSの文脈だと思われる記述があったが、6章になってやっと「科学技術社会論(STS)」が登場している。
それにもかかわらず、それがなんなのか説明していない。
「はじめに」に書くべきことなのなのにね。
本当に「安全側に偏った情報のみ」流しましたか?
(pp.85-86)このようなリベラルアーツやシティズンシップ(能動的な市民性)を考慮すると、科学者の助言のありかたや、政府から市民への発信のありかたも変わっていく必要がでてくる。たとえば東日本大震災直後、政府や専門家は、無用なパニックを避けるために安全側に偏った情報のみを流し、ただちに問題はないと言い続けた。
幅があっても偏りのない系統的知識(第4章参照)を流すことができなかった。しかし、無用なパニックを起こすほど日本人の知性は低いのだろうか。政府や専門家は、国民のリテラシーを低くみていたからこそ、安全側に偏った情報を流したのではないか。そして逆説的なことに、安全側に偏った情報しか流さない政府を市民が信用しなくなるという現象が起きたのである。
政府は、「安全側に偏った情報のみを流し」たと言っているが、「のみ」というのはあからさまなデマだ。
デマ屋がよくする表現で、完全否定・肯定を安易にする。
「安全側に偏った情報のみを流し」としておけばよいものを、イデオロギーに負けたようですね。
水素爆発が起きる前に避難を開始したり、食品の基準値を 100 Bq/kg としたなど、否定できる情報は簡単に出せる。
「ただちに問題はないと言い続けた」が正しかったことは、先に紹介したUNSCEARの報告書を見ればわかる。
「無用なパニックを起こすほど日本人の知性は低いのだろうか」などというが、結構な数で科学リテラシーの低い人がいて、デマ屋に騙されてゼロリスクを望んだりしていたのは事実だ。
7 これからの時代の責任
あとがき
注
4章の注(5)はあからさまに間違っていますね。
×「エイズに感染して死亡した血友病患者」
○「HIVに感染し、エイズを発症して死亡した血友病患者」
6章の(22)には「HIVに汚染された血液製剤の事件が紹介されている」とあるので、理解しているのかもしれないが、上記は間違っていることには変わりがない。
1 社会的存在としての科学者
(1)池内了,科学・技術と現代社会(上巻),みすず書房,2014,p.244
(2)村上陽一郎,科学者とは何か,新潮選書,1994,p.34-38
(3)R.Merton. The Sociology of Science: Theoretical and Empirical Investigations. University of Chicago Press.1973
(4)藤垣裕子.専門知と公共性-科学技術社会論の構築にむけて,東京大学出版会.2003.
(5)カール・ミッチャム編.岡本拓司監訳,科学・技術・倫理百科事典丸善出版,2011.の「責任」の項(ハンス・レンク執筆),とりわけp.1324(原著は2005年刊).
(6)Vannevar Bush, Science: The Endless Frontier, Washington. D.C.:GPO.1945.
(7)前掲ミッチャム編,p.1320-1326
(8)もちろん原子核物理学者のなかには,「科学の研究開発はあくまで善の側」という言い回しをしない学者もいた.「物理学者の原罪」という言葉にそれが現れている.第4章参照.
2 責任の三つの相
(1)この考え方は,行為責任/役割責任/一般的道徳責任の分類のうち,行為責任の考え方(自分の行為の結果や帰結に対して責任をもつ)である.前掲ミッチャム編,p.1329-1334
(2)エマニュエル・レヴィナス,合田正人訳,存在の彼方へ,講談社学術文庫,1999,および,瀧川裕英,責任の意味と制度-負担から応答へ,勁草書房.2003
(3)On Being a Scientist: Responsible Conduct in Research.この冊子は,13章からなり,科学の社会的基礎,実験テクニックとデータの扱い方,科学における価値観,利害による衝突,出版と公開,業績評価とその表記.著者名の扱い方.科学上の間違いと手抜き行為,科学における不正行為,科学的倫理違反とその反応,社会のなかの科学者などの項目について,丁寧に説明されている.9割がたは,研究者共同体のなかで守るべき責任であるが,第12章「社会のなかの科学」では、科学の生産物が社会に与えるインパクトへの責任,一般の人に科学の中身や過程を教える役割に言及している.
(4)たとえば,公開シンポジウム「科学研究の規制と法-研究不正をどう扱うべきか?」東京大学医学部研究教育棟、2014年9月28日の場では、このような点が議論となった.
(5)藤垣裕子,科学者の社会的責任と科学コミュニケーション,藤垣裕子・廣野善幸編,科学コミュニケーション論,東京大学出版会,2008.第13章
(6)特に2011年の東日本大震災後は、専門家の社会リテラシーについての議論が活発に行われた.たとえば、科学技術・学術審議会「東日本大震災をふまえた今後の科学技術・学術政策の在り方について」(建議)平成25年1月17日参照.
(7)朝永振一郎,原子核研究と科学者の態度.中央公論1955年1月号.朝水振一郎著作集6:開かれた研究所と指導者たち,みすず書房.1982年所収
(8)B.Wynne, Knowledge in Context, Science, Technology & HumanValue.16,1991.p.111.
