需要構造と生産性に関する寓話--池尾和人

池尾 和人

『アニマルスピリット』の訳本を読んでいたら、その「訳者あとがき」で山形浩生氏が「でも、いまの日本の不景気は、マクロ経済学理論がアニマルスピリットを考慮しなかったせいで起きているのではない。日本銀行をはじめ経済官僚たちが、従来のマクロ経済学理論--不景気になったら金融緩和しましょうというもの--を普通に適用しなかった(いまだしていない)せいで起きている。」と書いていた。

過去に言っていたことを坊主懺悔したくないということもあるのだろうけれども、2009年時点でもまだこんなことを言っているのですね。前半は正しいけれども、後半は噴飯ものだ。さすがに「インフレ目標」とかいう表現はないけれども...


供給サイドが十分に伸縮的で、需要構造の変化に適切に適応できる状態にあるのなら、総需要だけを問題にしていて構わないけれども、残念ながら、日本経済の現状はそうではない。様々な理由から、資源の再配分が阻害されていて、医療・介護の分野では「不足」が残存したままになっているのであるから、「需要不足」だけが問題の本質ではない。

日本経済に関しては、供給構造のあり方を問わなければ、議論として不足だといわざるを得ない。そこで、その参考のために、ちょっとした寓話を紹介しよう。

いま、機械産業と福祉産業の2部門のみから構成されるミニチュア経済を考える。生産は労働力だけを用いて行われているとし、労働者の総数は200人で、現状においては機械産業に120人、福祉産業に80人が配分されているとする。

機械産業では120人が働くことで、実質GDP120単位分を産出できるとしよう。これに対して、福祉産業の生産性は機械産業の半分しかなく、福祉産業では80人が働くことで、実質GDP40単位分を産出しているとしよう。したがって、この経済の潜在GDPは、120+40=160単位だということになる。

さて、次のような寓話を考えよう。

近年までは、A国が「過剰消費」をしていてくれたおかげで、機械産業の需要は輸出を中心に好調で、需要が120単位あって、フル操業できていた(内需40単位、外需80単位だとしておこう)。ところが、金融危機が起こってもはやA国は「過剰消費」できなくなってしまい、その結果、需要が80単位に減少してしまった(内需40単位、外需40単位)。なお、機械産業の輸出で稼いだ外貨は、食料品の輸入に当てられているとでも思って下さい。

それゆえ、現状では、「需要不足」で、40人が企業内失業状態にある。実現している実質GDPは、80+40=120単位で、40単位のGDPギャップが存在している。しかし、国民はすでに十分に機械を持っており、金融緩和をしても、機械に対する内需が顕著に拡大することはない(例えば、金融緩和をすれば、日本人は購入する自動車の台数を2倍に増やすだろうか!?)。

他方、福祉産業に対しては、潜在的な需要が80単位ある。しかし、40単位しか供給されていないので、実現されている需要は40単位で、「不足」が問題となっている。



現状
 雇用供給需要実現値
機械産業1201208080
福祉産業80408040

福祉産業に対する潜在需要を完全に満たすためには、生産性が現状のままだと、160人の労働者が必要であり、それだけの労働者を福祉産業に配分してしまうと、機械産業に配分できる労働者は40人しかいなくなり、機械産業に対する需要をすべて満たすことができなくなる。どうすればよいのか?

論理的に考えられる1つの解決策は、機械産業の生産性を2倍に引き上げ、40人で80単位の実質GDPを産出できるようにすることである。確かに、これを達成できれば、低生産性の福祉産業の規模を拡大させても、実質GDPの総額を減らさない(貧しくならない)で済む。



解決策1
 雇用供給需要実現値
機械産業40808080
福祉産業160808080

けれども、上記が唯一の解決策でないことは、明らかである。福祉産業の生産性を改善し、機械産業の半分から2/3まで引き上げることができれば、福祉産業の潜在需要を満たすために必要な労働者は120人で済み、機械産業で80人が働くことができる。これによっても、やはり実質GDPの総額を減らさない(貧しくならない)で済む。



解決策2
 雇用供給需要実現値
機械産業80808080
福祉産業120808080

たぶん竹森くんとかが考えていると思われることを、論理整合的に、かつ一番シンプルに示したものが、解決策1である。これに対して、池田さんや私が考えていることを同様に一番シンプルに示したものが、解決策2である。いずれも論理的には考えられないことではないけれども、政策論としては、いずれがより説得的なものであろうか?

解決策1には、少なくとも2つの難点がある。第1は、すでに世界的に見ても非常に高い生産性を誇っている機械産業の生産性をさらに大幅に引き上げ可能か、という点である。日本の機械産業は、乾いたぞうきんをさらに絞るような合理化をすでにやり遂げてきている。その状態から、大幅な生産性の向上を達成することはきわめて困難だと思われる。

これに対して、福祉産業を含む日本のサービス産業の生産性は世界的に見ても低い方であるから、より生産性の高い諸外国に倣うというキャッチアップだけによっても、生産性を改善する余地は大きいと考えられる。この点で、「サービス産業の効率化」という解決策2の方が実現可能性が高いといえる。

第2の難点は、解決策1の場合には大規模な所得再分配(社会保障移転)が必要になる、という点である。かりに労働者1人あたりの所得を均等に保とうとすると、解決策1の場合には、機械産業の所得に6割の課税を行い、福祉産業にそれを再分配しなければならない。というのは、部門間の生産性格差をさらに拡大させる方向での解決だからである。

