外貨保有高、国連負担金、GDPなどの指標で世界第2位の地位を占める日本は、経済的には世界にそれなりの貢献を果たして来ました。にもかかわらず、世界の指導国の指定席である常任理事国へ加盟の道は極めて厳しいのも現実です。
日本には「何が物事の本質かを議論し、突き詰めた上で」物事を判断する風土がなく「本質とは関係の無い人間関係や過去の経緯などを拠所として」重大な判断をする悪習があります。(注:斉藤健著「転落の歴史に何を見るか」より) この風土が、世界に通じない日本を生み、常任理事国入りにも苦戦する一因でしょう。
経済大国の地位など夢の夢であった1950年。南原繁東大総長はその年の卒業式で、「平和と全面講和」を熱っぽく説きました。この発言に腹を据えかねた単独講和推進派の吉田首相は「永世中立とか全面講和などという事は、言うべくして到底行われない事」であり、「それを南原総長などが、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は、曲学阿世の徒にほかならない」と激しく攻撃したものです。
1950年の流行語となった「曲学阿世」の意味を検索して見ますと「真理を曲げてでも世間の気に入るような説を唱える事」とあります。『曲学阿世』が鳩山邦夫氏の特注用語だったとは知りませんでした。
「バカヤロー解散」や「曲学阿世の徒」などの吉田語録には、何となくユーモアと風格を感じますが、鳩山氏の「冤罪否定発言」、「アルカイダお友達発言」、「ベルトコンベア式死刑執行論」「アメリカ国防省ご馳走ただ食い発言」などには、野蛮さと傲慢さは感じてもユーモアも風格もありません。日本の政治家の質の低下の一例かも知れません。
吉田ワンマン宰相は、毀誉褒貶相半ばした嫌いはあっても、戦後の千路に乱れた国民の気持ちを「戦後経済復興」という天才的な政治課題を掲げて纏め上げた信念の政治家の一人でした。この点が、世間受けを狙って「曲学阿世術」の研鑽に励む昨今の政治家、学者,ジャーナリストとは一味違う処です。
池田先生の「日本の経済学者は何故無視されるのか?」に「日本の政治が政策論ではなく『政局』的な人間関係で決まるので、専門知識が役に立たない。根本的な改革の話をすると『そもそも論はいらない』と一蹴される。官僚にとっては、どんな立派な法案も族議員にOKしてもらわないと意味がないので、『ペラ1枚』でわからない理屈は書かない」という趣旨の指摘がありました。
日本のメデイアは「短く、売りやすい」をモットーに「センセーショナリズム化とタブロイド化」を急速に進めました。メデイアの「ペラ紙化」と言えましょう。世間に媚を売る政治家、学者、評論家の跋扈もペラ紙行政とタブロイド・メデイアが育んだ縮図です。
大金を投じながら、何一つ解決出来ていない国民保険問題や社保庁改革を所管している舛添厚労相の人気が高い理由も、ペラ紙行政と曲学阿世術に長けているからでしょう。
臓器移植法改正を巡る混乱にも、本質論の出来ない政治家の問題が顔を出します。先進各国では、「生と死」の問題に就いて哲学、医学、心理学、宗教学,法学、文化人類学などあらゆる面から焦点を当てて討議を続け、子供にまで考えさせています。
改正法の論議の推移を見ると、「生」とは何か? 「死」とは何か? という人間の本質にかかわる問題を真剣に考えてきた議員の少なさが目立ちます。1997年に衆参両院で膨大な時間をかけて成立した臓器移植法は、1999年に最終改正された現行法に至るまで、紆余曲折を経て来ました。最初の法律可決から12年を経た今日でも「脳死を死と定義するには論議が足りない」とか「社会的合意に至っていない」等、政治家としての怠慢を棚上げして本質とは関係ない論議を声高に叫ぶ議員の姿には、落胆を禁じ得ません。