(9)『現代用語の基礎知識』一九九七年版を参照.
(10)杉山滋郎,水俣病事例における行政と科学者とメディアの相互作用,藤垣裕子編,科学技術社会論の技法,東京大学出版会,2005,第1章.
(11)「動作中の科学」(Science in the Making)については,Bruno Latour.Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers through Society. Harvard University Press, 1987.
(12)S.Miller, Public Understanding of Science at the Crossroads. Public Understanding of Science,10,2001,p.115.
(13)「発掘!あるある大事典」とは,1996年から2007年1月まで関西テレビが制作.フジテレビ系列で毎週日曜に放送されていた番組である.ある食品が健康によいという内容を実験を使って示し,ゲストとともに納得する構成であった.しかし,過去の放映の中で紹介された実験のなかに,根拠が不明であったりデータが捏造されたりしているのではと疑われる内容が複数あったため,2007年1月に社会問題化した
(14)Japanese TV Show Admits Faking Science, p804.
(15)T.W.Burns, et al., Science Communication: A Contemporary Deffnition. Public Understanding of Science,12.2003.p.183
(16)日本経済新聞2007年2月24日夕刊.
(17)前掲ミッチャム編,p.1330.
(18)同上.p.1332
(19)藤垣裕子,研究不正とは何か-専門誌共同体と研究者集団の自律性をめぐって,科学技術社会論研究,14,2017,p.11-21.
(20) Nature.439 (12 Jan.2006), p.118
(21)N.Wade and C.hang-han. Researcher Faked Evidence of HumanCloning. The New York Times, 10 Jan.2006
(22)ここで一般誌は,査読システムを科学者による真偽境界の「境界作業」としてとらえていることがわかる.科学論で境界作業(boundary-work)の考え方とは,境界がはじめから本質的に存在するとする「境界画定問題」(demarcation-problem)として扱うのではなく,境界は「人々が引こうとする」ものであるととらえる.境界画定問題では,科学と非科学とを分ける”本質”を探ろうとするのに対して,境界作業では,人々が境界を引こうとする作業をていねいに記述する(T.F. Gieryn. Boundaries of Science, in S.Jasanoff. et al.(eds.), Handbook of Science and Technology Studies,Sage,1995).
(23)日本経済新聞2005年12月24日朝刊7面(東京版)記名記事
(24)たとえば,Standards for Papers on Cloning. Nature,439(19Jan2006),p.243
(25) Nature,439(19Jan.252
3 科学の原罪論と役割責任
(1)朝永振一郎,物質科学にひそむ原罪,朝永振一郎著作集4:科学と人間,1982.p.103-119
(2)R.Oppenheimer. “Arthur D.Little Memorial Lecture” at M. I.T. T.25 November1947.この記念講演は,以下に所収.J.Robert Oppenheimer,Physics in the Contemporary World, Bulletin of the Atomic Scientists,4(3),1948.p.66
(3)前掲朝永,物質科学にひそむ原罪,p.114,
(4)同上.p.118.
(5)ちなみに吉岡斉によると.「科学者の社会的責任についての古典的な定式化をおこなった世界科学労働者連盟について見る限り,原爆投下によって,科学者たちがみずからの罪に気づき,倫理的責任を真剣に考えるようになった.という説明はあてはまらない.」「ヨーロッパにおける科学者の社会的責任の思想には,科学者の罪の意識が,ほとんど含まれていなかった」(吉岡斉科学者はかわるか–科学と社会の思想史.社会思想社.1984,p.22-23)
(6)唐木順三,科学者の社会的責任についての覚え書,筑摩書房,1980 p.127-128(ちくま学芸文庫,2012,p.95-96).
(7)前掲ミッチャム編,p.1329-1334.
(8) Russel-Einstein Manifesto, 9 July1955
(9)2016年2月5日に田町で開催されたパグウォッシュ会議運営諮問委員会で実際にかわされた議論による.
(10)ここで注意してほしいのは,個人としての人道性の英語がhumanityである点である.humanityには4つの意味がある.1)人類,人間,2)人間性,人間らしさ,3)思いやり.慈悲心.そして4)人文学である.一人の人間としての良心の責任は,科学者の社会的責任といっても,広く人文学や社会科学の側面から問われるものなのかもしれない.
(11)Bulletin of the Atomic Scientists,13(7).1957.p.252
(12)同上,項目9で「伝統」についてのべ,項目10で科学の国際協力の伝統について述べている
(13)日本の物理学者たちの第二次世界大戦直後および1950年代の反戦運動.1960年代のベトナム反戦運動や米軍資金への対応,1970年代の「物理学者の社会的責任」シンポジウム等については以下を参照.山崎正勝,平和問題と原子力–物理学者はどう向き合ってきたのか,日本物理学会誌71(12).2016:杉山滋郎,「軍事研究」の戦後史–科学者はどう向き合ってきたか.ミネルヴァ書房,2017:河野洋人,日本物理学会における「物理学者の社会的責任」シンポジウムとその社会的文脈–白鳥紀一氏へのインタビユーをもとに,東京大学科学技術インタープリター養成プログラム修了論文集,2014.p.191-219.反戦運動や軍資金導入反対を行うことは明らかにthe paramount responsibility of scientists outside their professional workであり,役割責任と一般的道徳責任が渾然となったものである.
