小沢一郎氏の失われた16年 - 池田信夫
小沢一郎氏が民主党の代表を辞任しました。これ自体は予想されたことですが、20年前から彼を見てきた者として、ある種の感慨を抱かざるをえません。
最初に彼に取材したのは、彼が自民党の幹事長だったときですが、実質的に自民党のトップであり、彼の発する「オーラ」はすさまじいものがありました。49歳で総裁に推され、それを断ったのは有名なエピソードですが、これは「急がなくても、自分が実質的に権力の中心だ」という自負があったためだと思われます。しかし金丸問題の処理を誤って派閥が割れてしまい、本来は自民党を変えて実現しようとしていた改革を野党でやらざるをえなくなったのが間違いの始まりでした。
私の印象では、自民党時代の小沢氏は「右派」であり、憲法を改正して「普通の国」になり、サッチャー=レーガン的な自由主義改革を実現しようという一貫した理念がありました。ところが1993年に心ならずも結成した連立与党は、およそそういう改革を実現する組織ではなく、このねじれが後々まで尾を引きました。彼は渡辺美智雄氏を引き込もうとしたり、海部俊樹氏を首相にしようとしたり、「保保連立」をたびたび試みましたが、失敗に終わりました。自自連立が失敗したあと民主党に合流して社民的な方針に転換したとき、小沢氏の政治生命は実質的に終わったと思います。
この小沢氏の迷走は、90年代以降の日本経済の「失われた20年」の重要な原因です。彼が政権にいたらどういう財政運営をしたかは仮定の話ですが、かつて梶山静六が打ち出したような抜本的な不良債権処理策を、90年代前半に打ち出した可能性もあります。大蔵省を掌握していた彼なら、小泉=竹中路線の不良債権処理を10年近く早く実行したかもしれない。少なくとも誰が何を決めているのかわからない90年代の混乱した政治的意思決定は避けられたでしょう。こうした「ハード・ランディング」を志向する右派と「やさしい政府」を求める加藤紘一氏のような左派が分裂し、左右の保守政党で政策論争が行なわれる――というのが国際政治の流れに近い。
今の日本が不幸なのは、こうした政策論争の軸が失われ、有権者が選挙で何を選んでいいのかわからないことです。15兆円のバラマキをやった自民党か、20兆円のバラマキを提唱する民主党かというのは、不毛の選択といわざるをえない。小沢氏も、内心ではそういう政策をよしとはしていないでしょう。
ベッカーもいうように、いま必要なのは、保守とリベラルの対立軸を定義しなおし、小さな政府か大きな政府かという問題を包括的に議論することです。小沢氏の退陣によって民主党が保守主義の党になることは期待できませんが、政界再編によってそういう意味のある対立軸が形成されることを期待したい。それには、たぶんあと2、3回ぐらい選挙が必要でしょう。
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