その間、先進各国では「堕胎」問題を巡る「生命」の定義、母親と「胎児」の権利のバランス、死刑非人道論、安楽死の是非など生命に拘る論議を重ね、時代の流れを反映した価値観の変遷を政治や行政に敏感に反映して来ています。
その結果として、臓器移植手術を海外に頼っている日本に批判が集中する様になりました。日本は臓器の提供そのものが海外に比べて圧倒的に少なく、しかも、臓器提供が認められていない15歳未満の子供の場合、生きのびるには海外に行くしかない現状です。 臓器移植、とりわけ子供を巡る環境は深刻です。
移植学会の資料に依りますと 、米国は主に移植技術がない国や、保険適用がない国を対象に、人道的立場から全体の5%を限度に外国人への移植を受け入れて来ました。ところが、3年前に日本人が枠を独占して顰蹙(ひんしゅく)を買った以降、日本人の受け入れを大幅に制限し、 イギリス、オーストラリアでも移植技術を持ちながら海外に頼る日本人の締め出しが始まりました。ドイツは受け入れを中断する方向だそうです。
臓器の提供不足が原因で、毎年1万人を超える日本の児童が命を失っている事実を見る時、10年以上もこの問題を放置して、その間10万人以上の子供の命を奪った議会の不作為に怒りさえ覚えます。
党首討論の論評にも値しない次元の低さには、ただ呆れるばかりです。不況脱出と経済金融新秩序の構築は、9月のG20サミットの中心課題です。この会議に向けて、各国首脳は自国の権益を守りつつ、グローバル化した経済・金融危機の再来を防ぐべく日夜真剣に討議しています。この問題が党首討論のテーマにも載らない様では、常任理事国入りを考える事も僭越です。
その他にも、未だに混乱の続く国民保険問題、日本特有の介護問題、世界最大の借金国日本の財政再建、通常予算より遥かに大きな特殊会計と言う「国家公認闇金融」など重要問題は山積しています。西川氏の再任問題とは次元の違う重要な構造的問題です。
重大な意見の違いを決闘ではなく、討論を通じて解決するのが議会制民主主義の始まりでした。国家間の決闘である戦争を放棄した日本にとっては、本質を突いた討論能力は、日本の将来を決める重大なスキルです。「曲学阿世術」では世界に対抗出来ません。日本国民が、ペラ紙行政と曲学阿世術に長けた政治家を排除して、本格的政治家を選ぶ時代が一日も早く来て欲しいものです。
ニューヨークにて切歯扼腕しながら
北村隆司
コメント
子供の「脳死」有るいは、脳損傷からの復帰が「奇跡物語」として、広く知られているので、脳死状態での献体素材扱いには抵抗感があると思いますよ。 だらだら先延ばしにしてれば、「再生医療」が確立されれば、問題は解決するw。
これは、ハイブリット自動車についても言えることですが。
>>日本のメデイアは「短く、売りやすい」をモットーに「センセーショナリズム化とタブロイド化」を急速に進めました。メデイアの「ペラ紙化」と言えましょう。世間に媚を売る政治家、学者、評論家の跋扈もペラ紙行政とタブロイド・メデイアが育んだ縮図です。
とのことですが、
いわいるワイドショウ番組に芸能と政治が並列にネタとして取り上げることを、政治の低俗化とみるか、主婦層の知的レベル向上と見るかですね?