(14)日本物理学会は今後内外を問わず,一切の軍隊からの援助,その他-切の協力関係をもたない(1967年9月9日).
(15)中山茂.科学と社会の現代史,岩波現代選書,1981,p.120-122
(16)広重徹,近代科学再考,朝日選書,1979
(17)同上,p.22-25
(18)前掲中山.p.112
(19)有本建男・佐藤靖・松尾敬子・吉川弘之.科学的助言-21世紀の科学技術と政策形成,東京大学出版会,2016
(20)藤垣裕子,戦後70年と科学技術政策,神奈川大学評論,81,2015,p.73-82
(21)たとえば,湯川秀樹,現代科学と人間.岩波書店,1961:朝永振一郎朝永振一郎著作集5:科学者の社会的責任,1982:武谷三男,科学者の社会的責任–核兵器に関して,勁草書房.1982など.また,日本物理学会では,1977年から会員有志の主催によって「物理学者の社会的責任」シンポジウムが継続的に開かれている.
(22)A statement of21Japanese physicists who support the Pugwash Conferences sent by telegram on3 April1958. from Hideki Yukawa. Kyoto. Japan. Russell.
(23)原子力をコントロールすることによって物理学者の社会的責任を果たそうとした実践としては以下を参照坂田昌一(樫本喜一編),原子力をめぐる科学者の社会的責任.岩波書店,2011.
(24)藤垣裕子.福島事故の背後にあるもの-科学技術ガバナンスでも世界に誇れる国か否か,日本原子力学会誌,59(10),2017,p.19-23.
(25)この点については唐木順三が著書の中で次のように指摘している。「科学者たちは「核兵器は絶対悪なり」といふ判断,価値判断を,社会一般に対して下しながら,科学者自身に対しての研究目的に対しての善悪の価値判断を表白することは稀である」(前掲唐木,科学者の社会的責任についての覚え書.p.127).
(26)この時代の科学者の社会的責任が「行動する」の軸にあったことは,日本に限った話ではない.たとえばベトナム戦争当時に米国物理学会であった動きについては,以下参照.C.Schwartz,A Physicist on Professional Organization. in M.Brown (ed.). The Social Responsibility of Scientist. The Free Press, 19-34
(27)前掲坂田
(28)中岡哲郎,科学文明の曲りかど,朝日選書,1979
(29)中岡哲郎,もののみえてくる過程,朝日新聞社,1980
(30)他に,柴谷篤弘、あなたにとって科学とは何か-市民のための科学批判,みすず書房,1977:里深文彦,等身大の科学–80年代科学技術への構想,日本プリタニカ,1980:中村禎里,科学者–その方法と世界.朝日選書.1979. などがある
(31)ちなみに1981年当時の東京大学全学一般教育ゼミナール「自己形成としての教養と学問」では,知識人の自己否定論が議論され,物理学研究会同人誌では科学の体制化論が議論された(ニュートリノ.物理学研究会,15(1981年11月21日)).また.当時の理科系の学生用の『哲学概説』(廣松渉担当)の授業では,疎外論が批判的に検討されたうえで物象化論が展開された(廣松渉,事的世界観への前哨–物象化論の認識論的=存在論的位相,勁草書房.1975).
(32)「科学にこだわりながら科学批判をする立場から,体制内で行われている科学と,非専門家の市民との間のどうしようもない矛盾ということに気づいた.(中略)専門性をひっかぶりながら,体制側と市民の間に置いて,両方からのプレッシャーのなかに,ちょうど矛盾の吹き溜まりみたいなところに自分を置いて.そこからスタートする.そういう方法論なんです」(高木仁三郎.わが内なるエコロジー,農山漁村文化協会,1982,p150)。彼は微底して生活者の自然科学,作品性をもつ科学を訴えるが,このような作品性をもつ科学は,当然のことながらIF(インパクトファクター)などで引用度が数値化される論文生産にはなじまない.生活者の自然科学は体制化科学の対極にあったのである.
(33)花崎皐平,生きる場の哲学–共感からの出発,岩波新書,1981
(34)川本隆史.科学と倫理のあいだ–「科学者の社会的責任」をめぐって,理想.628,1985,p.130-141,esp.p.139
4 不確実性下の責任
(1)”questions which can be asked of science and yet which cannot be answered by science’
(2)たとえば,「運転中の原子力発電所の安全装置がすべて,同時に故障した場合,深刻な事故が生じる」ということに関しては,専門家の間に意見の不一致はない.これは科学的に解答可能な問題なのである.科学が問い.科学が答えることができる.他方,「すべての安全装置が同時に故障することがあるかどうか」という問いは「トランス・サイエンス」の問いなのである(小林傳司.トランス・サイエンスの時代,NTT出版,2007,p.124).