こうした高率の課税をかけられたときに、いつまでも機械産業は国内に立地し続けるであろうか。高い生産性を上げても、その大半を税金でとっていかれるとすれば、海外移転を検討することは必死である。他方、解決策2の場合には、2割の課税で済む。

したがって、政策論としては解決策2の方が望ましいと判断できる(まあ、人の議論が間違っているとか何とかいう場合は、最低限、ここで議論したくらいの説明をしなきゃね)。

コメント

  1. 池田信夫 より:

    あの訳者あとがきには唖然としました。来週発売の週刊ダイヤモンドの書評にも、池尾さんと同じことを書きました。

    この問題は、意外に根深いような気がします。要するに、金融危機を理解するフレームワークがマクロ経済学にないのです。だから、それを無理やりケインズ理論で理解しようとすると、インフレ目標みたいな変な話しか出てこない。DSGEは、こういうoff-equilibriumの現象については「いつかは均衡に復帰する」という以外は何もいえない。

    アカロフ=シラーもいうように、危機において重要なのは、マクロ指標ではなく金融システムへの信頼です。それは日銀もFRBもわかっているが、それを裏づける理論がないから、マクロ指標しか見ていない経済学者が「もっと通貨をばらまけ」という議論を繰り返す。今月のVOICEで、浜田宏一さんが「日本経済を苦しめているのは日銀だ」と書いているのにはあきれました。マクロ経済学が、microfoundationを厳密に求めるあまり、「健康診断はできるが病人は治療できない医学」になっているのではないでしょうか。

  2. hogeihantai より:

    福祉のサービスを受ける人達は二つのグループにわけられます。現行の公的福祉制度の保険補助金と自己資金で現在も充分なサービスを享受しているグループ。自己資金が無い又は足りない為、公的制度だけでは充分なサービスを受けられないグループ。潜在需要があるのは後者のグループで公的福祉予算を増やさざるを得ません。

    これは増税で賄うか、民主党が主張するよう無駄な公共事業を削るしか方法はない訳ですが、増税で賄えばその分だけ一般消費や設備投資が減り、公共事業をなくしてもGDPはその分だけ減少します。結局、潜在需要があってもサービスの購入資金がなければ、顕在化はせず、他から金を持って来ても取られた箇所の物やサービスが減るのでGDPは不変ではないでしょうか?

  3. kakusei39 より:

     主要な論旨に対するものではありませんが、機械の外需が減って、それまで機械の外需で稼いだ外貨で買っていた食料が買えなくなるはずですよね。
     不足の食糧を、どのように調達するのかは経済で問題にならないのでしょうか。
     比較優位の機械生産で、比較劣位の食料と交換していたから豊かになったと理解していたのですが、比較優位の機械の外需が細ることは、大きな問題ですよね。生産性の低い国内農業生産を再開するのに、機械生産の外需減退で余っている40単位の労働では不足するでしょう。

  4. kakusei39 より:

     主要な論旨に対するものではありませんが、機械の外需が減って、それまで機械の外需で稼いだ外貨で買っていた食料が買えなくなるはずですよね。
     不足の食糧を、どのように調達するのかは経済で問題にならないのでしょうか。
     比較優位の機械生産で、比較劣位の食料と交換していたから豊かになったと理解していたのですが、比較優位の機械の外需が細ることは、大きな問題ですよね。生産性の低い国内農業生産を再開するのに、機械生産の外需減退で余っている40単位の労働では不足するでしょう。

  5. kazikeo より:

    この寓話の国の「現状」では、潜在GDPが160単位あるのに、120単位しか実現できていないのですから、フルに実現できていたときに比べれば、貧しくなっています(要するに、不況に陥っている)。この貧しくなった分が、食料消費量の低下で示されていると理解して下さい。

    (食料,福祉)の組み合わせが、A国が過剰消費してくれた頃は、(80,40)だったのが、「現状」では(40,40)に低下し、「解決案」ではともに(40,80)になります。需要面の選択については、あまり複雑な議論はしたくないので、この国では高齢化が進んでいて、(80,40)よりも(40,80)の組み合わせの方が経済厚生が高いとしておきます。
    --池尾

  6. kazikeo より:

    hogeihantaiさんの質問に関してですが、福祉に対する潜在需要を実現するためには、一定の所得再分配(社会保障移転)が確かに必要になります。しかし、解決策2のように資源の再配分と「サービス産業の効率化」を行えば、120単位のGDPしか実現できていなかった状態から160単位のGDPが実現されるようになっていますから、GDPは不変ではなく、増加しています。

    純粋に所得の再分配を行うだけだとGDPは変わらないはずですが、それに伴って、資源の再配分が引き起こされることになりますから、その資源の再配分のあり方次第で、GDPは増える場合もありますし、減る場合もあります。
    --池尾

  7. kendochorai より:

    供給不足の生産性をあげることや解決策2を否定はしませんがリフレ派への批判についてですが、金融緩和によるインフレ期待の上昇と実質金利の低下によって自然利子率が実質金利を上回れば需要は増えるのではないでしょうか
    それさえも否定するのでしょうか?

    >(例えば、金融緩和をすれば、日本人は購入する自動車の台数を2倍に増やすだろうか!?)。

    とありますが、金融危機で自動車の販売台数は1/2にはなってはいません。
    新興国の需要を取り込んでいくことが大事だと思いますが、派遣など雇用の調整弁を活用すれば供給側の過剰を解消していくことはできるのではないでしょうか