ルーテンワークで過労死寸前の亭主や非正規ライン工員の旦那より,家事労働から開放された、奥さんのほうが、知的生産力は高いと思います。
>本質を突いた討論能力は、日本の将来を決める重大なスキルです。「曲学阿世術」では世界に対抗出来ません。
>日本国民が、ペラ紙行政と曲学阿世術に長けた政治家を排除して、本格的政治家を選ぶ時代が一日も早く来て欲しいものです。
舛添要一厚労相は新型インフルエンザが問題になった時、曲学阿世の徒を見事に演じていた。
横浜市内で初めての患者が見つかったとして、市の保健当局者への確認を慎重にせず、深夜1時の記者会見を強行した。この時間は大手新聞の朝刊最終版に間に合わせる、ギリギリの時間だ。
また、5月16日に民主党代表選挙が行われ、NHKのテレビとラジオで生中継を行っていた時にも新型インフルエンザ関連の記者会見をぶつけてきた。
NHKの放送はそれに切り替わった。
舛添要一厚労相はメディア戦略を考えて行動しているのだろう。
しかし、彼が「ペラ紙行政と曲学阿世術に長けた政治家」である、と一層私は意を強くした。
先の在日韓国人の参政権の問題にしても、本記事で触れられている脳死と移植の問題にしても、問題の全体像を見ながら本質的な議論ができない日本人が多いのは確かだと思います。
現代の医療の目的は、西欧の科学的かつ合理的な知識と技術と価値判断に照らして治療と再生を行う事である以上、その基準において「脳死」と判断された子供の臓器を別の子供の治療に用いる事は極めて合理的かと考えます。
もしも日本には日本の価値判断があるべきだというのであれば、臓器が無いと死ぬ運命の子供について、家族と社会がその運命を受け入れるべきだという議論をすべきでしょう。
一番悪質なのは、総論では脳死も臓器移植も反対だが、自分の身内に不幸が訪れた時に限っては是が非でも移植させたいという人と、積極的には何も言わない静かな傍観者ではないでしょうか。
何年か前に10人近くの患者を家族の承諾を得て、安楽死した外科部長がいました。
本人のインタビュー番組を見た時に、それら末期ガン患者の状況を丁寧に、治療を積極的に行わないことに益を家族に説明し了解を得たとのことでした。
厳粛な彼の言葉や態度に、死とまじめに向き合っている事を感じました。
今回の臓器移植法改正について各議員たちの言葉にこの医師のような覚悟をナカナカ感じることができませんでした。
議員たちはある人々にとって命を救う天使でも、そのことで命を奪う死神になります。
そのことをキチンと受け止め法律を審議し制定してゆかねばなりません。
それが選良としての彼らの責務なのです。
「安楽死」と「脳死献体」とを混同するのもどうかと思います。
とくに、乳幼児の脳死(仮死)においては。
再生医療が進歩した場合、臓器提供用の次児出産を越えた献体用クローン出産の可能性もでてくるわけですが、人工脳死死産や人工無脳症児という「誕生」の問題も合理性で納得しますか?
まして、脳死ドナーをいつまで仮死保存するんですかね?
合理性で言えば、適合者優先で国際的な提供情報と貧富の差無く施術されなければならないわけですが、費用は健康保険ですか?
>問題の全体像を見ながら本質的な議論ができない日本人
以前にbobby2009さんは下記のように述べられました。
>「ボトムアップ」とか「すり合わせ」の思考方法は、現代の日本人が意識して行っているのではなく、現代日本の文化的背景から必然的にたどり着いた方法だと考えている
私はこの思考方法により日本人が本質的な議論を行え得ず、システムをデザインすることができない原因ではないかと考えます。
この点をbobby2009さんはどのようにお考えでしょうか?
そもそも、システムをデザインするとき、例外的事例は排除して、あるいは、設計時に想定できない問題は詰み込めないんだから、
場当たり対処やボトムアップの方が得策ってことに遭遇しますよね?
>再生医療が進歩した場合、臓器提供用の次児出産を越えた献体用クローン出産の可能性もでてくるわけですが、
>場当たり対処やボトムアップの方が得策ってことに遭遇しますよね?
これはまさに、個々の事例を個別に考えながら、ボトムアップで全体設計しようとするので、全体の姿や本来の目的を見失い、最後にはそもそも論ができなくなる典型例という事でしょうか。
西欧医学は合理性を価値判断として、生きている人間の治療を外科的あるいは化学的に行う事が主な目的だと思われます。これがアウトラインになるべきです。
技術的な計測手段で脳死と判定されれば、西欧医学においては、それは「死」と同等の意味だと思われます。海馬氏が「奇跡」の話をされていますが、私の知る限り「奇跡」は宗教が扱う分野であって西欧医学が扱う分野ではありませんから、脳死判断の議論に加えるべきものではないと思われます。
>私はこの思考方法により日本人が本質的な議論を行え得ず、システムをデザインすることができない原因ではないかと考えます。
どうして苦手なのかよくわかりません。言語を習得する幼児期に、日本語の場合はシステム的な思考部分が発達し難いのでしょうか。例外はあるにせよ、非常に多くの日本人がこの問題をかかえているという状況は、なにかしら言語との関連性を疑いたくなります。
「システムをデザインすることができない原因」
これはやはり宗教の影響が大きいのではないでしょうか?