(3)橋本道夫.私的環境行政,朝日新聞社,1988,p.126-127.
(4)1983年5月に設置許可のでた原子力発電所「もんじゅ」に対し、近隣住民が設置許可は無効として行政訴訟をおこしたもの,2000年3月に福井地裁で住民側は敗訴,2003年1月に名古屋高裁金沢支部で住民側勝訴2005年5月最高裁判決で住民側が敗訴した.1980年代の設置許可の安全審査の過程に看過しがたい過誤があったかどうかが問われ,工学者の判断の範囲,行政訴訟の判断の範囲をめぐる論争がおこった.詳細は,小林傳司.もんじゅ訴訟からみた日本の原子力問題.前掲藤垣編,科学技術社会論の技法,p.43-74
(5)1985年5月から1986年4月の間の非加熱製剤の投与により,エイズに感染して死亡した血友病患者に対し,当時非加熱製剤の安全性について議論していた委員会の長である医師と厚生省課長と製薬会社の責任が問われた事件.この委員会の意思決定の際,非加熱製剤の危険性がどのくらい世界で共有されていたかが争点となり、医師の考える責任の範囲と法律家の考える責任の範囲との差異も議論となった.詳細は,廣野善幸,薬害エイズ問題の科学技術社会論的分析にむけて,前掲藤垣編,科学技術社会論の技法,p.75-99
(6)同上廣野論文,p.87-93
(7)Beef Scandal in Japan, Nature,413,2001.p.333.
(8)松原望.環境学におけるデータの十分性と意思決定判断,石弘之編。環境学の技法,東京大学出版会,2002.p.167
(9)ジョン・フォージ.佐藤透・渡邉嘉男訳.科学者の責任-哲学的探求。産業図書.2013.
(10)朝日新聞2012年1月21日夕刊(東京版)2面記事など参照
(11)2002年にファイル交換ソフトウェアWinnyを開発した元東大助手が2004年5月に違法ファイルコピーを幇助した罪で逮捕.起訴された.2006年12月に京都地裁で有罪判決.2009年10月には大阪高裁で逆転無罪判決、2011年12月の最高裁で無罪が確定した.現行の法律からみて開発者の行為は著作権侵害を幇助するという意味で罪であると考える派.現在の技術によって簡単に著作権法違反が発生してしまう現状のほうが問題であり,技術の進歩とともに法律も進化するべきとする派.などがある.また,違法ファイルコピーを可能とするソフトウェアを開発した技術者は,著作権侵害を幇助したことになるのか否かが争点となった.詳細は,調麻佐志,最先端技術と法–Winny事件から,前掲藤垣編,科学技術社会論の技法.p.199-219.
(12)フォージはこの点を「手段原則」のなかの主目的と二次的目的という形で論じている(前掲書,p.218).兵器開発は主目的であるが,Winnyによる違法コピーは二次的目的ということになる.
(13)Dealing with Disasters: Perspectives on Fukushima from the History and Social Studies of Science and Technology. HSS/SHOT/4S Joint Plenary 3 Nov.2011,Cleveland C.
(14)大西隆.ポスト3.11:変わる科学技術立国-科学者の役割は,日本経済新聞2012年2月20日朝刊(東京版)11面.
(15)科学技術社会論学会第10回年次研究大会(京都),2011年12月
(16)セオドア・T・ポーター.藤垣裕子訳,数値と客観性.みすず書房.2013.p.286
(17)同上.p.280
(18)広渡清吾.学者にできることは何か,岩波書店,2012,p.73およびp.123
(19)幅のある助言のありかたについては,日本学術会議の「科学者からの自立的な科学情報の発信の在り方検討委員会」で詳細にわたって検討された(2013年9月から2014年9月).たとえば,安全性あるいは危険性の判断にたいして専門家の意見に幅があるときに,「生のデータ」「データの解釈」「データを基礎とした選択肢の決定」「選択肢の提示」「選択肢にたいする専門家の意見分布」のなかのどれを公開すべきかなどを議論した
(20)R.A.Pielke, Jr., The Honest Broker: Making Sense of Science in Policy and Politics, Cambridge University Press.2007.v.
(21)21st CenturyGCSE Science: GCSE Science Higher. Oxford University Press,2006
(22)市民性。市民が市民権を責任もって行使すること,たとえばエコロジカル・シティズンシップ(アンドリュー・ドブソン,福士正博・桑田学訳、シチズンシップと環境.日本経済評論社.2006).ジェネティック・シティズンシップ(デボラ・ヒースほか.仙波由加里訳.ジェネティック・シチズンシップとは何か,現代思想,32(14),2004,p.173-189)などがある
5 科学の倫理的・法的・社会的側面
(1)https://ec.europa.eu/programmes/horizon2020/en/h2020-section/responsible-research-innovation参照.
(2)Yuko Fujigaki, Case Studies for Responsible Innovation: Lessons from Fukushima, in F. Ferri, et al. (eds.), Governance and Sustainability of Responsible Research and Innovation Process: Cases and Experiences. Springer, p.13-18
(3)ELSI概念とRRIとの関係の詳細については.以下を参照.J.Stilgoe and D.H. Guston. Responsible Research and Innovation, in U.Felt. et al (eds.). The Handbook of Science and Technology Studies.4thedition The MIT Press,2017.p.853-880および,吉澤剛,責任ある研究・イノベーション-ELSIを越えて,研究技術計画,28(1),2013.p.106-122
(4)OTA: Office of Technology Assessment.
(5)TA実施機関には3つのタイプがある.1つは独立機関型で,デンマークDBT(技術評価局).オランダNORAT(技術研究局)など,議会からも行政からも独立したタイプ.2つめは議会付属型で,英国OST(議会科学技術局).フランスOPECST(議会科学技術政策評価局),ドイツTAB(議会技術帰結評価局)など,議会に附置されているタイプ.3つめが行政機関型で,スイスのサイエンスカウンシル(内務省のなかにある)などである.
(6)「科学に聞くことはできても答えることができない」トランス・サイエンスの領域では、発言資格をもつのは専門家だけではない.そこで憂慮する人々や一般市民.関与する人々の参加が必要となるのである.詳しくは以下参照.小林傳司.科学技術への市民参加,小林信一他著,社会技術概論,放送大学教育振興会. 第8章p.107-126
(7)藤垣裕子,海外の社会技術,前掲小林信一他著,社会技術概論,第13章p.177-189
(8)コンセンサス会議とは,科学技術に関する特定のテーマについて,専門家ではなく一般の人々から公募された市民パネルが、公開の場でさまざまな専門家による説明を聞き,質疑応答をへて,市民パネル同士で議論をして市民パネラーの合意(コンセンサス)をまとめ,広く公表すること.コンセンサス会議以外のPTAの手法としては,市民陪審員制度,シナリオ・ワークショップなどがある.
(9)原語は.Upstream Engagement.J. Wilsdon and R. Willis, Seee. Through Science: Why Public Engagement Needs to Move Upstream. Demos, 2004.
(10)透明性(transparency)とは,意思決定のプロセスが他から観察・監視可能という意味で透明であり,密室の見えないところでの意思決定ではないという意味である.
(11)A.Rip. W.S.Johan, and T.J. Misa, Constructive Technology Assessment: A New Paradigm for Managing Technology in Society, in A. Rip. et al. (eds.). Managing Approach in Society: The Approach of Constructive Technology Assessment. Pinter (London).1995.p.1-12(12)R. von Schomberg. Organizing Collective Responsibility: Our Precaution. Codes of Conduct and Understanding Public Debate. in U. Fiedeler. (eds.), Understanding Nanotechnotechnology. AKA Verlag.2010.p.61
(13)同上.p.62.強調は引用者による
(14)同上.p.62
(15)R.von Schomberg. Prospects for Technology Assessment in a Framework of Responsible Research and Innovation. in M. Dusseldorp and R.Beecroft (eds.).Technikfolgenabschatzen lehren: Bildungspotenziale transdisziplinrer Methoden. VS Verlag.2011.p.9.
(16)https://ec.europa.eu/programmes/horizon2020/what-horizon-2020
(17)https://ec.europa.eu/programmes/horizon2020/en/h2020-section/responsible-research-innovation
(18)それぞれ.たとえば『ロングマン英英辞典』(1987)の当該箇所参照
(19)たとえばWikipediaのELSIの定義は次のようになっている.The acronyms ELSI (in the United States) and ELSA (in Europe) refer to research activities that anticipate and address ethical. legal and social implications (ELSI) or aspects (ELSA) of emerging life sciences. notably genomics and nanotechnology.(下線は引用者による)
(20)さまざまな含意を包み込む包括的概念を指す.たとえばsustainable(持続可能な)といった言葉もこれに入る.A.Rip and J-P. Voss, Umbrella Terms as Mediators in the Governance of Emerging Science and Technology. Science, Technoloqu and Imovation Studies,9(2).2013.p.39-59.
6 責任ある研究とイノベーション
(1)Marina Project(Marine Knowledge Sharing Platform for Federating Responsible Research and Innovation Communities), https://www.marinaproject.eu/ 参照
(2)MML-WS: Mobilization and Mutual Learning Work Shop.
(3)F. Ferri, et al., The MARINA Project: Promoting Responsible Re.search and Innovation to Meet Marine Challenge, in F.Ferri. et al(eds.). Governance and Sustainability of Responsible Research and Innovation Process.p.71-81.
(4)Horizon2020で定義されている社会的課題(健康,食品安全.安全なエネルギー確保,輸送.気候変動や資源確保へのアクション,変動する国際情勢のなかの欧州のありかた等)との関連が議論されている.
(5)ASSET (Action plan on Science in Society related issues in Epidemics
and Total pandemics),http://www.asset-scienceinsociety.eu/参照
(6)EnRRICH Responsible Responsible Research and Innovation through Curricula in Higher Education)Project, http://www.livingknowledge.org/projects/enrrich/ 参照.
(7)PRISMA Responsible Research and Innovation Industry) Project. http://www.rri-prisma.eu/ 参照.