西欧では1000年以上前から「神」を中心としたシステムを試行錯誤しながら作って来ました。そこでは人-人の関係よりも神-人の関係が重要であり、地域によって多少の差はあれど合理性を重視したトップダウンのシステムが構成されました。
それに対し、日本では人-人という個々の関係からボトムアップでシステムを構成する文化が優勢でした。天皇の権力がもっと絶大であれば中国のような中央集権的な国になり、トップダウンのシステムが出来たのかも知れませんが、勿論そうはなりませんでした。将軍職もあくまで武家の棟梁的なものであり、絶対君主とは程遠いものでした。この武家の棟梁的な立場は現代の首相に通じるものがあります。
司馬遼太郎氏も「日本では権力の中心は空であった」みたいなことを述べてましたがこれは別の言い方をするとボトムアップであったということになる気がします。
>これはやはり宗教の影響が大きいのではないでしょうか?
>「神」を中心としたシステム…では人-人の関係よりも神-人の関係が重要であり、…合理性を重視したトップダウンのシステムが構成されました。
一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では常に、人間は絶対神との関係で規定されていました。一人一人がこの世に生まれ落ちた目的は、この世で神の御心に沿って生き、そのご意思を成し遂げる、と言うものです。ですからどのように生きるべきか・行動すべきか、についてはコンセンサスが成立しやすい、と言えるでしょう。
しかし日本人にはその背景がありません。
それで全体を見ると言うよりは個々の利害や、思惑で行動する度合いが大きくなります。
>日本では人-人という個々の関係からボトムアップでシステムを構成する文化が優勢でした。
絶対神と関係ではなく、相対的で移ろい易い”人-人という個々の関係”をボトム(ベース)にすればそのシステムは脆弱でしょう。
個々人の考えが時間や力、政策によって変わればその”システム”は途端に陳腐化するでしょう。
興味深いことに憲法9条は冷戦発生によるアメリカの政策変更で、作られてわずか3,4年で時代にそぐわなくなりました。それでもアメリカやアジア諸国、国内の特定勢力の利益にかなうため、今日に至るまで改定されることはありませんでした。
これは”システム”として有名無実(ゾンビ)化しているのに”人-人という個々の関係”で残っている(放置されている)好例です。
つまり、不都合が生じれば全体を見て制度設計をやり直す、のが当たり前なのに、「客が増えて来たので、建て増し建て増しで建物を造って、客が何所にいるのか判らなくなる温泉旅館」のような法体系(システム)に憲法がなっているのです。
>天皇の権力がもっと絶大であれば中国のような中央集権的な国になり、トップダウンのシステムが出来たのかも知れ(ず)、将軍職もあくまで武家の棟梁的なものであり、絶対君主とは程遠いものでした。この武家の棟梁的な立場は現代の首相に通じるものがあります。
そうですね、この国で1000年以上に亘って続いて来た”天皇-幕府”の権力の2重構造は他の社会では見られず、これが日本人の思考をユニークなものにしていると考えます。
この構造は他者が他者にもたれかかるもので、国についての責任を互いが回避するものです。
それで、日本のシステム(権力構造)を研究する人は、
>司馬遼太郎氏も「日本では権力の中心は空であった」みたいなことを述べてました
と結論付けるのです。
「個々人の考えが時間や力、政策によって変わればその”システム”は途端に陳腐化するでしょう。」
その通りだと思います。神-人の関係から作られたトップダウンなシステムその合理性故に人-人の関係には左右されず長期間使用出来るでしょう。しかし移ろい易い人-人の関係から作られたボトムアップなシステムは、その人-人の関係が変わってしまえば使い物にならなくなります。
産業のモジュール型製品云々にも通じそうな話です。
>世界最大の借金国
借金をしているのは政府と自治体で、貸し手=国債などの買い手のほとんどは国内の金融機関や年金基金や国民。そもそも借金「国」という言い方は正しいのでしょうかね。