(8)S. M. Yaghmaei. The Value Value Value of Performance in Industry. in F. Ferri, et al. (eds.). Governance and Sustainability Responsible Research and Innovation 47
(9)International Conference on Responsible Research and Innovation in Science. Innovation and Society2017(RRI-SIS2017),Rome.25-26*, September.たとえばhttp://stips.jp/20170925-2/ 参照
(10)たとえば.平成27年度国立大学教養教育実施組織会議において岩手大学教養教育センター長より報告されたPBL実践例をみると,初年次学生全員で「被災地にでむき,地元の方の話を聞き,岩手県への理解を深めるとともに,岩手県の復興に自らが何をすべきか.何ができるかを深く考えるきっかけづくりとする」PBL型の被災地学習などがある(松林城弘、教養教育におけるアクティブラーニングについて,国立大学教養教育実施組織会議平成27年5月29日).
(11)国際科学技術社会論学会(Society for Social Studies of Science)の2017年年次研究大会(ボストン,2017年8月30日から9月2日)で.Responsible Research and Innovation in Academic Practiceというセッションがオーガナイズされ,オーストリア,スウェーデン,オランダ,ドイツ,ノルウェーから事例報告があり.このような議論が展開された
(12)たとえば.2015年6月8日に文部科学省が国立大学法人に対し,人文社会科学や教員養成の学部・大学院の縮小や統廃合を求め,「社会的要請の高い分野」への転換を求める通知を出したこと(「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知).第3:国立大学法人の組織及び業務全般の見直しの1(1)「ミッションの再定義」を踏まえた組織の見直し」)や.これを受けて人文社会科学系の存在意義や「役に立つ」の内実について多くの議論が喚起されたことなどが例としてあげられる
(13)第5章で詳述したResponsibleの意味を考えれば,「役に立つ」こと
と,Responsibleであることは,当然のことながら同じではない.
(14)G.Solbu, Imaginaries of Responsibility and their Performances. Session296(Responsible Research and Innovation in Academic Practice ~Anticipation. Care and Responsiveness),4SAnnual Meeting. Boston. September,2017
(15)Academic strategies to cope with budgeting uncertainty.
(16)R.von Schomberg. Organizing Collective Responsibility: Our Precaution. Codes of Conduct anderstanding Public Debate, in U. Fiedeler. et al. (eds.). Understanding Nanotechnology. p.62
(17)U. Risikogesellschaft, Suhrkamp Verlag. ヒ・ベック.東廉・伊藤美登里訳.危険社会-新しい近代への道.法政大学出版局1998):A. Feenberg. Questioning Technology,Routledge,19999(アンドリュー・フィーンバーグ,直江清隆訳,技術への問い,岩波書店,2004).
(18)たとえば上野千鶴子編,構築主義とは何か,勁草書房,2001
(19)科学論における社会構成主義の代表的著作は,1966年のBerger and Luckmanをはじめとして1970年代から1980年代に書かれている.そのため1970年代に日本で独自に展開された市民運動論のなかには社会構成主義的発想(現在当然視されているものが,なぜそのように見られるようになったのか.知識に権力が発生するプロセスへの問い直しの発想)が少ない。藤垣裕子.「固い」科学観再考–社会構成主義の階層性,思想.973,2005,p.27-47
(20)類似の例として以下をあげる.イギリスのウェルカムトラストでは2003年から2006年に芸術(Arts)が生命科学と関与する資金提供プロジェクトとしてPuiseというものを実施し,生命倫理がからむ課題に演劇などを扱っている.さらに,Pulseプロジェクトの後.For the Bestというプロジェクトが芸術分野の資金提供を受けており、腎臓病の子どもと家族の経験を院内学級の子どもたちが演劇で表現するという取り組みを行っている http://www.wellcome.ac.uk/Funding/Public-engagement/Funding-schemes/Arts-Awards/index.htm および http://annaledgard.com/wp-content/uploads/forthebest evaluation. participatory arts project(参加型芸術プロジェクト)という言葉が使われており,日本でいえば,教育における「アクティブラーニング」と,科学技術社会論における「市民参加」と,芸術家による「一般市民の芸術への参加」という.それぞれ別の文脈で語られているものの統合体のプロジェクトが動いていることが読み取れるのだが,残念ながら日本にくると,もともとつながっている潮流が別々の研究領域に分断されて解釈されてしまい.統合体としてとらえられにくい傾向がある
(21)添田孝史は著書(原発と大津波-警告を葬った人々,岩波新書,2014)のなかで,津波研究者からの警告を原子力発電所の防災にうまく生かすことのできなかった中央防災会議、東電、保安院などの組織の陥穽を暴くとともに,自らの所属するメディアの責任も問うたうえで,「怖いのは,組織の中で定年退職までつつがなく過ごし,良い条件の天下りや第二の就職先を確保するためなら,私も彼らと同じようにふるまった可能性が,少なからずあることだ」と述べている.
(22)たとえば2001年9月27日のNature,413,p.333では,日本におけるBSE発生について言及され,EUからの警告にもかかわらずBSEが発生してしまったこと,およびこの種の問題に対して日本政府の対応が遅いことの例として水俣病やHIVに汚染された血液製剤の事件が紹介されているしかしこの記事は,痛烈な日本批判であると同時に.日本への期待をも表明している.「日本は,高価だが必要なテストを行って適切な制限処置をとるための経済力と,規制に関する実際的知識をもっていると考えられる.日本は,どういう対策をとればよいかを日本ほど裕福でないアジアの近隣諸国に教えるモデルになることもできたはずだ.ところが,日本は完全に遅れをとってしまった」という第7段落の表現には,日本に対する高い期待が感じられる.こういった期待に対し,システムをどのように再編すれば日本が世界のなかで責任を果たしているとみなされるかを考えることは必須であろう
(23)雑誌の引用度を指標化した数字.ある雑誌に掲載された論文がある期間(Citation-Windowという.通常は2年間)に他の雑誌の論文に引用された回数を,その雑誌に掲載された論文総数で標準化することによって算出する.ただし,この値はCitation-Windowをどのように取るかで変わりうる.
(24)科学技術政策研究所,日本の大学における研究力の現状と課題,NISTEP科学技術・学術政策ブックレットVer.2,平成25年4月
(25)科学技術・学術審議会総会(第43回),資料1-1.平成25年4月22日.
(26)もちろん評価の年には各プログラムのPO(プログラム・オフィサー)がプログラムで育てた大学院生にヒアリングをして,現場の声を聞く回路はある.しかし評価のためのヒアリングで「使いにくさ」「阻害要因」を吸い上げて次の制度設計にきちんと取り込めているかどうかはまだ不十分な部分があることは否めない.
(27)国会事故調報告書.p.27
(28)前掲添田,原発と大津波
(29)同上,p.197-199
7 これからの時代の責任
(1)三島憲一,70年後のドイツ-議論による共同学習か,国家の利害か,神奈川大学評論.81.2015.p.50-60
(2)ユルゲン・ハーバーマス,絹谷貞雄訳,公共性の構造転換.未来社,1973(新版1994.細谷貞雄・山田正行訳).
(3)A.Edwards, Scientific Expertise and Policy-making: The Intermedjary Role of the Public Sphere. Science and Public Policy.26(3).1999, p.163-170
(4)NHKクローズアップ現代「”いのち”を変える新技術-ゲノム編集最前線」(2015年7月30日放送)および山中伸弥、IPS細胞と私たちの未来持続可能な研究のために,現代思想,45(9),2017.p.8-22.
(5)1916年にゾイデル海のまわりの堤防が壊れて多くの犠牲者が出た後オランダ政府はゾイデル海およびワッデン海に堤防を作ることを計画し,1918年に堤防の高さを決める委員会を立ち上げ,委員長にローレンツを起用した.この堤防の計算には,1)正常時の潮の干満による潮の高さの予測と2)暴風時の高潮の計算の両方が必要であった.1)については,潮の干満の問題は海洋学者にとっておなじみの問題であったが,それまで海洋学者のやっていたものは深い海の問題ばかりで,水と底との間の摩擦が問題にならないものばかりであった.これに対して水と底との摩擦の問題は土木学者にはなじみ深いものであったが,彼らのやっていたものは川および運河の流れ,つまり定常的な流れの問題ばかりであった.基礎方程式はあったが,ゾイデル海およびワッデン海のように島と島の隙間から浅い砂底の海になだれこんでくる高潮の動きにあてはめてこの式を解くことは大変難しい問題であったローレンツは北海から流れ込む潮の波とダムによって反射された波との干渉に気づき,適切なダムの高さの提案に貢献した(朝永振一郎,ゾイデル海の水防とローレンツ,朝永振一郎著作集4:科学と人間,1982,p.256-265および同巻所収の,科学と技術と政治–1つのケース・スタディ,p.252-255).
(6)朝永は,前掲「ゾイデル海の水防とローレンツ」のなかで,堤防事業を科学的なやり方で出発させ,その委員会にローレンツを起用したオランダの政治家のありかたを賞賛している.このような土壌は,じつは工学をめぐる「技術文化」にあること.そしてリスク算出の主体が米国では海岸工学の専門家集団に閉じられているのに対し,オランダではデルタブラン法という法律に基づき,議会での議論に開かれていることが,STS(科学技術社会論)研究者によって明らかにされている.W.E. Bijker, American and Dutch Coastal Engineering: Differences in Risk Conception and Differences in Technological Culture, Social Studies of Science.37(1),2007,p.143-151
(7)ドイツの社会学者レンは,専門家利用のスタイルを4つに分類し,1)対戦型.2)信託型.3)合意型.4)協調組合型に分けている.対戦型は米国に典型的な方式で,賛成-反対それぞれの専門家が対戦する形であり,精確な手続き的ルールにしたがって議論を行う.信託型は英国やオランダの王立協会に見られる専門家利用の方法であり,手続き的ルールはなく,王立協会への情報提供がなされる.合意型は日本の審議会によくみられるもので,専門家と行政官の閉じられた空間でのネゴシエーションが行われ,議論手続きのルールは明確ではない.協調組合型は北欧によくみられる形式で,ある案件に賛成派の市民.反対派市民それぞれに専門家が雇用されて議論がなされ,堅固な手続き的ルールが存在する(O. Renn, Style of Using Scientific Enterprise: A Comparative Framework. Science and Public Policy.22(3).1995.p.147-156).
(8)前掲三島,p.60
(9)ここで声を上げて譲らない態度とは,自分を安全なところにおいて責任を取らないクレーマーという意味ではなく,自らも責任を取る覚悟をもって声を上げて譲らない態度を指す.
(10)たとえば,榎原雅治,地震研究と歴史学-異分野連携のもつ可能性,科学,88(6).2018.巻頭エッセイ
(11)鷲田清一.パラレルな知性,晶文社.2013
(12)前掲三島.p.36
(13)(リベラルアーツの目的は)こころを開くこと,直すこと,再定義すること,そして知識のなんたるかを知り,かみくだき,習得し,自分のものとし,使えるようにすること,そしてこころそれ自体の能力,応用力,柔軟性秩序,批評の精度,洞察力,底力,他者への態度.(そして)説得力ある表現に力を与えるものである(John Henry Newman. The Idea of a University.1854)
(14)ラッセル卿がMark Orfingerにあてた手紙(1962年3月26日)のなかの言葉.Dear Bertrand Russell. a selection of his correspondence with the general public 1950-1968, George Allen and Unwin,1969
(15)たとえばフランスでは、市民教育の一環としての教養が大事にされており,教養教育の主眼は,成熟した市民(シトワイアン).よき優れた市民になることに置かれている(山折哲夫・鷲田清一.教養をめぐる.経済界トップの勘違い.http://www.kokoro-forum.jp/report/toyokeizai0911/)
(16)アンドリュー・ドブソン.福士正博・桑田学訳,シチズンシップと環境,日本経済評論社.2006
(17)東京大学では、専門教育を受けた後の教養教育を後期教養教育と呼んで2016年度より実施している.趣意書は以下参照.https://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/koukikyouyou.html
(18)実際にこのような問いを用いた学生の議論の記録については以下参照 石井洋二郎・藤垣裕子,大人になるためのリベラルアーツ–思考演習12題. 2016
(19)同上,p.274.
(20)教養を論じるときに避けて通れない概念として,少なくとも以下の3つのものがある.1つは本章でも扱ったリベラルアーツであり,2つめは近代国民国家の形成とともに,ドイツを中心に大学の役割を定式化するために据えられたBildung(人格の陶冶)概念に基礎をおくものである.近代産業社会の発展にともなって知識が断片化する力に対抗して,文化の「全体性」にむけて個人を陶治する力を涵養することこそ大学の使命とされた.その意味では,Bildungを源とする教養概念はきわめて国民国家主義的なものである3つめは20世紀の米国で,専門教育と対置する形で言及されるようになった一般教育(general education)の概念である.すべての人が自由であることを掲げる民主主義国家アメリカでは,すべての構成員に対する教育が必須であり、古代の奴隷制社会における貴族主義的理念構造をもつリベラルアーツ概念が批判された(藤垣裕子,後期教養教育と統合学-リベラルアーツと知の統合,山脇直司編,教養教育と統合知,東京大学出版会,2018.p.37-76)
(21)斎藤兆史,教養の力-東大駒場で学ぶということ,集英社新書,2013
(22)R.von Schomberg. Organizing Collective Responsibility: Our Precaution, Codes of Conduct and Understanding Public Debate, in U. Fiedeler. et al.(eds.). Understanding Nanotechnology.p.62.
(23)研究者養成におけるこのような能力の育成については,以下参照.標葉隆馬ほか.研究者養成における「科学と社会」教育の取り組み-総合研究大学院大学の事例から,研究技術計画,29(2/3),2014,p.90-105
(24)藤垣裕子,三大災害(地震,津波,原子力発電所事故)の科学技術社会論的分析,東京大学教養学部報精選集,東京大学出版会,2016,p.105-107.
(25)不確実性のある社会でシティズンシップを養成するためには,現実にあるものを批判的にみる視点の涵養という意味で,人文・社会科学の存在も欠かせない
(26)研究不正は,研究者の社会的リテラシー(自らの研究成果が社会の中にどう埋め込まれ,展開されていくのか想像できる能力)の欠如によって発生する.第2章でのべたように,社会的リテラシーは研究者の社会に対する責任の1つでもある.藤垣裕子,STAP騒動の背景.毎日新聞2014年4月22日夕刊(東京版),および藤垣裕子,研究公正とは何か–専門誌共同体と研究者集団の自律性をめぐって,科学技術社会論研究,14,2017.p.11-21
(27)cultureは「耕す」を意味するラテン語(colere)に由来し,土地を耕す意味で当初用いられていたが,「心を耕す」の意味で用いられるようになり,そこから「教養」「文化」を意味するようになった.語源由来辞典. http://gogen-allguide.com/
編集部より:この記事は晴川雨読氏のブログ2026年10月13日のエントリーより転載させていただきました。








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